ノート:西郷隆盛

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西郷隆盛の経歴を個人で書くのは無理[編集]

現在の西郷隆盛の内容はあまりにも貧弱である。かく批判する私も、西郷を一人で書くほどの自信がない。西郷の生涯は幕末・維新史そのもので、書けば膨大な量にのぼる。そこで提案であるが、安政の大獄あたりから1年ごとに項目を設け、各人が少しずつ書き加えて完成しようではありませんか。賛成者がいたら意見を書いて下さい。さすれば、私も微力ながら手伝いたいと思います。2005年8月13日

項目とはなにのことでしょうか。意味がとれませんでした。それから、ノートページには署名をお願いします。~~~~と書くとセーブ時に日付入り署名に変わります。どなたの発言かわからないと議論が混乱しますので。よろしくお願いします。--Aphaia 2005年8月13日 (土) 14:41 (UTC)[返信]

項目と書いたのは目次のことで、目次の1.経歴を細かく年ごとに分割して書こうという主旨です。桐野利秋・篠原国幹・村田新八・永山弥一郎・池上四郎・淵辺群平等をこの7月頃から8月にかけてまとめて書いたのですが(本来は祖先にあたる池上四郎だけを書こうと思ったのですが、他があまりに貧弱な内容だったので、ついバランスをとるために村田その他も書いてしまった。余計なことをするとお怒りの方もいらしゃると思いますが……)、これでもかなりセーブして書いたつもりです。同様の程度でまとめて書いたら西郷は膨大になります。しかし、それでないと百科事典としての用をなさないと思います。2005年8月13日木村秀海

お返事ありがとうございます。ご趣旨了解しました。おっしゃるとおり、経歴のところはさらに章立てしてそれぞれをもう少し書き込んだほうがよいように思います。これは提案ですが、とりあえず、現在あるものを斉彬公在世時・幕末・維新後くらいに割ってさらにその中を書きつつ分割をほどこしていくというのはいかがでしょうか。
量の問題ですが、事跡の大きい人物はどうしても項目が長くなります。最近みたものでは源頼朝などが比較的大きかったでしょうか。大きな項目のサイズや章立ての目安としてごらんいただけば幸いです。


また、話は変わりますが、よろしければログインもご検討ください。編集上便利な機能がいろいろついて参ります。--Aphaia 2005年8月13日 (土) 17:24 (UTC)[返信]

ごくおおまかな区分ですが、西郷隆盛の経歴に

幼少時代、郡方書役時代、斉彬時代、大島潜居と沖永良部島遠島前後、禁門の変・第1時長州征伐前後、薩長同盟前後、王政復古前後、戊辰戦争、藩参政時代、政府改革と留守政府、征韓論前後、下野生活と私学校、西南戦争前、西南戦争1(田原坂・熊本城長囲戦)、西南戦争2(人吉攻防戦)、西南戦争3(宮崎攻防戦)、西南戦争4(延岡攻防戦)、西南戦争5(可愛嶽突囲)、西南戦争6(城山攻防戦)

という項をあらかじめ立て(項名も書く人が適宜で変更するという前提で)、各人が書けるところから書いていくというのでいかがでしょう。

同様にWikipediaの「西南戦争」も目次の経過に

火薬庫襲撃事件・西郷刺殺事件、私学校本校大評議前後、川尻の遭遇戦、熊本城長囲、田原(田原坂)・吉次方面、山鹿・木留方面、川尻・八代方面、御船方面、豊後竹田方面、三田井方面、人吉方面、大野方面、大口方面、鹿児島方面、都城方面、宮崎方面、延岡方面、可愛嶽突囲、城山籠城

と項を立てもっと詳細に書き直したらよいのではないかと思います。私は紀元前10世紀から紀元頃までの中国史が専門で、日本近代史の分野は全くの素人です。子孫用に「池上四郎年譜」という先祖の行状を記した論文を書き残しておくために2年以上かけて百数十種の本と論文・公文書・国会図書館の貴重図書(未翻刻書簡)等を調査したのですが、目的が通常と異なるために、私が読んだ資料は池上四郎関係のものに偏っているという如何ともしがたい欠陥があります。そこで各人が西郷隆盛や西南戦争について御存知の部分を書いてくださったら、自分の知っている範囲内で少しは書き加えなどができるのではないかと考えて、このような提案をしているのです。木村秀海 2005年8月14日 (日) 11:34 (UTC)[返信]

