ノート:国記

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古田武彦云々の記述については「要出典」を添付して2週間以上になりますが、いまだに出典が提示されません。 もともと非現実的な内容ですし、そろそろ削除を検討してもいい頃合いかと思われます。 利用者のご意見求める次第です。-原田実 2010年4月18日 (日) 08:20 (UTC)[返信]

原田氏には出店を教えましたが。--日野智貴 2010年4月24日 (土) 09:04 (UTC)[返信]

別に日野様の出店に関する情報はいりませんし、そもそも出店を教えていただいた記憶もありません。-原田実 2010年4月27日 (火) 01:45 (UTC)[返信]

また、日野様には以前、会話に置いて、私が知る限りでは、古田武彦氏は、自分が国記を発見したなどと主張したことなどないことを指摘しております。-原田実 2010年4月27日 (火) 06:35 (UTC)[返信]

「望外だった。「東日流(内・外)三郡誌」の中から「天皇記と国記」が“発見”された。その引用が散見すること、すでに知られていたけれど、そこには恐るべき「リアリティ」が含まれていたのである。  日本列島への稲作の渡来時期(BC九二三)など北方(ピョンヤン方面)と西方(江南方面)からの各伝来経緯が書かれていた。記紀(古事記・日本書紀)には及びもつかぬ、歴史認識、それが他でもない「天皇記」からの引用だった。  今回の「寛政原本」発見の“偉人なる副産物”となった。」『なかった6号』より--日野智貴 2010年4月27日 (火) 08:53 (UTC)[返信]

原田氏の文は詭弁の疑いがあるのでテンプレートをはがします。--日野智貴 2010年4月30日 (金) 05:46 (UTC)[返信]


引用された個所は、『東日流(内・外)三郡誌』に引用された「天皇記と国記」は記紀と異なる内容だったというだけで、別に『国記』や『天皇記』の本体を発見したとは言っていませんね。 その引用された内容というのも、現代人が(古田氏の著書を含む)古代史関連書籍によって得た知識によるものとしか思えないわけですが、それはさておくとして、現在の本文における「古田武彦云」の個所の出典たりえないことに違いはありません。 ちなみに1990年代半ば、故和田喜八郎氏は自宅の天井裏に国記・天皇記があると主張、屋根を改築して国記・天皇記を出す費用を負担してほしいということで古田氏を介して朝日新聞社に要求し、あっさり断られたといういきさつがあります。和田喜八郎が古田氏や故・藤本光幸氏に提供する「古文書」に国記・天皇記の名が出て来るようになったのはそれ以降のこと。さらに和田氏の没後、藤本氏と竹田侑子氏による和田の遺品の調査でも『国記』『天皇記』の本体は出てこなかったわけで、結局、国記・天皇記の本体は発見されずじまい(というか和田氏の能力では作れなかった)というのが妥当なところでしょう。 この経緯から見て、やはりこの項目の本文における古田武彦云々の個所は古田氏の名誉のためにも削除が妥当かと思われます。―原田実 2010年4月27日 (火) 10:07 (UTC)[返信]

古田氏の文章には

「「天皇記と国記」が“発見”」

とあり

「「天皇記と国記」は記紀と異なる内容だった」

都は古田氏は言っていません。--日野智貴 2010年4月28日 (水) 07:21 (UTC)[返信]

日野智貴様 引用されている「「天皇記と国記」が“発見”」における「」””は古田氏がいかなる意味で使ったとお考えでしょうか。 それから「記紀(古事記・日本書紀)には及びもつかぬ、歴史認識」という個所について、貴方はどのように解釈されたのでしょうか。 ―原田実 2010年4月30日 (金) 08:51 (UTC)[返信]

日野智貴様、本文から「要出典」表示を外したところで、貴方が「国記を古田武彦が発見したと主張している」という一文の明確な出典を提示できていないという事実に変わりはありません。 さらに言えば、それが事実としても、たかだか一個人の妄想めいた主張(ととられても仕方がないでしょう)をわざわざ辞書に書き込む必要はあるのか、という疑義はなくなるわけではありません。―原田実 2010年4月30日 (金) 09:27 (UTC)[返信]

