ノート:高麗

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地名の「高麗」[編集]

「(こま)は、高句麗の別名。転じて、日本の地名、姓。」とありますが、「こま」と読まないものも併せて、知る限りでも次のような地名が日本各地にありますね。これをどう記事本文に追加したらよいか判りませんでしたので、こちらに。

  1. 埼玉県日高市大字高麗本郷
  2. 神奈川県中郡大磯町高麗
  3. 京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字高麗田
  4. 大阪府大阪市中央区高麗橋、同東高麗橋
  5. 鹿児島県鹿児島市高麗町

--Taizo 2005年10月28日 (金) 03:19 (UTC)[返信]

本項に入れてみました。--Kstigarbha 2005年10月28日 (金) 03:46 (UTC)[返信]
高麗 (曖昧さ回避)に他の高麗の用法と合わせて2006年4月5日に分割してあります。寒波星人 2006年5月26日 (金) 15:57 (UTC)[返信]
  • 「王を見習って自らモンゴル風の姓名を名乗るものが続出、果ては元への合邦を望む声も出る有様だった。」を書き込むのなら、その根拠となるものも書き込むべきだと思います。--阿修羅 2006年3月23日 (木) 08:10 (UTC)[返信]
ふむ、ソースは後ほど。確認ですが、それ以外の「王がモンゴル名を名乗る」という部分は問題ないんですね?向日葵三十郎 2006年3月23日 (木) 09:06 (UTC)[返信]
返事が遅くなって申し訳ありません。さて、「王がモンゴル名を名乗る」は、「王はモンゴル名も持っていた」の方が正しいと思います。一応、ソースの無い部分は削除します。--阿修羅 2006年4月4日 (火) 02:35 (UTC)[返信]
>果ては元への合邦を望む声も出る有様だった。

これは結構有名な話ですよ。逆にこれに反対して元朝にそのような企てを止めさせるように文章を書いた李斉賢がこれによって文名を挙げた訳です。一応、私の知っているソースと同じ文献(平凡社『アジア歴史事典』)を引用していると思われるこのサイトさんの「李斉賢」の項目をご覧ください--163.139.25.208 2006年4月4日 (火) 02:52 (UTC)[返信]

ですので私は向日葵三十郎さんに、ソースを元にした中立的な観点からの書き込みを提案しているのです。--阿修羅 2006年4月4日 (火) 03:29 (UTC)[返信]
  • 向日葵三十郎さん、問題の部分は「そのような中で忠烈王とモンゴル公主との間に生まれた忠宣王(1308年~1318年)以降、太子は元の宮廷で育てられ、元の宮廷政治に関われるようになる為にモンゴル名も持つようになった。高麗貴族の間では衣服や髪型など、モンゴル風の文化を倣う者まで現れ、1323年には高麗の柳清臣、呉潜らが元への併合を要請したが、李斉賢は諫書を奉り併合を阻止した。」 にしたらいかがでしょうか?--阿修羅 2006年4月13日 (木) 07:20 (UTC)[返信]

「そのような中、忠烈王と公主との間に生まれた忠宣王(1308年~1318年)以降、元の公主を娶るようになり、第一太子は人質として元の宮廷で育てられるようになった。代々の高麗王は元の宮廷政治に関わるために、忠宣王はイジリブカ、忠肅王はアラトトシリといったようなモンゴル名も持っていた。これに伴い、高麗貴族の間では弁髪を結うなどモンゴル風の衣服、文化が流行し、朝鮮の文化に影響を与えた。1323~」というところですか。この時期のモンゴル語からの朝鮮語の語彙への影響を書いていた本があったはずなのですが、見当たりません。向日葵三十郎 2006年4月27日 (木) 15:59 (UTC)[返信]

①忠宣王以降の高麗王がモンゴル名も持つようになったのは、モンゴルが設置した征東行省の達魯花赤を兼任する為の処置だったはずですので「征東行省の達魯花赤を兼任する為」も付け加えて方がよろしいのではないでしょうか?
②朝鮮の文化に影響を与えたモンゴル風文化ですが、チョゴリという語彙(チョゴリ自体は三国時代からあった)以外は辮髪をはじめ、少なくとも李氏朝鮮時代の初期までには無くなっていたのではないでしょうか? ですので「当時の高麗の文化に影響を与えた」の方がよろしいかと思います。
③当時、モンゴル語の朝鮮語語彙への影響は私も少なからず有ったと思いますが、現在、モンゴル語由来と思われる朝鮮語は「チョゴリ」以外知りません。
その他は向日葵三十郎の意見に同意です。--阿修羅 2006年4月28日 (金) 06:36 (UTC)[返信]
リンク先のみ修正されていただきます。--水野白楓会話2012年6月2日 (土) 18:40 (UTC)[返信]