ちょっと本筋から外れる書き込みで申し訳ありません。ご本名で登録して専門も明記しておられますので、プライバシーの侵害ではないと判断して書き込ませていただきます。関西学院大学の木村先生ですよね。専門の研究者として資料読解や過去の論文の取捨選択のトレーニングを積んだプロの研究者の方のウィキペディアへの参加は、参加者の一人として非常に心強く感じます。私は生態学の研究者ですが、以前学芸員として地域の社会教育に携わっていたこともあり、プロの研究者の方の専門的知識や分析技術と、そうではない方の疑問・関心が交流、接触する部分で、何か新しい展開が生まれることに強い関心を抱いてきました。ウィキペディアもそういう場であって欲しいと願って参加しております。御参加深く歓迎いたします。雑文失礼致しました。--ウミユスリカ 2005年8月14日 (日) 12:31 (UTC)[返信]

あらためまして、ウィキペディアへようこそ。ご提案の方向はウィキペディアでも比較的浸透している手法で、抵抗なく受け入れられるのではないかと予想します。項目を改変して、おはじめになってはいかがでしょうか。--Aphaia 2005年8月14日 (日) 12:43 (UTC)[返信]

ご質問のように関学の木村です(利用者登録したので自己紹介はそちらを)。まだ使い方がよくわからないので、目次の書き改め方を教えて下さい。木村秀海 2005年8月14日 (日) 17:03 (UTC)[返信]

ご紹介拝読しました。さっそくですが、見出しは ==見出し==のような書式で行頭に書きます。=の数を増やすことで小見出しを深くしていくことができます。

==見出し==

===中見出し===

===中見出し2===

====小見出し====

と書くと  

見出し[編集]

中見出し[編集]

中見出し2[編集]

小見出し[編集]

このように表示されます。

見出しのタイトル名をかえるには、==で囲った中の文字をかえ、セーブします。このほかウィキ独特の表示記号についてはProject:編集の仕方に案内がございます。ですが、各人で直しあうことができるというのが長所ですので、気にせず文章を書いていってくださるのがよいのじゃないかと思います。

ご提案の見出し案を項目のほうに反映させてみました。いくつかはいまある文章からみると細かくなってしまうため、コメントアウトで隠し見出し(<!-- -->で囲うと表示されなくなります)にしてあります。執筆される方が適時表に出していってくださればと思います。

各人で書いていくということでしたら、歴史好きの方々に陽に呼びかけてみるというのはいかがでしょうか。たとえば、歴史項目を主に書く人たちのためにコミュニケーション用のページがありますので、そこで呼びかけてみるというようなことができるかなと思いました。 --Aphaia 2005年8月14日 (日) 21:00 (UTC)[返信]

元服に関する情報[編集]

「幼少・青年時代」の項目には、隆永を名乗った元服の時期や烏帽子親などの情報を入れたいですね。どなたか情報を持っておいででしょうか。--ウミユスリカ 2005年8月15日 (月) 10:30 (UTC)[返信]

書き入れと訂正についてのお願い[編集]

本職用の論文の気休めに書いているので、遅々として進みませんが、エピソードという項目を立ててみました。経歴の部分は何年になにをしていたということを御存知でしたら1行でも書くという形で加えていったらいかがでしょう。全体の流れは気付いた人が直せばいいのですから。私は「西郷家の女たち」という本を読もうと思っていながら、暇がなくて読んでいないのですが、読んだ方はそれを参考文献に入れて、内容を反映していただきたい。伊集院兼寛の姉についての訂正は感謝しています。どしどし手を入れてください。木村秀海 2005年8月16日 (火) 07:31 (UTC)[返信]

日付[編集]

記事中に詳細に日付が入っておりますが、これは旧暦でしょうかそれとも西暦に換算したものでしょうか。ウィキペディアでは一般に西暦を用いますし、冒頭の生年月日・没年月日は西暦によるものなので、本文中が旧暦による日付でしたら、そのことを冒頭段落(かまたは経歴の出だし)で断ったほうがいいように思います。いかがでしょうか。--Aphaia 2005年8月19日 (金) 03:53 (UTC)[返信]

年月も日付も明治6年正月元旦から新暦(西暦)を用い、それまでは伝統的な旧暦の年・月・日を用います。さもないと、これを見ながら当時の書物や文書・日記・書簡などの資料を見たり、調査したりする時に利用ができなくなります(原資料はいずれも上記の記日法で書いてあります)。現時点で二重に期日をつけるのは大変な作業です。旧暦を新暦に換算するサイトもあるので、それを利用して( )で書いてくれる方がおられたら助かるのですが。とりあえずはご提案通り冒頭に注意を書いて置きます。木村秀海 
注記ありがとうございます。新暦換算は、ぼちぼち人海戦術でやっていきましょう。--Aphaia 2005年8月19日 (金) 15:42 (UTC)[返信]
冒頭のような注意書きは本記事だけに関わらず、すべての歴史的事象に関する記事についても言えるので、テンプレートがあれば便利なんですけどね。私も旧暦で書くことが多いので。ここに書くことじゃないとは思いますが。。。Boa 2005年8月20日 (土) 00:54 (UTC)[返信]

