ノート:諏訪御料人

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

創作上の呼称について[編集]

湖衣姫と呼称が広く知られるようになったのは、この呼称を用いた新田次郎の小説がNHKの大河ドラマ化された後である。だが、2007年に由布姫の呼称が用いられた井上靖の小説がNHKの大河ドラマ化された以後、こちらの名前が広く用いられる可能性も否定できないので、取り合えず定義から創作上の呼称は外して、別に章立てしました。--210.196.189.19 2006年1月24日 (火) 00:44 (UTC)[返信]

根拠もなく盛んに諏訪御料人の項目を直している方がいますが、ここはあなたの思い込みを書く場所ではありません。--203.191.235.4 2007年3月2日 (金) 04:25 (UTC)[返信]

編集合戦に持ち込まず、ノートで解決して下さい。双方とも、ですよ。 -- NiKe 2007年3月23日 (金) 09:13 (UTC)[返信]

「由布姫」像について[編集]

「風林火山」での由布姫像ですが、原作小説でも気丈な姫として描かれておりますよね。大河になる以前にも何度も映像化されているわけですから、新田次郎と並ぶイメージの双璧であったのではなかろうかと思いますし、「180度の転換」であるかは疑問かなと思うのですが、いかがでしょ?それと「小説の影響」の節ですけど、実証的な武田氏研究において「最愛の姫」であったかは考察の対象になっていないと思いますし、「通説」なんて存在しないと思うのですが。--でここ 2007年10月23日 (火) 08:32 (UTC)[返信]

梅について[編集]

実名は不詳だが法名から「梅」ではないかと推測されている。

とありますが、この推測が当たっている可能性は低いと思います。おそらく、法名「乾福院殿梅巌妙香大禅定尼」の梅巌が根拠なのでしょうが、信玄の娘である菊姫 (上杉景勝正室)の法名は記事にある通り「大儀院殿梅岩周香大姉」なので、上記の当て推量の理屈でいけば、菊の名前も梅であると推測されてしまいます。なぜ諏訪御寮人から菊姫に道号が受け継がれているのか、単なる偶然や流行なのか、詳しい事情はわかりませんが、実名を反映したものではないでしょう。息子の勝頼の法名「景徳院殿公大居士」のように全て入っている例もあるので、可能性がゼロとは言いませんが… --Askr 2011年9月17日 (土) 03:41 (UTC)[返信]

wikipediaは出典を掲示して執筆していくのが基本です。諏訪御料人の実名を「梅」とする可能性を示している研究が存在するのなら、どなたによるものなのか具体的に文献名を記載して記述してください。私もそのうち調査に参加するつもりですので、どうぞひとつよろしくお願いします。--でここ会話2013年2月3日 (日) 18:23 (UTC)[返信]

遅くなってすみません。結論から先に言うと、「梅」説に関しては、他人に示せるような出典は存在していないだろう、と私は考えているのです。ですから、「梅」説を本文に記載するのも反対です。ただ、この点は少しややこしいので、はっきりしている点から徐々に詰めて私のスタンスを明らかにしたいと思います。

そもそも、諏訪御料人の記事で初めて名前に言及しているのは、差分:諏訪御料人で、「実名は不詳」としています。しかし、差分:諏訪御料人で「法名から『梅』ではないかと推測されている」という記述が追加されています。私が初めて見た2011年の段階ではこの状態だったので、法名から俗名を推測するのは無理だろう、とノートに書いたのです。その後、差分:諏訪御料人で、「本名は(うめ)」と断定するようになり、差分:諏訪御料人で要出典が貼られて、直後の差分:諏訪御料人で、でここさんが削除されたわけです。その後やや編集合戦ぽいものが起きていますが、結局は消えているので、私はこの状態には満足しています。

ここからは私の推測なのですが、おそらく、この話の出所はプロフェッショナルな研究ではないんだろう、と思います。ただ、Googleの検索結果を順番に見ていくと、Wikipediaに記載される前に、「梅」説がネット上で流布されている形跡があり、あるいは、最初に記載した人(61.199.144.185さん)はそれらを見て書いたのかもしれません。しかし、それだけで話は終わらず、どうも2010年ごろに、大河ドラマの武田信玄が、スカパーヒストリーチャンネルで再放送された際に、解説で「梅」説に言及したらしいのです。これまた確かな話ではないのですが、そういう感想を記したブログがあります。これが本当なら、「梅」説は、有料の衛星放送とはいえ、公共の電波に乗ってしまったわけで、これを知っている人が相当数いることは想像に難くありません。