日野智貴様。『日本書紀』に我が国最初の史書として記され、しかも失われた事情まで明記された本が、消失から14世紀半もたってから発見されたとなれば、それは貴方が考えている以上に大変な事態です。そんなことを言い出した人がいるといたとしたなら、誇大妄想にすぎないと思われても仕方ありませんし、しかも偽書の中から出てきたなどと言えば呆れられるだけです。さらに出典も出ていないとなれば、第三者に検証させるつもりさえないとうけとられるだけでしょう。 せめて出典だけでも明示して下さい。それは発見記事を書きこんだ者にとっての当然の責任です。ー原田実 2010年4月30日 (金) 11:25 (UTC)[返信]

現在の文面では出典が「なかった」ということになりますね。--原田実 2010年5月13日 (木) 02:07 (UTC) 『なかった』という雑誌はほとんど知名度がありません。『なかった』という雑誌そのものに関する情報、および問題の記述がその『なかった』という雑誌の何号の何という論文に出てくるのか明記することなく「『なかった』より」と書いたところで大方の利用者には意味不明です。--原田実 2010年5月13日 (木) 03:28 (UTC)[返信]

すみませんが、多くの利用者にとって意味不明、もしくは古田武彦氏が誇大妄想に陥っているとしかとれない文面をいつまでも残しておくのは問題があります。 『なかった』という雑誌がこの世に存在することさえ知らない大多数の利用者にも意味がわかるように書き改めることができないなら、 5月20日付で問題の文面を本文から削除させていただきます。--原田実 2010年5月15日 (土) 02:56 (UTC)[返信]

追記。今から20日まででは早急にすぎると思われるかも知れませんが、問題の多くの利用者にとって意味不明、 もしくは古田武彦氏が誇大妄想に陥っているとしかとれない文面が現れたのは3月31日のことです。 状況が改善されるまで、もう十分すぎるほど待ったと思いますよ。--原田実 2010年5月15日 (土) 02:59 (UTC)[返信]

説の信頼性や学術的評価は兎も角、[1]『なかった』第六号は検証可能なようです。johncapistrano 2010年5月15日 (土) 03:36 (UTC)[返信]

はい、検証は可能なはずなのですが、その結果が本文に40日以上も反映されていないのです。 4月27日付コメントで引用された個所が正確だとしても(「偉人なる副産物」などという語が出てくる引用が正確だとは思えないのですが)、 私には明確に「国記を発見した」と主張しているようには読めません。--原田実 2010年5月15日 (土) 04:00 (UTC)[返信]

検証せずに、いきなり削除と言うのも大人げないと思いなおしたので、とりあえず古田氏と国記のかかわりを整理。

1、1993年頃、古田武彦講演会などで「天皇記」「国記」が青森県・五所川原市在住の和田喜八郎宅に伝わっている可能性があると発言。(千坂げんぽう編著『だまされるな東北人』本の森・1998)

2、和田喜八郎、古田武彦を仲介役にして朝日新聞社に200万円と引き換えに「天皇記」「国記」を提供すると持ちかけるも朝日新聞本社、この申し出を断る。 (原正寿・原田実・安本美典『日本史が危ない!』全貌社・1999年。また、前掲『だまされるな東北人』、三上強二監修『津軽発『東日流外三郡誌』騒動』批評社・2000年、斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』新人物文庫・2009年、などにもこの事件について言及あり)

3、1994年5月、青森県藤崎町在住の藤本光幸、和田喜八郎から預かった文書に「天皇記」「国記」の名が記された目録があったと発表。 (「日本最古の史書『天皇記』『国記』石塔山に眠っている?和田家文書に記述」『東奥日報』1994年5月21日付。前掲『津軽発『東日流外三郡誌』騒動』『偽書「東日流外三郡誌」事件』にもこの報道について言及あり)

4、1999年9月、和田喜八郎逝去。 遺品の文書類には「天皇記」「国記」と題した書物はなかった。 (竹田侑子「和田家文書報告(1)」『北奥文化』第23号、2002年11月)

4、2005年10月、藤本光幸逝去。「古田史学会報」72~75号(2005年12月~2006年3月)に藤本の遺稿「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史の考察」連載。和田喜八郎の遺品である「和田家文書」に「国記」「天皇記」からの引用があることを報告。

5、2009年7月、古田武彦、和田喜八郎の遺品に含まれていた『東日流外三郡誌』『東日流内三郡誌』に「天皇記」「国記」からの引用があることを発表、「『天皇記』『国記』の“発見”」を宣言。 (「序言」古田武彦直接編集『なかった―真実の歴史学』第6号・ミネルヴァ書房・2009年7月20日)