こんにちは。脇から失礼します。私も記事を書きながらひそかに何度も悩んでました。中国などでも1912年の清朝の滅亡(グレゴリオ暦2月12日)までは太陰太陽暦を用いていますしね。私自身は基本的には当時使っていた暦を使い、見出しや節目の部分などに当時の暦の日付にグレゴリオ暦を但し書きすればいいと思っていますが、どうやら問題は大きそうで、歴史ポータルあたりで議論すべきでしょうね。Aboshi 2005年8月20日 (土) 05:36 (UTC)[返信]

歴史ポータルあたりで議論して、スタイルマニュアルに反映させていただけるとうれしいですね。あと、個人的には西暦(旧暦)と旧暦(西暦)の二つの順序があちこちが混在しているのも気になっています。個人的にはどちらでもいいので統一見解があるといいなと思ってます。--Aphaia 2005年8月20日 (土) 05:42 (UTC)[返信]
新参者の意見ですみませんが、西暦(旧暦)のほうがいいと私は個人的に思います。歴史の中で旧暦→西暦へと移り変わる部分がありますよね。そうしたらそこから先の現代のところ、皆さんつけますか、旧暦。つけないのではないでしょうか。ということは、現代まで統一使用できる西暦をかっこのなかにいれるのは不便かなと思うんです。たしかに日本史の中では旧暦のほうが多いのですが、年号が細かくわかっているのは西暦かな、と思うので。--365日生きる人会話2021年10月3日 (日) 09:38 (UTC)[返信]

西郷さんの思想?[編集]

こんにちは。急速に西郷隆盛の記事が整備されていくありさまに目を見張っております。さて、無知を恐れずに申し上げるのですが、西郷さんといえば「敬天愛人」に代表されるようなその人柄と思想で、同時代から現代に至るまで多くの人に愛されている人物です。ただ、西郷の場合同時にそのあたりが茫漠としている感じを多くの人が持っているかと思います(そのあいまいなところがまた人気の理由になってそうですが)。そこで、先行研究などを踏まえて、一項を設けて西郷の思想面などについて記述がされればなどと考えているのですが、いかがでしょうか。

例えば江戸時代後期の儒者・佐藤一斎の影響を強く受けているという話を聞きますが、そのあたりの伝統的知識などがどうつながっていくのかなどが非常に興味があります。本件は一介の勤労者である私の手には負えるものではなく、あつかましいのですがみなさまへの加筆の期待ということで書いてしまいます。(私の地元は渡辺崋山が家老を勤めていた藩のあったところですが、その崋山が画論に明末清初の思想家・顧炎武などの名前を出されたりするとどうつながるのかとまどってしまい、西郷の記事がうまくいけば参考にしてしまいたいなあなどと企んでいます)Aboshi 2005年8月20日 (土) 06:01 (UTC) 西郷先輩[返信]

記日法と思想、および記事の長さについての質問[編集]

中国・日本・イスラムの場合、西暦に換算すると、年も含めてずれる場合が多いですが、旧暦さえ書いておけば、新旧暦換算用の書物(サイトも)が何種類もあるので、西暦に精確に直せます(慣れればだれでもできます)。一旦西暦記日法に直して書いてあるものは、その換算が正しくなされていなかったら、原資料を読む場合に支障をきたします。歴史を小説だけで読み、楽しむ場合は別ですが、すこし深く原資料(原典・公文書・書簡も専門書店。サイトでも簡単に手に入れられる環境がととのいつつあります)も見てみようという人には西暦換算してある事典等は不便どころか、役にも立ちません。したがって、記事には年と特別に必要があると考えられる月日(見出し、重要事件等)だけに()で西暦記日を付記し、他の月日は全体用に注記してたうえで旧暦で書くのがよいのではないかと思います(「凡例」か「例言」という一項を立てるのが最もよい方法ですが…)。正式の論文等(現代史を除けば)では注記もなしに年だけに西暦を付記するのが一般的だと思います。これが一番便利です。また歴史小説や歴史評論でもそのようにしていると思います。統一見解を作るべきという意見には賛成します 思想についてもぜひ書きましょう。とりあえず節を作っておきます。ただ論争の場になる危険性も孕んでいますので、中立的立場を維持できる人に書いてほしいですね。特に人物評価の揺れている場合には。

