ノート:ヤコブ (イエスの兄弟)

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

主の兄弟ヤコブに戻したほうがいいと思いますが、いかがでしょう。--Aphaia 2006年12月5日 (火) 21:22 (UTC)[返信]

ヤコブ(主の兄弟)を推しますが、もう二人はどうなっていましたっけ?LR 2006年12月6日 (水) 01:08 (UTC)[返信]
あいまいさ回避ページであるヤコブをみると以前は括弧を使わない形式だったのが、括弧を使う形式になっていますね。
私が主の兄弟ヤコブを推す理由ですが、(ヤコブという表記についてはここではいいですよね)、この人物は通常「主の兄弟ヤコブ」といわば枕詞付きで言及されるため、それをそのまま項目名にしたほうが、執筆の便を図ることができるということにあります。ウィキペディアではあいまいさ回避を括弧を使ってすることになっていますが、それはこのような称号等でいわば差異化されておらず、そうした符号を付ける習慣のない二つの事物を弁別するための工夫で、わざわざここで用いなくてもよい手法のように思います。
括弧つきの場合、記事中に書くためには主の兄弟ヤコブのように常に二重化することが必要です。ここで、たいていの場合は「主の兄弟」という字句が必要となるので、括弧の中をパイプで隠すことができるというメリットがほとんどきいてきません。たんに煩瑣なだけになっています。ですので主の兄弟ヤコブを改めて記事名として推しました。ヤコブ (主の兄弟)ヤコブ (イエスの兄弟)では、そうした技術的な違いがないのであまり移動のメリットがないように思います(ウィキペディアのなかでそのリンクがそのまま出てくることはほぼありえないので)、名称をより妥当なものにするメリットはあってもそのメリット自体はあまり大きくないし、ほとんどの人には気づかれない。
なお、英語版では Jacob the Just が記事名になっているようです(括弧を使った曖昧さ回避ではなくて)。--Aphaia 2006年12月6日 (水) 01:20 (UTC)[返信]
あと、履歴をみていただけると分かるのですが、この項目は以前、これと同じ項目名だったのを、議論をして、主の兄弟ヤコブに変更しています。誰かが再度この項目名に移動を行ったようで、とくに議論を呼びかけたわけではないので合意を無視した編集になっています。このときの移動の理由も、曖昧さ回避をするメリットに乏しい/必要が無いということでした。議論があちこちに散っており、また移動の方法が複雑なので、回収できていない議論もあります。こうした横紙破りをそのまま放置して、現状追認というのはいやだなという気もしています。--Aphaia 2006年12月6日 (水) 01:27 (UTC)[返信]
曖昧回避の記事としてヤコブがありますよ、というコメントもあった方が宜しいかと。いかがでしょうか。Mishika 2006年12月6日 (水) 01:24 (UTC)[返信]
記事中からリンクを飛ばしやすいというメリットは判りますが、それは前冠名でリダイレクトを作っておけば済む事でしょう。私はどちらかというと、人物一覧にリストしたときの書式不統一が気になります。ヨセフ(ナザレの)にしたいほどです。また、先の記事名議論は何処で見られますか?
あと、他三人や実在の人物(語弊は承知)を探してここに来ちゃうものですかね? 最初から曖昧回避に着きませんか。LR 2006年12月6日 (水) 01:46 (UTC)[返信]
追記、英語版の「ぴったしジェーコブ(誤訳)」はJacobが先だからソートの邪魔にならなくて許せるのですが、前冠ではそれでソートは論外だし手修正しても列が乱れて美しくないんですよ、これが。LR 2006年12月6日 (水) 01:58 (UTC)[返信]
「実在の人物」というのは看過できない言い回しですね。正直そういうことを意図的におっしゃる方だとは思っていませんでした。残念です。--Aphaia 2006年12月6日 (水) 02:23 (UTC)[返信]
外したジョークで空気が悪くなる事は本意では在りませんので以後気をつけますが、さしあたりヤコブ(イスラエル)の出自や所業は相当に怪しくその息子達に至っては議論の余地はないでしょう?LR 2006年12月6日 (水) 02:36 (UTC)[返信]
それはあなたがおっしゃったことですね。--Aphaia 2006年12月6日 (水) 02:48 (UTC)[返信]

横合いからすみません。「ヤコブ(イエスの兄弟)」を推している方がいらっしゃいます?これ、POVや用語の創作になりません?(すでにとりさげられているのであれば蛇足になり、申し訳ないですが) 「主の兄弟ヤコブ」なら、聖書学で通例用いられている「述語」としてNPOVであるという主張もありえるでしょうが、通常使用しない「イエスの兄弟」という表現は「イエスは主ではない」という特定の主張にもとづくもの、という印象を与えかねません。私自身は通常の聖書学で用語として定着していると言ってもいい「主の兄弟ヤコブ」を推します。210.191.177.156 2007年1月7日 (日) 03:29 (UTC)[返信]

