ノート:経験

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要出典[編集]

「概要」の節の「経験を通じて得た知を、人は言葉ですぐに表すことはできない」。という文に要出典のタグをつけました。執筆者の考えは分かりませんが、これは一般的にむしろ逆なのではないでしょうか。例えば、「道端で犬を見る」という経験をしたらそれによって得られた知識は「何時何分どこそこの道端で犬を見た」といとも簡単に言葉で表せます。--Tantalos 2010年1月7日 (木) 07:12 (UTC)[返信]

  • コメントいや、その「犬を見る」は「体験」であって、それら体験の総体から導き出される経験(広辞苑第四版を要約すると「知覚した・非組織的な事実」によって受けた「感覚や印象」を「外面・内面的に意識する過程」とその結果から得られる「何らかの意味で生活を豊かにする」ような有益な情報/記憶など)とは全く違うのでは。この場合においては「知=経験を積むことによって得られた技能・知識」という解釈をすれば、例えば「平均台の上を端から端まで歩く」という体験を通して「落ちないように体を動かす経験」が平衡感覚を養ったとして、果たしてどのように体を動かせば落ちなかったかを説明することは(まあ力学とか工学的なフィルターを通せば何とかなるかもしれないが)困難が付きまと考えられる次第です。経験が極めて抽象的なものである以上はこれを言葉として表すには(犬を知らない人間が「犬」という動物に出会ったことを説明しにくいように)それなりの訓練が必要なんではないかと。まあ哲学分野に関しては門外漢なんで余り多くは語りませんが。--夜飛/ 2010年1月7日 (木) 10:19 (UTC)[返信]
Yahoo!百科事典だと経験は「体験とほぼ同義だが、体験よりも間接的、公共的、理知的な含みをもつ」とあり、多少のニュアンスの違いはあれど「体験」と「経験」とは同じものではないでしょうか。ソースが違う以上言葉に帰属させる意味の違いは仕方なく、それについて議論するのはあまり生産的ではないかもしれませんが。とはいえ、実際両者を厳格に区別して用いている人はそうはいないでしょう(余談ながら「何らかの意味で生活を豊かにする」ような有益な情報/記憶とはいっても、破産やいじめなんかのそれは「生活を豊かにする」ことはないでしょうし)。また、「知=経験を積むことによって得られた技能・知識」というのはかなり限定された用法ではないでしょうか。「私は今まさに目の前にパソコンがあることを知っている」のように「経験を積むことによって得られた技能・知識」ではない一回的な事柄でも知識の名を冠するには十分でしょう。--Tantalos 2010年1月21日 (木) 14:45 (UTC)[返信]
同じとするよりも、更に上位的観念を含んでいるとみなせるのでは?Yahoo!国語辞典においても「体験よりも」と表現されているところが如実に現しているとおりに。まあ体験が経験には内包されているのはそのとおりであり、その意味では「事故に遭った」のも体験であり経験たりうる訳ですが、体験が単にその場限りの、Tantalosさんいうところの「一回的な事柄」を体感を通した記憶として処理されるところを、経験とみなすには、その事故に遭ったという体験を通して失敗事例として分析し、その次に同じ状況において「同じように事故を起こさないよう」回避する方向で、いうなれば「(おなじような)事故(を繰り返すこと)による損益を回避して生活を豊かにする」ことができるものかと存じます。まあ余談をまぜっかえすのもどうかとは思いますが、破産やいじめに遭ったのは体験としては不幸な出来事といえるけど、それを通して体験された事柄を何がしかに生かしているのであればそれは「人生を豊かにしている」ともいえるとも思いますし、そーいうコラムの類も枚挙に暇がないんですけどね。個人的な落とし所としては、冒頭に{{Otheruses}}テンプレートを設置して、いわゆる「一回的な事柄」(表現としては「その場限りの感覚を通して得られた経験・記憶など」)は体験(ただし現時点では体験学習へのリダイレクト)へ誘導、体験の項で認知科学やら哲学的分野への言及やらを凝らすほうが説明的だと思います。--夜飛/ 2010年1月21日 (木) 16:02 (UTC)[返信]