普通に考えると、法名の道号から俗名を推測するのは無理です。強いて言うなら、細かい宗派や僧の好みで、敢えて俗名から字をとるケースもあります。しかし、少なくとも、隣の墓に葬られている保科正直保科正光の法名は俗名と共通する文字がひとつもありませんから、寺の方針でないことは確かでしょう。

こういう一般的でない推測がネットとテレビで多発的に自然発生するとは考えにくいので、おそらくこの説のルーツは1つなんだろうと思います。そして、さらに推測を重ねると、テレビ局がネット論客の意見を鵜呑みにして解説を作成するとも思えません。すると、出典として最も疑わしいのは、この説を5年間掲げていたWikipediaではないでしょうか。イソップの童話みたいな話ですが、この説がある程度広まってしまった責任の一端はWikipediaにあると思います。だからこそ、堅い出典を明記するのが重要になってくるわけですけどね。--Askr会話2013年10月23日 (水) 17:02 (UTC)[返信]

竜芳の場合[編集]

Askrさんがいう菊姫の例もあるが、しかし海野信親(竜芳)の場合、法名は長元院殿釈潭竜芳大居士だから、法名に名前が入っている場合もあり、否定する材料にはならない。そして肝心の「法名から名前は梅と推測される」という説は、確か平山優の文庫か、柴辻俊六の著者に書いてあった記憶がある。これは出典にならないのか?--投稿記録/203.145.122.158 2013年2月3日 (日) 19:55 (UTC)[返信]

出典が確認されれば記述は可能です。平山氏の文庫とは『川中島の戦い』のことでしょうか。手元にあるのですが、諏訪侵攻の部分を見ても実名に関する記述はありませんでした。--でここ会話2013年2月3日 (日) 20:27 (UTC)[返信]
コメント 203.145.122.158さんのおっしゃる竜芳の件は、本件を否定する材料にも肯定する材料にもなりません。まずはwikipedia:独自研究は載せないというwikipediaの理念の根幹に関わる事項をしっかりと理解し、一個人の記憶ではなく実際にwikipedia:検証可能性を充たしてから投稿願います。--ジャムリン会話2013年2月11日 (月) 19:14 (UTC)[返信]
その理屈でいうと、武田信玄の法名にも「信玄」が入っているから、否定する根拠にはならないことになってしまいます。そもそも、戒名とは何かという話になりますけれど、「信玄」や「竜芳」は出家して具足戒を受けたときの戒名(法名)だから、墓石や位牌に記載する戒名に入っていて何の問題もない、としか言いようがありません。むしろ、同一でないと困ります。そもそも、私はわざわざ武田勝頼の例を挙げているのですから、「梅」である可能性がゼロだとは思っていません。明確な根拠がない、というだけです。ただ、まあ、勝頼は、死後かなりの時間を経て、武田家を滅亡させた徳川家の主導権の下で供養が行われているので、かなり特殊なケースだとは思いますけれど。--Askr会話2015年3月20日 (金) 19:47 (UTC)[返信]

梅について[編集]

この一連の梅説は、学研M文庫の近衛龍春著書の武田家臣団って本に書いてありました。実名は梅ではないかと推測されるとね。これはちゃんとした出典になるのではないでしょうか?--サトルステギ会話2014年8月17日 (日) 07:32 (UTC)[返信]

戦国期における法名と実名の関係といいますか、法名から実名を推定する研究って、どれだけ実証的に行えるものなのでしょうか?諏訪御料人に限らず、他の同時期の戦国期の女性の実名と法名の関係を論じた論文や文章は私には不案内で、法名から実名を推定する論法が妥当かどうなのか、判断が付きません。--でここ会話2014年8月17日 (日) 13:07 (UTC)[返信]

「湖衣姫」の出典[編集]

新田次郎『武田信玄』の「湖衣姫」について、無出典で「諏訪湖とそこに流れ込む衣之渡川に因む」とありましたが、新田自身は『武田信玄 林の巻』(第2巻)の「あとがき」で「湖衣姫とつけたのは諏訪湖に流れ込む六斗川の河口に衣ヶ崎という地名があることからヒントを得たものである」と明言しています(念のため、衣之渡川と六斗川は別の川です)。--Sorafumi会話2019年10月13日 (日) 13:59 (UTC)[返信]