「主の兄弟ヤコブ」からリダイレクトしてきていたので気が付きませんでしたが、現状の記事が「ヤコブ(イエスの兄弟)」なのですね。いやはや。早く変えたほうがいいと思います。
「ヤコブ(イエスの兄弟)」の表現は、ヤコブが本当にイエスの兄弟なのか?という問題自体も本来は議論の対象になるべきことであり、用語としても定着しておらず、項目名として不適だということも付け加え、あらためて「主の兄弟ヤコブ」への変更に賛成することにします。(「主の兄弟ヤコブ」という一見主観的な表現には、「私自身はイエスという人物を『主』と考えているとは限りませんけれど、それとおなじようにここでいう『主の兄弟ヤコブ』はイエスの兄弟かもしれないし、そうじゃないかもしれないけど、そういったことは一旦脇において、ここでは用語として使っているだけですよ」という含みもあると考えています)
あと、「ヨセフ(ナザレの)」という表現をお考えの方もいらっしゃるようですが、まさかアリマタヤのヨセフは「ヨセフ(アリマタヤの)」ですか?「ヨセフ(ナザレの)」に類する表現はあくまで緊急避難に類するものであり、定着した用語がある項目に対して使用するべきものではないでしょう。Wikipediaの中の人物一覧を機械的に統一することが、たとえば「ヨセフ(ナザレの)」のような誰のことを指定したいかはかろうじて分かるものの、私自身や多くの人がWikipediaでしか見ることのないであろう項目名を導入するほど価値のあることなのか分かりませんでした。210.191.177.156 2007年1月7日 (日) 03:50 (UTC)[返信]
どうして「まさか」といわれてしまうかが判りません。勿論そのように考えています。表記を統一する価値のわからない方に、百科事典とかPOVとかがいかなるものであるかをどう説明したら良いのか困惑しています。LR 2007年1月7日 (日) 04:46 (UTC)[返信]
「表記を統一する」ことの価値が、用語として通用する項目名を付与することの価値を超えるということをお示しになればよいのではないですか?210.191.177.156 2007年1月7日 (日) 08:40 (UTC)[返信]
失礼、LRさんがどういう考え方の方なのかと気になり、LRさんのこれまでの発言や投稿を読み返してみると、言葉を補う必要に気づきました。「表記を統一する」のは当然の価値なのですが、あなたが提案しているのは厳密にいうと「『ヨセフ(アリマタヤの)』のように、それを採用することによってタイプの手間も増え、用語としても通常もちいない表記によって統一する」方法です。人物一覧にリストしたときにすこしばかり見栄えがよくなる(あくまでもLRさんから見れば見栄えが良くなる、ということですが)ことが独自の用語の創作とも受け取られかねなかったり、用語としてこなれない言葉を項目名に使用する理由には思えません。「表記(というか「項目名の付与規準」)を統一する」のならば「用語として定着した呼称があれば、それによって項目名を付する」という統一の仕方もあります。あなたの統一のしかたが、「用語として通用するものを用いる」のより良いということを客観的に納得できるよう説明していただければよいのではないでしょうか?210.191.177.156 2007年1月7日 (日) 09:13 (UTC):[返信]
表記統一そのものは議論の余地のない決定事項です、これが百科事典である限り。あとはどのような統一表記を定めるかだけの問題でしかありません。ここまではよろしいですか。
そして私の意見は、この方はつまるところ誰さんなのか、それを最優先に記事名にしろ、です。つまり、このひとは第一義的にヤコブさんなんですよ、「主の兄弟」さんじゃなく。ピエタの背景になってる人もヨセフさんでしょう、アリマタヤさんじゃなくて。
またこれら問題になりがちな通称は、本来的に聖書を含む教会伝承で取られている曖昧回避記法なんです。ですから、その精神を忠実にwikipedia的に引き継ぐ表記はヤコブ(主の兄弟)です、主の兄弟ヤコブではなく
そして、リスト上の問題もおろそかにはできません。「ベタニヤの」といわれる人が三人、「マグダラの」とか「アリマタヤの」とか「洗礼者」とか「イスカリオテの」などは一人づつ、なとというより、「マリヤ」「ヨセフ」「ヨハネ」「ユダ」がそれぞれ三人以上、のほうが、一覧情報としてはるかに本質的で重要です、聖書学的にも。
と、説明としては、こんな感じでいかがですか。LR 2007年1月8日 (月) 00:41 (UTC)[返信]
まず、私が先に「『表記を統一する』のは当然の価値なのですが」と言っているにも関わらず、「百科事典であるかぎり」云々などと余計なことをわざわざ書く理由が分かりかねますが、それはいいとしましょう。わざわざお書きになるのであれば、Wikipediaの規約のどこでどのように規定しているかご教示願えればと思います。こちらはWikipedia初心者なので。
たとえばガラテヤ書は「主の兄弟ヤコブ」(岩波訳、新共同訳)として言及しているのであって、「ヤコブ(主の兄弟)」として言及しているのではありません。「その精神を忠実に引き継ぐならば」といいますが、LRさんはどのようにお考えになって「ヤコブ(主の兄弟)」の表記がどのような精神をどのように「忠実に引き継いでいる」とお考えになっていますか?LRさんはこのヘンの実例を示さずに議論をされているので、本当に失礼な言い方で申し訳ないのですが「ダ・ヴィンチ・コード」かなにかそういった通俗的な小説を読んで聖書通になったつもりの人と議論をしているような気分になってしまいます。
「『マリヤ』『ヨセフ』『ヨハネ』『ユダ』がそれぞれ三人以上、のほうが、一覧情報としてはるかに本質的で重要です」といいますが、聖書の登場人物に通じていない人物がその人物を探し当てる際に便利だという以外の価値はなにか思いつきますか?(聖書に通じていない人物の便利は尊重するつもりですが、聖書学的にも重要だとまでおっしゃるのならば何かそういうものがおありだとお考えなのでしょう)
ヨセフさんであって、アリマタヤさんではないという議論は無意味です。その人物が「ヨセフ」であることと「アリマタヤのヨセフ」であることは矛盾しないので。210.191.177.156 2007年1月8日 (月) 09:45 (UTC)[返信]
「またこれら問題になりがちな通称は、本来的に聖書を含む教会伝承で取られている曖昧回避記法なんです」の一文はお読みいただきましたか。また、「ヤコブ(主の兄弟)」は読者により「主の兄弟ヤコブ」が復元されることを前提にしてる便宜上の記法で、両者は全く等価です。ですので常態や違和感は論拠にしないでいただけますか。配置や検索の便のためにこの手の倒置を行うことは分類の初歩ですから、慣れてくださいとしかいえないのですが。LR 2007年1月8日 (月) 11:36 (UTC)[返信]