質問です. 世子の忠宣王を元史,高麗史で「益知礼普花」の項目を見ていますが ① の指摘の事項は見当たらないのですが http://ef.cdpa.nsysu.edu.tw/ccw/02/y03.htm http://147.46.181.118/IMAGE/SNUG0638.PDF http://147.46.181.118/IMAGE/SNUG0639.PDF ②当時の高麗の文化に影響を与えた→上の資料では 辮髪令をださなかったが奨励したとあります. 忠烈王四年二月。令境内皆服上國衣冠開剃。蒙古俗剃頂至額。方其形留髮其中一。謂之開剃 他方

世家二十七 高麗史二十七 元宗三 元宗十三年(1272)三月の条 『世子知之 不得已請于 帝国人見世子 辯髮胡服 皆歎息 至有泣者』

ですので あまり歓迎はされていないです

--Lulusuke 2006年5月18日 (木) 11:06 (UTC) 忠宣王はイジリブカ←益知礼普花という表記です(正確には旧字 益知禮普花)--Lulusuke 2006年5月18日 (木) 11:24 (UTC)[返信]

忠肅王←阿刺訥失里という表記です。 上記文献 元史をご覧ください。これらの名前は生まれてすぐありますので、(正確には元の宮廷で育っております) --Lulusuke 2006年5月18日 (木) 11:33 (UTC)[返信]

人質OR質ではなく「禿魯花」が正確です 参考文献 「元朝ケシク制度と高麗王家―高麗・元関係における禿魯花の意義に関連して」(著者 森平雅彦)『史学雑誌』110-2、2001年2月、史学会. --Lulusuke 2006年5月18日 (木) 11:58 (UTC)[返信]


「そのような中で忠烈王とモンゴル公主との間に生まれた忠宣王(1308年~1318年)以降、太子は元の宮廷で育てられ、元の宮廷政治に関われるようになる為にモンゴル名も持つようになった。高麗貴族の間では衣服や髪型など、モンゴル風の文化を倣う者まで現れ、1323年には高麗の柳清臣、呉潜らが元への併合を要請したが、李斉賢は諫書を奉り併合を阻止した。」

-- 忠烈王とフビライの娘の1人 忽都魯掲里迷失(クツルガイミシ)との間に生まれた忠宣王(1308年~1318年)以降、世子は元の宮廷で育てられいる為にモンゴル名忠宣王→益知礼普花、忠肅王→阿刺訥失里、</ref>も持つようになっている。高麗貴族の間では衣服や髪型など、.... WEBでは改名したという嘘が多いのですが、持っていたというのが正しいです。『元史』 --Lulusuke 2006年5月18日 (木) 12:12 (UTC)[返信]

元史 成宗大德   11年春 (1308年)[編集]

瀋陽王の柵封ですが,

「戊午,進封高麗王王為瀋陽王,加太子太傅、駙馬都尉。置皇太子家令司、府正司、延慶司、典寶署、典膳署。己未,封寧遠王闊闊出為寧王,賜金印。庚申,遙授左丞相、行御史大夫塔思不花右丞相。辛酉,汴梁、南陽、歸德、江西、湖廣水。保定屬縣蝗。」

http://ef.cdpa.nsysu.edu.tw/ccw/02/y03.htm

ですので1308年ですね. --Lulusuke 2006年5月18日 (木) 10:52 (UTC)[返信]

忠宣王及び忠烈王へのリンク方法[編集]

高麗が朝鮮と看做してよいか不明ですが 以下の形式で

LINK先を変えてほしいです --Lulusuke 2006年5月18日 (木) 11:40 (UTC)[返信]

保護解除しませんか?[編集]

書けないです。 頼みます --Lulusuke 2006年5月19日 (金) 12:24 (UTC)[返信]

保護解除を依頼します[編集]

書く人間がいません。解除をお願いします。Cool Downしたようです。--Lulusuke 2006年5月19日 (金) 12:23 (UTC)[返信]

向日葵三十郎と阿修羅さんの合意は成り立ったのでしょうか。それならば、保護解除に賛成します。寒波星人 2006年5月26日 (金) 02:28 (UTC)[返信]
曖昧のテンプレート感謝!! これをまっていました。

--Lulusuke 2006年5月26日 (金) 12:39 (UTC)[返信]

現在阿修羅さんと向日葵三十郎さんに合意形成の有無を照会中です。寒波星人 2006年5月29日 (月) 10:35 (UTC)[返信]

