ノート:幻想文学

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ファンタジーと幻想文学とではどう違いがあるのでしょうか?雑誌『幻想文学』としての項目ならいいのですが、ファンタジーとの明確な違いがない以上、わざわざ1ジャンルとして分離させる必要はないと思います。よって統合案を提案します。”D” 2007年4月22日 (日) 03:16 (UTC)[返信]

ファンタジーとは作家の顔ぶれが相当異なりますね。この辺の違いが説明できれば独立項目でもいいかと。あるいはマジックリアリズム(魔術的リアリズム)などへの統合のほうがいいかも知れないね。--Kim-wilson 2007年4月22日 (日) 07:29 (UTC)[返信]
雑誌記事としての独立記事なら、存続を支持します。--Kim-wilson 2007年4月22日 (日) 07:31 (UTC)[返信]

幻想文学とファンタシー[編集]

少し主観的な意見になりますが、それは他の人の意見や書籍などで吟味することができますので、記します。まず、ここ10年、20年のサブカルチャー系のファンタジーという言葉や、そう呼ばれる作品は一時棚上げにします。--Maris stella 2007年5月6日 (日) 15:21 (UTC)[返信]

  • そこで、「幻想文学(幻想小説)」ですが、これは現実世界を舞台にして、そこに超自然が介在してくるというという性格を持ちます。リアリズムが基本にあり、「これは架空の作り話です」という前提では書かないのが幻想文学です。実際には、幻想文学のジャンル的確立が起こり、エンターテイメントになると、「架空と分かっているが、読者も作者もそれは明示的には言及しない」という形で、あくまでリアリスムの形態を取ります。日常的な現実世界のなかに、超自然が介入してくる、この「現実」の背後に、「別の異質な現実」がある、という構造というか世界構成が幻想文学です。これは基本的な枠組みです。
  • ファンタジー」はこれに対し、「これは架空の作り話です」という前置きが付いています。J・R・R・トールキンの作品は、この現実世界とは別の世界、架空の世界の話であるという大前提があり、実際、この現実世界との接点が出てきません。この現実の裏側・背後にある「別の現実」あるいは「こちらが真の現実」を示すのが幻想文学の世界に対し、ファンタシーは、「この現実世界」と緊張関係を持たない世界のなかの話だという前提・枠組みで構成されるのです。
ロード・ダンセイニの作品世界はファンタジーなのか、幻想文学なのかというと、『ペガーナの神々』などはファンタジーにも思えます。世界の枠組み構造からすれば、ファンタジーと云ってもよいのです。しかし、ダンセイニの作品は、「現実に関係ない架空の話」ではないというのがあります。『ペガーナの神々』は創作神話に見え(そうなのですが)、架空の世界を描いたファンタジーに思えます。しかし、ダンセイニにとって、これは「この現実」に対する、「真の現実」のファンタジー的な表現だったと言えるのです。それ故、現在の読者は知りませんが、ダンセイニの「別の現実世界」を軽々しくファンタジーとしては扱わなかったという面があります。
怪奇小説というジャンルもあるのですが、怪奇小説は「現実の把握」において、幻想文学に近いものです。ファンタジーは「空想世界を楽しむ」という要素が強く、本を読み終わると、面白かったというだけです。幻想文学は、読者の感性にも依りますが、作品を読み、作品世界を経験すると、読んだ者の「現実世界のありよう・認識枠」に変化が起こるというような効果があります。自分は安全なところにいて、空想世界・架空世界の冒険談や不思議な話を読むのがファンタジーであるに対し、幻想文学や怪奇小説は、現実認識の枠に影響してくるのです。ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの作品は、ホラー小説とか呼ばれていますが、怪奇小説あるいは幻想文学というのが妥当です。(ホラー小説とは何かはまた考えねなりませんが)。
  • あまり明確な説明になっていないかも知れませんが、「現実」と考えている世界把握は、実は本当ではなく、別の隠された現実があり、それは「異質」で「恐ろしく」、あるいは「超自然的な美や喜び」のある何かだということを、読者に伝え、読者の認識枠に影響を及ぼすような作品が幻想文学、怪奇小説などです。
  • エドガー・ライス・バロウズの「火星シリーズ」や、ロバート・ハワードの「英雄コナン・シリーズ」は、描写が生々しくとも、あれを、この現実世界の枠を越えるものとして捉える者は基本的にいないので、ファンタジーとなります。ヒロイック・ファンタジーというジャンルになります。

というような大まかな話ですが、「幻想文学(幻想小説)」と「ファンタジー」は異なったものなのですが、同じ作品であっても、時代の変化やそれによる読者の世界観や感性の変化で、幻想文学とファンタジーの区別が付かなくなって来ているというのもあるのです。20世紀の前半に興隆したSFは、「センス・オヴ・ワンダー」というものを最初特徴としていました。これは「未来の方向に向けた幻想」だと言えます。未来や未知の世界が、「この現実の枠」を壊してしまうことが、驚異=ワンダーであったのです。しかし、20世紀半ばを過ぎると、慣れてきたというのか、またはSFが提供する「驚き」よりも、人類の認識世界の拡大の方の「驚き」が大きくなった為、相対的に、ワンダーではなくなくなって来たというのがあります。

幻想小説もこれと同様で、現実の安定化あるいは閉塞性が「幻想の存在を許容しなくなって来た」というのが、20世紀末、21世紀の状況です。そのため、安全な空想のファンタジーと、安全でない幻想文学の区別が、よく分からなくなって来たのだと言えるのです。しかし、歴史的には区別があったのですし、現在でも区別は歴然とあるのです。ただ、それを感受する感性や世界観の枠を読者や作者がどう持っているかという問題になっています。--Maris stella 2007年5月6日 (日) 15:21 (UTC)/訂正 --Maris stella 2007年5月7日 (月) 00:00 (UTC)[返信]

追記)幻想文学(幻想小説)もファンタシーも、英語ではどちらも fantasy で同じ言葉です。幻想文学が先行する訳語で、この名前である種類の作品が呼ばれ分類されていたということがあります。他方、ファンタシーは、1970年頃よりカタカナで fantasy を書くようになり、1980年を過ぎると、これが幻想文学よりも、一般的な呼び方になります。つまり、1970年以前の小説などは、幻想文学と呼ばれていたが、1980年以降には、ファンタジーと呼ぶ新しい作品が登場したということです。そして「ファンタジー」という呼び方が、日本語で、過去の作品にも遡行して適用され、かつて幻想文学と呼ばれていたものを、ファンタジーと呼ぶようになってきたということがあります(このことと、「文学」の意味の変質は関連していると思います)。--Maris stella 2007年5月7日 (月) 00:00 (UTC)[返信]

だいたいはそんな感じだと僕も思います(半分くらい合意カナ)。「Fantasy」が日本では幻想文学」と「ファンタジー」に分化して、かつ時間差をもって受容された過程も我々にとって重要な事案と思います。日本の文学界が私小説に重きをおいていてFanatsyをそのまま受け入れなかったとかありそう。「ファンタジー」が一般化するのはハワード訳出あたりから? それらについても、幻想文学の体系について記すのも僕の手に余るのでどなたかよろしく。(僕の考えと多少違っても文句言いません)--Sugitaro 2007年5月7日 (月) 14:35 (UTC)[返信]

統合の話が出てから4ヶ月ぐらいたちますが、動きが無いようです。どうするつもりですか?--Sugitaro 2007年9月1日 (土) 13:10 (UTC)[返信]

その後コメントも無いようなので、いったんタグを取っておきますね。必要なら戻してください。--Sugitaro 2007年9月28日 (金) 13:20 (UTC)[返信]