ところで質問ですが、今、西郷隆盛の経歴は三分の一ほどしかできていないのですが、どのくらい長く書けるのでしょうか。また長くなった場合にはどうしたらよいのでしょうか。とりあえず経歴をいくつかの節に分けておきます。私はなれていないので、この方面はよくわかりません木村秀海 2005年8月20日 (土) 09:12 (UTC)[返信]

はじめまして。プロの研究者のご参加、頼もしく思っております。項目の長さについては、特別ページ中の長いページでランキングがありますのでご参照下さい。上位はほとんど一覧記事ですが、一番分量の多いもので、和紙クレヨンしんちゃんクラスの約3倍になり、英語版にはさらに3、4倍というとんでもない分量のページが存在します。事実上上限はないものとお考え下さい。(サーバへの負担、可読性などはまた別問題でしょうが)
項目の内容があまりに長くなりすぎて一覧性に欠ける、と判断されるようなら、分割という手段もあります。wikipedia:著作権#ウィキペディアにおけるコピー・アンド・ペーストによる方法で、記事を分割することができます。--Charon 2005年8月20日 (土) 09:34 (UTC)[返信]

桂久武日記についての新聞記事に関する質問[編集]

桂久武(右衛門)は西郷の真の親友として知られていますが、この1、2ヶ月以内の朝日新聞に、薩長同盟時の桂久武の滞京日記が見つかり、その中に21、22日には坂本龍馬が現れず、裏書きは後で書いたのでは云々という記事があったと思うのですが、内容を覚えておられる方、もしくは切り抜きをお持ちの方がいらっしゃったら、内容をお教え下さい。私はそのころには西郷隆盛を書くようになるとは思わず、池上四郎が出てくるかも知れないので、出版されてから買って読もうと思っていた程度でしたので、内容もうろおぼえです。よろしくお願いいたします。木村秀海 2005年8月21日 (日) 17:28 (UTC)[返信]

人名の書き方についての質問[編集]

例えば、西郷従道を西郷信吾でも引いて出てくるのには西郷従道西郷信吾)と書く以外に方法はありませんか。中国人の場合にも白居易(楽天)は、諱の居易より字の楽天の方が有名ですが、どのようにしたよいのですか。北村重頼も通称の北村長兵衛の方が近藤勇などと戦った新撰組関係の小説には多いように思いますが、……。木村秀海 2005年8月26日 (金) 15:51 (UTC)[返信]

それは、一人の人物に複数の呼び名が対応する場合に、そのうちの一つ(仮に名前1とします)を項目名として採用していて、それ以外の名前で検索ないしはリンクしたときに、名前1という項目にたどり着くようにするということでしょうか?でしたら、リダイレクトという機能を使えば実現できます。具体的には、リンクさせたい名前のページに
#REDIREDT [[名前1]]
とかいておけばよいです。
細かい点についてはWikipedia:リダイレクトをご参照ください。yhr 2005年8月26日 (金) 16:04 (UTC)[返信]
確かにこのリダイレクトです。ありがとうございます。木村秀海 2005年8月27日 (土) 10:08 (UTC)[返信]

著作権、引用[編集]

海音寺潮五郎の引用をされていますがまだウィキぺディアでは著作権あるものを含めて議論中で将来削除される可能性もありますことお含みおきください。Wikipedia‐ノート:著作権/引用についての抜本対策 Izayohi 2005年8月28日 (日) 23:30 (UTC)[返信]

ご注意、ありがとうございます。出典と引用文であることを明確に示したうえで引用した書簡の現代語訳は、海音寺潮五郎氏が著作中で全文訳している書簡の20%にもおよばないので、これ自体が著作権に関わるとは考えられません。ただ、書き替えも可能、複写後の改変使用も可能という、このウィキぺディア特有の性質から考えると、後で誰かが引用部分を書き替え、著作権に抵触する場合が有り得ます。よって、書き改めます。

西郷隆盛の経歴の終了[編集]

やっと経歴を書き上げました。テーマごとに歴史評論風にまとめるか、年譜と伝記の中間のようにするべきかは書いている途中に何度か迷いましたが、後者の方が種々の利用法があると思い、そうしました。私たちが人名事典を引くときは、何も知らないから引いて基本的な知見を得ようとする場合もありますが、大抵の場合はもっと詳細に知りたいと思って引くのが普通です。しかし、ほとんどの場合、基本的なことだけ書いているか、大きな問題だけしか書いていません。そこでやむなく伝記とか年譜を読むはめになります(年譜などは専門家でもないと捜せない場合があります)。これは人名事典も含めた諸事典の集大成である百科事典の場合も変わりません。