向日葵三十郎さんからの反論が無いので、私は保護解除に賛成です。--阿修羅 2006年7月3日 (月) 04:47 (UTC)[返信]

保護解除依頼に解除を依頼しました。--寒波星人 2006年7月4日 (火) 13:53 (UTC)[返信]

阿刺訥忒失里[編集]

忠肅王のモンゴル風の名

まじめにモンゴル風について議論します.[編集]

背景 


忠烈王 (高麗王)

  • 1259年 高麗崔氏政権は打倒され、元に服属。元宗の子(後の忠烈王)元の首都 大都(北京)へ(23歳)

禿魯花ではないが、実質の人質 

  • 1271年 6月 フビライの娘忽都魯掲里迷失(クツルガイミシ)と婚姻の許諾を得る(元宗15年)
  • 1272年 高麗に帰国

http://147.46.181.118/IMAGE/SNUG0638.PDF 57画像目/104画像


  •  高麗史 十五(ソウル大学)世家二十七 高麗史二十七 元宗三 元宗十三年(1272)三月の条
  • 『吾父子相継朝覲..』吾が父子、相い継ぎ朝覲し
  • 『時世子久燕京』時に世子、久しく燕京に留まる。
  • 『世子知之 不得已請于帝 国人見世子 辯髮胡服 皆歎息 至有泣者』世子 之を知り、やむを得ず帝に請う。国の者 世子の弁髪胡服を見てみな嘆息し、泣く者あるに至る

ですので 本人はその気ですけど、流行してではなく国民は嘆いていますね

忠烈王四年二月(1278年)の辮髪令[編集]

令境内皆服上國 衣冠開剃。蒙古俗剃頂至額。方其形留髮其中。謂之開剃

ということは大明の衣冠(1378年)までは約110年間、朝鮮の官吏、学生等は皆辮髮ということになります。 以上のことより

流行したのではなく、法令により定められた

が正しいと思います。流行かもしれませんが、ソースをお願いします。--Lulusuke 2006年6月8日 (木) 12:12 (UTC)[返信]

編集の理由[編集]

元来「高麗」は高句麗の後期における正式な国号であり、当時の日本や中国でも高句麗を「高麗」と称していたため、現代中国では区別のため王氏高麗と呼ぶこともある。

  • 高麗は高句麗の別称であるが、現代中国で高麗を「王氏高麗」と称する場合もあるが、当時(高句麗が存在した時)の日本と中国が高句麗を「高麗」と称したから、いまさら現代中国て区別するため「王氏高麗」と呼んでいるということはつじつまが合いません。現代日本でも高句麗と高麗の呼称はちゃんと区分していますし、中国でも王氏高麗と呼ぶこともあるが、ほとんどの書籍や教科書は高句麗は「高句麗」で、高麗は「高麗」と区分して称しています。

高麗の人口数

  • 1395年の高麗の人口数を322,746人だとして、1985年の東亜日報の記事を根拠に示していますが、これは推定であり、ソウル・開城などの5つの大都市を(京五部)含まない数値で、しかも女性と児童も除いていることから不正確である。また記事の内容で「正確な通計を把握することができない」と書いているのにも関わらず、いっこう平気に人口数の項目に作成していたので削除します。高麗の人口は把握できません。

流動IPさん(118.233.208.11、台湾)からの

  • 何のためにこれを作成しているのか意味不明で削除しています。

(大宋帝國屬國國王高麗國王王仁侃太上日皇春仁親王王仁侃林敬三大帥太上陛下) 

『高麗史』によると、王建の先祖は北方から白頭山を越えて移住して来た高句麗の大族の末裔とされているが、宋の使者である徐兢が1124年に著した『宣和奉使高麗圖經』には、「王建の先祖は、周の武王が朝鮮に封じた箕子胥餘であり、故にその姓は子である」と記録されている。また、2007年に中国の研究者から朝鮮に移住した漢人の末裔という新説も出されている。

  • 高麗の建国過程を説明している途中、いきなり上記の内容が追加され、中国人研究者の新説も出されているそうだと言っていますが、いずれも論外。

弓裔を殺して自ら王位についた。これが高麗の建国である

  • 『高麗史』の記録を添付しました。

歴代の王は宋から派遣される冊封使の承認に依って冊封された後、国王に就く様になった。

  • 高麗王が宋から派遣される冊封使の承認に依って冊封された後、国王に就く様になったという記録はない。
  • 明と李朝とは異なり、高麗と宋は国境を接することなく、海を渡って往来するしかなかった。政変・暗殺・廃立の繰り返しの中で一々に宋から派遣される冊封使の承認を受けたという記録もないし、宋の急変する情勢を考えたら不可能である。
  • 流動IPユーザーからこの一行を書いて根拠やソースの要出典に応じず、今まで音沙汰が無いので削除しております。

