ノート:藤堂高虎

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2006年10月5日 (木) 17:09(JST) の編集について[編集]

歴史小説や講談においての取り上げ方を扱った段落で、途中から史実の話が混ざっていたので、段落後方を一旦コメントアウトいたしました。

もう少し自然に表現できるといいのですが……punipico 2006年10月5日 (木) 08:18 (UTC)[返信]

安部龍太郎について [編集]

現在連載中で個別の項目もまだ出来ていないので、その内容についてはまだ触れない方がいいでしょうが、ひとまず名前だけ書き加えさせて貰いました。--粉砕するもの 2008年10月16日 (木) 12:38 (UTC)[返信]

経歴について[編集]

一般的には浅井家が滅亡するまで浅井家の家臣(主君・浅井長政の小姓)であると言われるが、小谷城の戦いの前にもめごとを起こして浅井家を追放(出奔)されたと言う説もある。--以上の署名のないコメントは、211.3.67.88会話/Whois)さんが 2010年3月31日 (水) 00:06 (UTC) に投稿したものです(Greatupperによる付記)。[返信]

史実との整合性[編集]

この項目も、随分史料から見ておかしい点があるようです。明確におかしなところは修正しましたが、出典不明の箇所がどうしても散見されるようです。 ・藤堂家が近江時代に没落していた話…出典はなんでしょう?津藩の記録『国訳聿脩録』には、藤堂高虎の母は浅井亮政の養女だとあります。没落している一農民に戦国大名が娘を結婚させるとは到底考えられません。乳母も複数いたという『国訳聿脩録』に引く古文書『村瀬聞書』とも整合性が取れません。

・鈴木重意降伏及び殺害の話…これも出典不明です。『国訳聿脩録』、桜木謙二『高山公』何れにも、高虎が紀州征伐で戦った相手は湯川と山本だとあります。鈴木重意が何故ここに出てくるのでしょうか?鈴木重意は謎の人物ではありますが、この頃の鈴木氏は雑賀衆の頭目でもなく没落しているはずで、史料に雑賀衆の頭目として登場するのは湯川なのですが…鈴木重意の項目にも同様の記述がありますが、なにか雑賀衆関係の文書に出典があるのでしょうか?

・藤堂高虎が徳川家の家臣から疎んぜられていた話…これまた出典が不明です。桜木謙二『高山公』には本多正信が親友だったと書いてありますし、徳川秀忠は特に高虎を重んじていたようです。--松平俊介会話2013年5月6日 (月) 00:30 (UTC)[返信]


画像について[編集]

藤堂高虎の画像についてであるが、データ上は「個人蔵」となっている。この画像に類似したものとしては、津観音に所蔵されているものや、藤堂家、四天王寺にもあるようです。出所不明の画像データを用いるよりは、これらの出所のはっきりしているものを用いたほうがいいのではないだろうか? 0null0会話2016年9月4日 (日) 07:01 (UTC)[返信]