私はこの点についていつも不満を持っていました。もう少し何年に何をしていたかがわかったら、利用者に便利であるのにと思っていたのです。ですから、この西郷隆盛の項を借りて、年譜と伝記の中間ぐらいの形で経歴を書いてみました。これが諸氏の意にかなうかどうかはわかりませんが、便利になったことは間違いないでしょう。この形の記述は、日付を入れるので文が書きにくい、淡々とした記述になってしまうなどの欠点はありますが、誤りや新発見があった場合に書き改めや書き加えが簡単であるという長所もあり、やや大きな人名事典としてはかえって長持ちするのではないかと考えています。

今回の記述中には2つの新しい事実が盛り込まれています。1つは別府晋介の朝鮮派遣のことで、池上よりあとに北村重頼少佐・河村洋与少佐とともに出掛けたことが国文書で確認できました。これは同文中に書くときの順序に反映させました。もう1つは、西郷が官位を剥奪された日がわかったことで、これは追贈に書きました(実物で確認したい方はアジア歴史資料センターのリファレンス番号を文献の欄に書きましたので、ネットで御覧下さい)。これも公文書で確認できたことで、新発見でしょう。本百科事典から広がっていくことを期待しています。

期待といえば、その他の部分をだれかが書いてくれることを期待しています。私は9月から校務が忙しくなって、冬休みにしか本格的には書けないので、よろしくお願いいたします。西南戦争の項も来年の春頃まで残っていたら、努力してみたいと思っています。木村秀海 2005年9月5日 (月) 17:14 (UTC)[返信]

力作執筆、お疲れ様でした。ある意味、人物記事の到達点というか目指すべきスタンダードのようなものが示されたのではないでしょうか。私も様々な関心分野の記事の物足りない点、俗説に流されている点をあちこち微修正しているに過ぎない状態ですが、いずれきちんと資料収集できる立場にある分野に関して、レファレンスも充実させて完成度の高い記事を書くことを目指さねばと襟が正される思いがしました--ウミユスリカ 2005年9月5日 (月) 22:47 (UTC)[返信]


勝海舟との初対面の時期について[編集]

勝海舟のWikipediaのページでは初対面は長崎海軍伝習時代となっています。 どちらが正しいのでしょうか? --ミズクサ 2006年6月6日(火) 逆に、海軍伝習時代という説以外にはどんな説があるのですか?--365日生きる人会話2021年10月3日 (日) 09:43 (UTC)[返信]

冒頭概略文をつくりました[編集]

本文がウィキペディアの項目としては非常に長大なため、ごく簡単に西郷について知りたい人のために2005年2月13日 (日) 16:31の文章を復帰し、文意が通るように一部補正しておきました。長文項目の多い英語版ではわりあいに行われている手法です。より深く知りたい人は本分に進むという具合です。なお、あくまで冒頭の概略文なのでこれは節には分離するべきではないと思います。また、この部分ではごく簡単に西郷の生涯を解説するので、細かいことは加筆しない方がいいでしょう。--味っ子 2007年1月25日 (木) 13:27 (UTC)[返信]

江戸開城がパークスの圧力であるとの断定的な記述になっていますが、論争のある問題で、冒頭文で書く内容ではないと思います。ここでは、単に勝海舟との交渉で無血開城を導いたという事実だけを記載すればよく、その背景など詳細はそのあとで書けばよい話です。--Huemat 2010年8月9日 (月) 11:16 (UTC)[返信]

非常に充実した記事だと思います[編集]

編集者の方の間で、ある程度記事がまとまったと判断なさったなら、いつかWikipedia:秀逸な記事の選考にだしてみることをおすすめします。過去には以下の記事が選考にかけられているので、記事の仕上げの際の検討材料になさってみてください。

秀逸な記事の目安については、Wikipedia:秀逸な記事の選考に記されています。僭越ながら期待申し上げております。--ZERO 2007年3月7日 (水) 23:57 (UTC)[返信]

まだまだ秀逸な記事ではないと私は思います。Wikipediaレベルでは秀逸な部類にはいるのかもしれませんが・・・。場所を#テロ活動?に移動します。 SeraphGood 2007年9月30日 (日) 02:44 (UTC)[返信]

テロ活動?[編集]

西郷隆盛#概要(倒幕)

テロ活動(江戸や近辺の放火・強盗による人心攪乱)を行わせ

とありますが、武士同士の戦いである以上、表現そのものが不適切であるし、実態としてもテロ活動ではあり得ないと思います。 SeraphGood 2007年9月30日 (日) 02:44 (UTC)[返信]

広辞苑には「テロル」の説明として「テロル【Terrorドイツ】(恐怖の意) あらゆる暴力手段に訴えて政治的敵対者を威嚇すること。」とあります。この事例はこの定義に逸脱するものではないように思えます。放火や強盗によって被害を受けるのは町人であり、この部分に限っては士道に基づいた武士同士の戦いとは思えませんがいかがでしょうか。--Tokyo Watcher 2007年9月30日 (日) 04:53 (UTC)[返信]