ちなみに2については当時、朝日新聞社勤務だった高橋徹氏に私自身が問い合わせ、事実だったことを確認しています。

こうしてまとめてみると、いわゆる『和田家文書』に「天皇記」「国記」の引用を見出したことをもって「発見」というなら、古田氏よりも藤本氏の方が先行していたことになりますね(『東日流外三郡誌』の資料性格を考えれば、そもそもその程度のことが「発見」といえるかどうかも疑問ですが)。--原田実 2010年5月17日 (月) 07:41 (UTC)[返信]

追記、「偉人なる副産物」、原文では「偉大なる副産物」でした。--原田実 2010年5月17日 (月) 07:51 (UTC)[返信]

いかに検討しても、古田氏の「天皇記」「国記」“発見”宣言が、現状では大言壮語珍説奇行にすぎない、という結論は動かせないように思われます。 宣言そのものの存在は事実にしても、「古田武彦」の項目ならともかく「天皇記」「国記」の項目にわざわざ記載する必要があるとは思えません。 つきましては15日付の勧告通り削除いたします。--原田実 2010年5月19日 (水) 22:50 (UTC)[返信]

古田氏の主張と明記しています。原田氏の「4」と「5」はまさに詭弁。どこに『引用』の二文字があるのでしょうか。発見と引用は違うことは常識です。「1」についても千坂氏がそのようなことをいたとは書いてなかったはずです。ただ、和田氏の見せた写真があるはずでした。--日野智貴 2010年5月20日 (木) 08:34 (UTC)[返信]

「引用」の2文字・・・日野様の4月27日付コメントにありますね。 1の出典の原文・・・”もう、5年ほど前になりますが、大化改新の時に蘇我蝦夷によって焼かれたはずの「天皇記」「国記」が、和田さんのところの石塔山神社にあるという話がありまして、古田さんも講演会などで「見つかれば素晴らしい。歴史を覆す」と言っておりました”『だまされるな東北人』86ページ1~3行目--原田実 2010年5月21日 (金) 05:20 (UTC)[返信]

思い出しました。「古田さんも講演会などで「見つかれば素晴らしい。歴史を覆す」と言っておりました」の文は確かに読んだことがあります。(ただ、磐井王記等の目録の写真は古田氏のものではありません。利用者が誤解しないため言っておきます)

しかし、「「引用」の2文字・・・日野様の4月27日付コメントにありますね。」は証明にはなりません。古田氏は「これまでも引用されていることは知っていた」そして「ついに(それが)発見された」と言っています。--日野智貴 2010年5月21日 (金) 06:56 (UTC)[返信]

完全な誤読ですね。話の枕に「発見」という大仰な表現を使って読者の注意を引く(で、それがレトリックにすぎないことを示すために””をつける)。実際には、この文中では「(「天皇記・国記からの)引用」に関する話しかしていません。古田氏は人を煙にまくような表現を好んで用いるので、その文章を読むには文脈をきちんとつかむ必要があります。--原田実 2010年5月22日 (土) 02:49 (UTC)[返信]

追記。日野智貴様は4月30日付本文編集内容要約で「詭弁にだまされるな」と書いておられますが、相手の論理展開のどこに錯誤があるのか指摘できない以上、安易に相手の主張を詭弁呼ばわりすべきではありません。--原田実 2010年5月22日 (土) 04:09 (UTC)[返信]

他に古田氏がレトリックを使用した例はあるのか。--Hurutatakehiko 2010年5月23日 (日) 07:11 (UTC)[返信]

原田実著『幻想の多元的古代』(批評社・2000年)ISBN 4826502958 という書籍に古田氏が用いたレトリックの実例を列挙しています。--原田実 2010年5月23日 (日) 07:30 (UTC)[返信]

[2]を本当に読んでいるのでしょうか。和田家文書の中に国記があったのは古田氏にとっての事実です。--日野智貴 2010年5月24日 (月) 00:43 (UTC)[返信]

「(2)藤沢徹氏の御教示による。」 つまり藤沢氏の発見です。--日野智貴 2010年5月24日 (月) 00:46 (UTC)[返信]