宋は漢民族を統一したが、北方の周辺異民族を制する力はなく、契丹は急速に高麗との国境まで版図を広げ、さらに993年から大規模な侵入を行った。高麗はこれに屈し、契丹の属国となる事を誓って赦され、994年から連年朝貢した。1009年に高麗で王が弑逆される政変が起きると、1010年、契丹は不義を正すという名目で介入し、北部諸州を征服した後、首都開城へ迫った。高麗朝廷は将軍・姜邯賛のにより開城を放棄して羅州へ立て篭もるも、契丹軍が1011年1月に開城を攻略すると和を乞うて降伏、契丹軍は開城を焼き払い撤退した。高麗が再び盟約に違反した為、契丹は1013年から1015年まで継続して侵入し、高麗軍は度々破れ大きな損失を被っている。契丹はその年のうちに再再度侵攻した。1016年、高麗が再び宋の藩属国に戻って契丹に背くと、1018年、蕭排押率いる10万の契丹軍が高麗へ攻め込むが、姜邯賛率いる高麗軍20万は、契丹軍の分隊を鴨緑江支流河岸にある亀城で迎え撃ち撃退した。侵攻は1019年まで続いたが、高麗は最終的にこれを撃退した。契丹軍の侵攻は、高麗が請願によって女真族の土地である江東6州の権利を下賜されていながら度々背いた故である。遼の聖宗は、蕭排押の敗戦を受けて本格的な高麗征伐を準備していたが、高麗からの「藩属国となり毎年朝貢を怠らない」旨の謝罪を受け容れ、1020年降伏による和睦を許した。1022年以降、高麗は契丹の年号を用いて朝貢の義務を果たし、契丹が高麗の江東6州領有を許した事で、高麗は鴨緑江沿いの女真族の土地を占領した。

その後、北東地域では女真との戦いが続いた。女真が居住していた江東6州への侵略に際して女真族の抵抗に遭った為、1033年から1044年にかけて北部に半島を横断する長城を築いて報復に備えた。1037年に女真水軍が長城の及ばない鴨緑江を侵したが、この後はおおむね安定を取り戻した。

この後の女真の台頭は著しく、1104年の反撃では女真軍に敗れ略奪を受けている。女真は1115年に金を建て、1125年に高麗の宗主国である遼を滅ぼした。その為高麗は金へ服属し、翌1126年に朝貢した。金は中華帝国となるべく、宋への介入に集中したため、高麗は属国でありながらもそれほど政治介入を受けずに済んだ。国内はおおむね安定し、1145年には現存最古の朝鮮半島史書である三国史記が完成した。

  • 偏った表現があります。編集はまだ行いはしません。
  • 出典・中立的な観点違反・独自研究が含まれて居ます。
  • 太字の表現は皮肉や偏った考え・論調です。

12世紀中頃から、王や文人が政治をないがしろにするとして、武人が政権獲得の気運を伺うようになった。1170年には武臣(軍人)である鄭仲夫がクーデターを起こして国王を廃位し、武臣政権時代が始まる。しかし、他の武臣の反発を招き、鄭仲夫は1179年に暗殺される。その後、慶大升・李義旼が政権を握るが、彼らは崔忠献により暗殺される。崔忠献はその後の武臣同士の内紛も制し1194年に政権を掌握、4代続く安定政権を建てた。

  • 政治をないがしろにする…政治を蔑ろにしたのではなく、武臣を蔑ろにしたので政変が起こったのです。
  • 慶大升は暗殺されたのではなく、病死しました。
  • 崔忠献はその後の武臣同士の内紛も制し…武臣同士の内紛だと言えるほどの争いは無く、政権を握りました。
  • 崔忠献が政権を掌握したのは1194年ではなく1196年である。

忠烈王以降の高麗王の母は、みなモンゴル人となった。

  • 忠恵王・忠定王・恭愍王・禑王・昌王・恭譲王の母后は高麗人である。

李資謙の乱と妙清の乱

  • 李資謙の乱と妙清の乱は高麗の歴史で、文閥貴族という貴族社会の崩壊を招いて、武臣政権時代に入るまでの一連の事件で説明の必要があると考え、追加していますが、妙清の乱はもっと研究して作成する予定ですが、もし妙清の乱や歴史に精通する方がいらっしゃれば、加筆お願いします。加筆依頼しています。--Sinnna会話2015年11月1日 (日) 08:36 (UTC)[返信]