「士道」? いきなりとんでもない展開になってしまいましたね・・・。「あらゆる暴力手段に訴えて政治的敵対者を威嚇すること」・・・もっぱらこれをやっていたのが「士道」「(近藤勇み・土方歳三への)誠」なるものを標榜していた新選組新選組に心情的に加担しているような方たちが、新選組側を敵視していた西郷隆盛の記事を編集するってこと自体、基本的に無理な話だと思います・・・。
また、アメリカ兵が、アフガニスタンやイラクという他国で、敵(テロリスト)らしき者たちに向けて銃撃したり爆撃したりして、アフガニスタンやイラクの一般市民に大量にとばっちりを出していても、通常、それを「テロ活動」などとは言わないし、言えないという現在進行形の実例から、表現の適・不適は自ずからわかると思います。分節化します。 SeraphGood 2007年10月1日 (月) 12:15 (UTC)[返信]

どちらがテロ的粛正を行なっていたか?[編集]

放火や強盗や暗殺や拷問やテロ活動って、実際には「士道」なる意味不明のものを標榜して内にも外にもテロ的粛正に狂っていた新選組や幕府側の専売特許だったと思います。まともな「武士道」ではないからこそ、「士道」などと表現していたのではないかという気がします。実際、人を殺して成り上がろうとしているわけだから、まともな「武士道」は邪魔でしかなく、「士道」なるテロ的粛正精神」をもって来ざるを得なかったんだろうなという感じです。司馬遼太郎らの新選組びいきが書いている小説は、事実とはかなり露骨に異なっており、率直なところ、とんでもないフィクションばっかりに過ぎません。あの手のフィクションに騙されたら、人間性そのものが昭和戦前の軍人同様おかしくなってしまう危険性があると思います。だいたい、封建時代なのですから、幕府側の襲撃集団じゃないと、テロ活動は極めて有害無益であり、また、極めて不可能です。また、テロ活動と言えるような性質のものを薩長土の志士側がやっていたら、維新は到底あり得なかったでしょう。例えば、禁門の変自体は極めて短時間で終わり、生き残っている長州兵はとっくの昔に大阪に落ちのびているというのに、長州兵の残党狩りと称して「どんど焼き」と呼ばれる放火を京の町で三日間やりまくったのは新選組をはじめとする幕府側です。相手の隠れる場所をなくして、状況を分かりやすくするというのは兵法の基本ですが、そういうことを庶民の住む町中でやれたのは幕府側だけです。一般庶民に迷惑をかけるような放火や強盗を安政の大獄以来命をつけねらわれている志士たちがやれば、志士側にとっては有害無益もいいところです。大体、そんな必要性がありません。薩長土側の志士たちは、脱藩している者たち含めて、強盗をやらなければならないほど誰も金銭に困ってはおりません。薩長は余裕で他藩の志士たちを匿(かくま)っています。自分たちが一般庶民を味方にしておく必要性が絶対的にあるのに、わざわざ一般庶民を敵に回し、自分たちの隠れ場所や密会場所を自分たちでなくし、自分たちの動きをわざわざ悟られやすくしてしまうなどということは、とても考えられないし、極めて有害無益です。基本的にあり得ない話です。自分たちを捕縛する口実を幕府側にわざわざ与えるようなことを自分たちのほうからわざわざやっていたら拷問や死が待っているだけであることも最初から自明です。藩にも迷惑がかかります。自分の家族にも大迷惑をかけます。もともと志士側は、安政の大獄以後、恐怖政治(国家テロ)をやらかしている者たちやそれに積極的に加担している者たちを敵討ちの趣旨で斬奸状を付して晒し者にすればよいだけの話です。敵討ちそのものは幕府に公認(推奨)されています。敵討ち的斬奸だけで薩長土側の志士たちは、幕府の権威を簡単に失墜させることができました。そして、それだけで幕府を弱体化させ、幕府に方針転換を促すことができました(例えば、桜田門外の変坂下門外の変)。あとは、幕府(朝廷の軍部)が奪った格好になっている国政の権能を朝廷に元通り返還させれば、自動的にかなり根本的な国政改革が起こるし、起こらざるを得ない(水戸学橋本左内吉田松陰)・・・というところでしたが、幕府(軍部)は、異勅でバカげた安政不平等条約を結んだだけではなく、朝廷にまで介入して恐怖政治・国家テロをやらかすような異常な抵抗勢力だった・・・そして、ややこしいことに、幕府という抵抗勢力を倒そうとした薩長土内にも強力な抵抗勢力がいた・・・これが歴史の大枠です。 SeraphGood 2007年10月1日 (月) 12:15 (UTC)[返信]

