ノート:士祗

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記述の大幅な除去について[編集]

  • 宇野公一郎「シー・ニエップ」『ベトナムの事典』収録(同朋舎, 1999年6月)
  • 小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史』(中公新書, 中央公論社, 1997年7月)
  • 狩野直禎「士燮」『アジア歴史事典』4巻収録(平凡社, 1960年)
  • 川手翔生「ベトナムの教化者たる士燮像の形成過程」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊収録(早稲田大学大学院文学研究科, 2013年)
  • 川本邦衛『ベトナムの詩と歴史』(文芸春秋, 1967年)
  • 金文京『三国志の世界』(中国の歴史, 講談社, 2005年1月)
  • 後藤均平『ベトナム救国抗争史』(新人物往来社, 1975年12月)
  • 桜井由躬雄「南海交易ネットワークの成立」『原史東南アジア世界』収録(岩波講座 東南アジア史1, 岩波書店, 2001年6月)
  • ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』(今井昭夫監訳, 伊藤悦子、小川有子、坪井未来子訳, 世界の教科書シリーズ, 明石書店, 2008年8月)
  • ベトナム社会主義共和国教育省編『ベトナム』1(吉沢南、古田元夫訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1985年8月)
  • 『三国志 正史』6巻(ちくま学芸文庫, 筑摩書房, 1993年5月)

上記の書籍+『三国志』の士燮伝と『大越史記全書』の士王紀を参照して確認できない、独自研究の疑いが強い記述を除去しました。現状([1])では記述量が極めて少なく、信頼できる情報源や他言語版からの翻訳による内容の拡張はほぼ見込めないのであれば、中国語版のように士燮 (交阯太守)へのリダイレクトにするか、内容の大部分が重複する士徽へのリダイレクトにしてもいいかなあと思います。--オオミズナギドリ会話2014年7月17日 (木) 13:20 (UTC)[返信]

士徽へのリダイレクト化提案[編集]

一見して一定の事績があるような本頁の記述内容ですが、『三国志 (歴史書)』中の当該人物の事績は「兄弟と共に呂岱に降伏し、処刑された」ことしかなく、それ以外の事績は執筆者の拡大解釈・独自研究と考えられます。

  • 孫権は士廞を武昌太守に、士祗ら士燮の他の子と士匡ら士壱の子にも中郎将の地位を与えた。→士廞以外の、士燮と士壱の子も中郎将に任じられたと記述されるのみで、具体的に誰を指すのかも分かりません。
  • (士徽が)士祗を含めた兄弟6人で呉に対して反乱を起こした。→士徽が兄弟と共に反乱したという記述はありません。

それ以外の記述は士徽にまつわるものでしかないことから、士幹士頌と共に、士徽へのリダイレクトとすることを提案します。記述の継承は行わない=統合ではない、Wikipedia:ページの分割と統合#注意事項の「一方のページ乙に、他方のページ甲の内容がすべて含まれている場合」(前述の独自研究除く)を適用してのリダイレクト化です。--鳴海会話2024年1月4日 (木) 15:49 (UTC)[返信]

1週間以上経過しましたが異論ございませんので、リダイレクト化を実施しました。もしこれを解除する場合には今回と同等の合意形成をお願いいたします。--鳴海会話2024年1月23日 (火) 09:54 (UTC)[返信]