藤沢氏の教示の内容は「引用」された「国記」「天皇記」の中に「日本列島への稲作の渡来時期(BC九二三)など北方(ピョンヤン方面)と西方(江南方面)からの各伝来経緯が書かれていた」というものですね。「国記」「天皇記」のまとまった写本が見つかったとはどこにも書かれていません。したがって「和田家文書の中に(まとまった写本としての)国記があった」というのは古田氏にとっても藤沢市にとっても「事実」ではありません。--原田実 2010年6月5日 (土) 04:00 (UTC)[返信]

「4月27日付コメントで引用された個所が正確だとしても(「偉人なる副産物」などという語が出てくる引用が正確だとは思えないのですが)、私には明確に「国記を発見した」と主張しているようには読めません」偉人なる副産物の誤字は古田氏自身がしていました。なかったでは分が誤字だらけであり引用は正確です。このような正確な引用に基づいているにもかかわらず、「藤沢氏の教示の内容は「引用」された「国記」「天皇記」」というような事実にない詭弁をつかうのはまさに自爆テロです。レトリックは反対だが自爆テロは賛成なのでしょうか。原理主義者も道徳を重んじるだけましでしょう。--日野智貴 2010年6月6日 (日) 06:21 (UTC)(一部修正--日野智貴 2010年6月6日 (日) 06:23 (UTC)[返信]


「偉人なる副産物の誤字は古田氏自身がしていました」・・・とりあえず日野様がウェブ上に転載された(不正確な)文章をコピペするだけで、活字化された『なかった』の本文そのものを確認しなかったことだけはわかりました。また、そのコピペした文章にも写本が見つかったとはどこにも書かれていませんね。--原田実 2010年6月6日 (日) 23:49 (UTC)[返信]

活字も読みました。本文に国記と天皇記についての内容が全くなかったので失望したことを覚えています。またなかった自身を見ればわかるように「冗」「春」が「笑」になるなど変な誤字が沢山なあります。また「写本が見つかったとはどこにも書かれていませんね」というのは明らかに原田氏の勘違いです。


「活字も読みました」・・・それなら紙媒体での「序言」ⅱページをもう一度ご確認下さい。「偉大なる副産物」となっています。 「本文に国記と天皇記についての内容が全くなかった」・・・まとまった写本で見つかったわけではないのですから言及がないのは当たり前です。 第一、そんな大発見があったなら「副産物」程度の扱いですませたり、「発見」をわざわざ””で囲むわけもないでしょう。--原田実 2010年6月7日 (月) 09:07 (UTC)[返信]

追記・・・古田氏が2010年に発表した文章に「(国記・天皇記を)ここでは北畠顕光が引用している。他でも藤井伊予など何人かが引用している。この場合、引用の仕方を考える」「『東日流外三郡誌』偽書説などに惑わされて、本気で探す努力をせずに来た。本気で探せば必ずある。わたしは今うれしいほうの楽観論に転じた」などと書いているということは2009年の時点で古田氏が手にしていたのは国記・天皇記のまとまった写本ではなく、国記・天皇記から引用したとされる断片的な文章(実際には引用を装った和田喜八郎の創作ですが)のみだったと見なす方が常識的でしょう。[3] --原田実 2010年6月7日 (月) 10:17 (UTC)[返信]

わかりました。さて、はっきりさせたいので言いますが、古田武彦の偽作か和田喜八郎の偽作のどれかと考えているのでしょうか--日野智貴 2010年6月10日 (木) 09:36 (UTC)[返信]

いったい何を「はっきりさせたい」というのでしょうか。私の読む限り、そもそも古田氏は国記・天皇記の本体を発見した、などといってはいないわけですから、ありもしないものについて誰の偽作かなどと問うのは無意味でしょう。--原田実 2010年6月10日 (木) 12:02 (UTC)[返信]

引用の偽作--日野智貴 2010年6月12日 (土) 03:41 (UTC)[返信]


「古田武彦の主張」についてですが、改めて考えてみれば天皇記・国記に関する異説は坂口安吾や加治木義博氏のものもあるわけで、 古田氏のものだけを特記する必要があるとは思えません。 だからといって古田氏以外の説を同等にとりあげても単なる珍説奇説の羅列になるのがオチです。 「古田武彦の主張」はあくまで古田武彦の項でのみ扱うということにして、「国記」の項からは削除するのが妥当に思われます。 「古田武彦の主張」の扱いはいかにするべきか、という議題を今後の検討課題としてここに提示したく思います。--原田実 2010年7月8日 (木) 11:10 (UTC)[返信]