佐幕側と倒幕側のどちらがテロ的かというならば、どんなにひどい特殊警察の警察行為もテロにはなりえませんので、理論的に佐幕側の暴力行為をテロと呼ぶことは不可能でしょう。また洛中での暴力の主体が佐幕側であるという SeraphGood 氏のご主張には典拠が必要でないかと思います。--Lssrt 2008年4月12日 (土) 20:14 (UTC)[返信]

安政の不平等条約[編集]

あとは、「異勅だ」「破約攘夷だ」という大義名分で外国人を斬るとか、建設中の大使館を焼き討ちするとかの行為ですが、これは、欧米列強が日本を植民地化することを最初っから諦めさせる効果が絶大でしたから、これもテロ活動とは到底言えません。むしろ、一種の正当防衛です。一日本人としての正当防衛です。そもそも、これらの原因は、黒船に脅えて自分たち自身でも訳の分からないまま不平等条約を異勅で結んでしまった幕府と、そういう異勅の不平等条約を幕府に結ばせた欧米列強自身だからです。おまけに薩長は、1963年以降、「鎖国攘夷は不可能」と悟り、開国したままでの「破約攘夷」に切り替え、わざわざ密留学までさせているほどです。たぶん、記録に残らない密貿易さえやっていたと考えられます。したがって、この外国人に対する問題も、薩長の場合は、基本的には問題ないでしょう。薩長の全員が外国人に対する恐怖心や閉鎖性を即座に捨てたかと言えば、そんなはずはありませんが、藩首脳はとりあえず問題ありません。問題は、他の地域の鎖国攘夷のまんまだった人たちです(例えば、開国派の佐久間象山を、三条木屋町という街中も街中で正々堂々と斬っちゃった河上彦斎や、彼に斬るように唆(そそのか)した人たち)。

日本史的にも世界史的にも大問題[編集]

テロ活動」などという表現は、日本史的に世界史的にも大問題です。敵側の城下町、敵側の拠点を焼き払うなどという極めて当たり前の戦法、その過程で戦利品があれば戦利品をいただくという極めて当たり前の獲得行動を、「テロ活動」だなどと表現するのは、甚だしいアナクロニズム(時代錯誤)です。第一次世界大戦頃まで、あるいは第二次世界大戦の頃まで、これらのことは世界的にも国内的にも極めて当たり前のことです。広島や長崎への原爆投下ですら、アメリカによる日本人へのテロ活動として紹介している歴史教科書やまともな歴史書は、日本国内でさえ皆無のはずです。だから、薩長土側の志士たち程度の穏便でやむを得ない活動をテロ活動などと表現することは、日本史的にも世界史的にも、極めて不適切な表現ということになります。 SeraphGood 2007年10月1日 (月) 12:15 (UTC)[返信]

慶応2年当時江戸市中はまだ戦争状態にあったわけではなく、西郷の部下浪士による暴力行為を町奉行所が抑制できなくなったにすぎません。また第一次大戦はおろか戦国時代まで価値観を戻したとしても、強盗・殺人・放火はどれも「穏便でやむを得ない活動」ではないでしょう。最終的には、資料の国立国会図書館の西郷隆盛の項でも「王政復古のクーデターを成功」とあるように、(政権が不安定であったにせよ)全体として当時の非合法の暴力活動なわけです。その意味で「テロ活動」という表現が不適当ということはないように思います。--Lssrt 2008年4月12日 (土) 20:17 (UTC)[返信]
これは、破壊工作と言うのが適当でしょうね。ちゃんとした日本語があるのに、政権がやった事が語源の言葉(日本語じゃ弾圧・鎮圧・取締り等)を、流行を追う様に使う人が多すぎます。---赤い星 2008年4月19日 (土) 11:51 (UTC)[返信]
「破壊工作」はサボタージュの訳語ですよ。そう考えるとやっぱり西郷隆盛が指示した「江戸や近辺の放火・強盗による人心攪乱」などは「テロ活動」表現のほうが合ってますね。122.133.253.13 2018年8月29日 (水) 06:44 (UTC)[返信]

分割提案[編集]

記事の容量が非常に大きいため、肥大化しているドラマ・漫画・アニメ・ゲーム類の一覧を西郷隆盛が登場する作品一覧として分割する事を提案します。--Nihonsi 2008年10月28日 (火) 11:49 (UTC)[返信]

