ノート:天山ウイグル王国

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安允合について[編集]

Haydar氏が、この編集([1])で加筆された「839年、遊牧ウイグル王国の第11代君主・彰信可汗が、ソグド系と思われる大臣安允合に暗殺され」という文章についての疑問なのですが、安允合は掘羅勿(キュレビル)の間違えではないでしょうか。--119.83.111.72 2013年12月5日 (木) 02:30 (UTC)[返信]

Haydarです。返信が遅れて大変失礼致しました。もう5年以上前ですので自分が何を根拠に当該部分を執筆したのかもはや憶えておりませんが、恐らく参考文献に上げた安部健夫 『西ウイグル國史の研究』、森安孝夫 『ウイグル=マニ教史の研究』、伊原弘・梅村坦 『宋と中央ユーラシア 世界の歴史7』 のいずれかの記述に依ったものかと思われます。近年、ウイグルと縁の深い唐代のソグド関係の研究が活発化しており、邦文研究でもかなりの冊数が出版している状況です。参考文献にも名が挙がっている森安孝夫先生も去る2011年に『ソグドからウイグルへ --シルクロード東部の民族と文化の交流--』という本を著されておりまして、ご指摘の事柄についてこれらの近刊文献も用いつつ追って検証すべき事だろうと思われます。当該部分の編集当時は、まだ現在よりも典拠情報の記載については緩かった事もあり、検証に時間が掛かるかと思いますが、なるべく早くに調査等をして置きたいと思います。--Haydar会話2013年12月12日 (木) 18:58 (UTC)[返信]
Haydarです。 昨年暮れに119.83.111.72 さんより本文内容の検証を要請されましたが、恐らく当時自分が依拠したと思われる3著のうち、安部健夫『西ウイグル國史の研究』と森安孝夫 『ウイグル=マニ教史の研究』がすぐには講読出来ず、時期的に検証に十全な時間を費やせる状態にもなかったため、事実上この3ヶ月は放置状態となってしまいました。今現在でもあまり状況は変わっていないため、今少し時間と資料にアクセスし易い時期にまとめてやってしまおうかと思っていたのですが、別のIPの方から別の場所で早く検証しろと婉曲的にせかされてしまったので、中途半端ですが経過を報告します。
 今現在検証出来るのは『宋と中央ユーラシア 世界の歴史7』と『西ウイグル國史の研究』のみでして、『宋と中央ユーラシア』281頁に、
「第十一代の彰信カガン(在位832~839年)は、ソグド人とみられる大臣のひとり安允合(あんいつごう)にその位をねらわれたのである。これをきっかけとして内紛がおこり、オルドゥ - バリクの焼き討ちと、最後の首長㕎馺(こうそう)テギンの殺害にいたるのである。」
と書かれており、どうもこれを自分は半可に解して書いてしまった疑いがあります。
 一方、『西ウイグル國史の研究』では232-233頁、具体的には「第4章 東ウィグル帝国の崩壊とその西遷」の「一 いわゆるウィグル国の西遷」の「2 陰謀事件と内乱の続発」(常用漢字に変換)の記述に、『旧唐書』廻紇伝に依るとして、大臣安允合が王族(テギン)の柴草と簒奪計画を企てたようですが、未然に発覚してカガンは彼らを処刑したとのこと(232頁)。ところがこれで事態はさらに混乱し、安允合派の大臣だった掘羅勿がやはり叛乱を起こしたそうで、『資治通鑑』「唐紀六十二」(巻246)によると「馬300匹をおつかい物にして」沙陀部の長・朱邪赤心を抱き込んで攻め立て、カガンは自殺した、とあるようです(232-233頁)。(wikisourceにあった『資治通鑑』「唐紀六十二」の当該部分は恐らくこの部分→ 「回鶻相安允合、特勒柴革謀作亂,彰信可汗殺之。相掘羅勿將兵在外,以馬三百賂沙陀硃邪赤心,借其兵共攻可汗。可汗兵敗,自殺,國人立馺特勒為可汗。」)
 続けて、『唐会要』巻98(迴紇)および『冊府元亀』外臣部 継襲篇によるとして、「一説には、唐がその大逆宰相を署?(㕎)颯(sa)カガンに封じたともいうが、しかしこれはやはりその宰相(旧唐書廻紇伝)、もしくは「国人が㕎馺(k'o-sa)テギンを立ててカガンとしたという所伝を採るべきであろう(資治通鑑唐紀六十二)。」(233頁)と書かれてありました。
 2著を見ただけですが、それに従えば今のところ「839年、遊牧ウイグル王国の第11代君主・彰信可汗が、ソグド系と思われる大臣安允合に暗殺され」は誤りであり、2著の内容を総合すると(といいつつ実質『資治通鑑』の記述に依拠する事になりますが)、
 「840年に、大臣安允合が王族(テギン 特勒)の柴草と共謀して簒奪計画を企てたが、未然に発覚してカガンは彼らを処刑した。」「しかし、その後も混乱は収束せず、安允合派の大臣だった掘羅勿が叛乱を起こし、沙陀部の首長であった硃邪赤心に馬300頭を賄にして抱き込んでカガンを襲撃させた。カガン側は敗れてしまい、彰信カガンは自殺してしまったという。」
というくらいになりそうです。
まだ森安孝夫『ウイグル=マニ教史の研究』ともうひとつ調べねばならないと思い出した『アジアの歴史と文化 7 北アジア史』(竺沙 雅章(監修)、若松 寛(編集)同朋社、1999年がありますが、特に前者の検証はまだまだ時間が掛かりそうですが、ひとまずの報告として書き残しておきたいと思います。--Haydar会話2014年3月25日 (火) 16:57 (UTC)[返信]