ノート:側室

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正確性と国際化[編集]

  • 明治期はどういう扱いになっていたかは知りませんが、江戸時代までの天皇家の一夫多妻制では、中宮(位置づけは時代により変動)、女御更衣 等と格式を伴う地位が与えられていました。江戸時代の大奥でも将軍の手がつけば、「お方様」「お局様」(将軍死去の後は剃髪して「○○院」)。江戸将軍家の側室が産んだ子は嫡出子であり、側室が家族の一員でないとか、使用人の範疇という定義はとんでもないでしょう。
  • 側室制度は江戸将軍家の大奥で(春日局)により完成し、典型とされていますが、それ以前から各地の豪族や戦国時代の諸大名にも側室制度はありました。また、江戸時代までの天皇家の一夫多妻制をどう位置づけるのか曖昧。天皇家と江戸将軍家に限定されるような「高貴」という限定修飾にも疑問。
  • 日本に限定された記述なので、国際化の観点は当然でしょう。これは一夫多妻制との関係を整理しないとうまく記述できないとは思いますが。--ゴンベイ 2008年3月13日 (木) 15:46 (UTC)[返信]
  • 近年の女性史研究の動向としては、前近代までの一夫多妻制を一夫一妻多妾制(正室は必ず一人で側室は妾)と一夫多妻多妾制(正室も側室も正式な妻)に分かれているとする見方があり、一夫一妻多妾制が厳密に規定されるようになったのは江戸時代からという説があるそうです。(参考文献:福田千鶴『淀殿』)--彩華1226 2009年1月11日 (日) 09:36 (UTC)[返信]
  • 天皇家の側室の位置付けは、正室に当たる皇后中宮(もとは、三后のことを指し、皇后の別名として用いられていたため)は、確かに家族の一員としての位置付けが正しいと思います。しかし、女御更衣に関しては、元来宮廷に使える女官の役職であったため、公式には使用人という扱いであったと考えられるのではないでしょうか。その他の点に関しては、ゴンベイ氏の意見に賛成します。--のーさん 2009年2月4日 (水) 13:20 (UTC)[返信]

徳川将軍側室一覧について[編集]

御台所にも徳川家の正室一覧があるのですが、「側室」も「御台所」も江戸幕府のみの用語ではなく、それぞれの記事に徳川家のみの一覧を掲載するのは偏った内容になるだけで、不適切ではないかと思います。どちらも削除するか、徳川将軍家の記事に移動すべきではないかと思います。--小者 2009年9月8日 (火) 17:58 (UTC)[返信]

徳川将軍家の側室一覧は大奥に転記させていただきました。--小者 2009年9月9日 (水) 15:01 (UTC)[返信]

「側室の実態の多様性」節第一段落について[編集]

出典のを確認したところ、

  • 将軍・大名とも側室の待遇は臣下
  • 正室とも主従関係

以外のことは記述しておらず、家族云々というような話はでてこないのですが……。家族という概念をこのような項目で使うのは少々厳しいのではないかとおもいますが、いかがでしょうか。稲垣さんの記事は明らかに江戸時代を前提として記述されていると思われますが、そこに家族を適用した場合、それは「イエ」のことでしょうか。その場合イエとはどのような広がりをもつのでしょうか。あるいはイエのもつ家産の人的リソースとしてのヒトを指すのでしょうか。というような面倒くさい話になるのでご考慮いただいとほうがよろしいのではないかと考えます。--Kotoito会話2017年1月13日 (金) 18:26 (UTC)[返信]