  • (反対)まずは掲載する作品を、西郷隆盛が主役級で登場する作品に絞るべきだと思います。西郷隆盛について調べようとしているこの記事の読者が、例えば『篤姫』などが掲載されている作品リストを見て、西郷隆盛を理解することに資するとは思えません。また、作品を絞ればこの節が記事に占める分量は大きくないと思います。--M.F 2008年10月31日 (金) 13:48 (UTC)[返信]
Nihonsiさんが当記事以外にも徳川家康・織田信長・坂本龍馬・沖田総司・土方歳三・豊臣秀吉の各記事で登場する作品の分割提案を出されており、それぞれに意見がついてしまっており、これでは議論が錯綜してしまいます。ですので以後、ノート:徳川家康で議論を一本化したいと思います。--らりた 2008年11月1日 (土) 12:40 (UTC)[返信]
拙速でした。議論場所はPortal‐ノート:歴史#フィクション作品の情報を原則として人物記事に載せない旨の合意について提案でお願いします。--らりた 2008年11月1日 (土) 12:55 (UTC)[返信]

分割提案(銅像)[編集]

単独記事として成立するだけの分量があり、記事容量削減にも資するため西郷隆盛像の分割を提案します。 --あおみまきな 2009年2月3日 (火) 19:56 (UTC)[返信]

提案から1週間を経て、特に異論が出なかったので分割を実行します。 --あおみまきな 2009年2月10日 (火) 01:22 (UTC)[返信]


本当の西郷隆盛の写真[編集]

妄想による肖像画がトップにあるのはどうかと思います。 次のような写真をなぜ利用しないのでしょうか。

http://img03.ti-da.net/usr/zensoba/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC.jpg http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/07/0000397507/28/img4f646fe0zik6zj.jpeg


南洲の号はいつ付いたか[編集]

西郷の号として有名な「南洲」なんですが、これをいつ西郷が使い始めたのかという点につきご存知の方がいらっしゃいましたら是非そのあたりのエピソードを加えてくださると嬉しく思います。 洲は”くに”の他に”しま”とも読めるため、彼が奄美諸島に流されている間に川口雪篷が名づけたか或いはOKを出したのではないかなと推測しているのですが、裏づけがありません。 また、明治になってからの号と思われていましたが先年、小松帯刀から幕末期に「南洲先生宛て」とする書簡が見つかったようです。--櫻井 2011年6月13日 (月) 11:23 (UTC)[返信]

井伊直弼の大老就任[編集]

『5月、彦根藩主・井伊直弼が大老となった』とありますが井伊直弼が大老に就任したのは安政5年(1858年)4月23日です。--240D:1:6307:3A00:185A:215F:8479:2AE5 2017年6月12日 (月) 11:39 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

西郷隆盛」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2018年3月27日 (火) 14:54 (UTC)[返信]

スマホ版での絵文字表示を消したいのですが、対処が分かりません[編集]

スマホ版に下記の絵文字が見出しの直後に表示されます。

\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!\(・ω・\)SAN値!(/・ω・)/ピンチ!

対処の仕方が分かりませんので、ご存知の方がいればよろしくお願いします。

なお、この話題はいたずらでも、直近の取り消し理由のような「関係のない書き込み」でもなく、スマホユーザーからの真面目な報告ですので、検証することなしに再度取り消しをするのはご遠慮ください。

--121.102.19.180 2018年12月4日 (火) 07:35 (UTC)[返信]

正しくは、「モバイルビュー」から見た場合に現れる絵文字です。デスクトップ版からも、ページ最下部から「モバイルビュー」を確認することができます。私のコンピューターからのスクリーンショットをアップできればいいのですが、できそうにないので、各自のスマホないしコンピューターからのモバイルビューでご確認いただければと思います。

--121.102.19.180 2018年12月4日 (火) 08:00 (UTC)[返信]

あるユーザーさんの助言を得て、Wikipedia:バグの報告で報告をさせていただきました。--121.102.19.180 2018年12月4日 (火) 08:12 (UTC)[返信]

西郷隆盛の画像について[編集]

冒頭の画像は、「西郷隆盛大全」(廣済堂出版)を見ると、大牟礼南塘が描いた肖像に酷似しています。 そのように修正したのですが、また「キヨッソーネの作」に戻っていました。 --124.40.105.204 2019年9月17日 (火) 08:36 (UTC)[返信]

書籍から転記したのでは?[編集]

表現が酷似しており、言い回しなど特徴がそっくりです。当該の電子書籍は、川村一彦著『歴史の回想・東郷平八郎』歴史研究会発行。全194 ページ[1]

著者ご本人が掲載される場合も、著作権情報は必要です。お確かめください。

  1. ^ 川村一彦. “歴史の回想・東郷平八郎”. 歴史研究会. 2022年4月27日閲覧。

--Omotecho会話2022年4月27日 (水) 16:00 (UTC)[返信]