改名提案(2009年3月提出)[編集]

えーと、項目名があまりにへんてこなので議論を追ってみましたが、結局のところLRさんは「ヤコブ(主の兄弟)」という異常な記法が「主の兄弟ヤコブ」という新共同訳に採用された記法に優先する理由を何一つ示していませんよね?「両者はまったく等価」というのも何の論証もないLRさんの主観に過ぎません。「分類の初歩」というのもWikipediaにおいて採用された基準を具体的に示さない限りは、LRさんの主観に過ぎません。LRさん以外には支持者の見当たらない項目名は早急に元に戻したほうがいいでしょうね。以上に反論があるならば、50音順にならべないと検索が著しく困難になる紙媒体との違いも踏まえた上でお願いします。--24.61.43.160 2009年3月5日 (木) 01:56 (UTC)[返信]
もうひとつ補足です。「主の兄弟」か「イエスの兄弟」か?というと、「イエスの兄弟」の方が見かけに反して「主観的」な用語なのです。なぜか?ここで言う「ヤコブ」が本当にイエスの兄弟であったかどうかは実のところ実証不可能です。なので「ヤコブはイエスの兄弟である」という実証不可能な主観・価値判断に依存した言い方で、これを価値中立的と言うのは不可能です。「主の兄弟ヤコブ」は一見価値判断の入った用語に見えますが、新共同訳聖書が彼に言及する際にはこの言い方を用います。で、Wikipediaには聖書の登場人物に言及する際、新共同訳の用語を用いるという事務的なお約束があります。したがって、事務的なお約束を事務的に適用すると「主の兄弟ヤコブ」になります。これは事務的な規則の適用の結果でてきた文字列なので価値中立的と言うことは一応できます。一方で「ヤコブ(イエスの兄弟)」は一貫性もなければ価値中立的でもない項目名の付け方と言わざるを得ませんね。--24.61.43.160 2009年3月5日 (木) 01:56 (UTC)[返信]
コメント「主の兄弟」に反対も賛成もしません。つまり、今回の改名そのものには立場を示しません。端的に申しまして「どちらでも構わない」が、現時点での私の立場となります。但し、以下の文言については指摘させて頂きます。
>Wikipediaには聖書の登場人物に言及する際、新共同訳の用語を用いるという事務的なお約束があります。
「基本的には」新共同訳の用語を用いる傾向は確かにありますが、正教会の記事では「日本正教会での転写」を使用している場合があります。ただ、現状の新共同訳を使用する傾向については正式に合意されていましたでしょうか?Wikipedia:ウィキプロジェクト キリスト教でもそのような合意は見当たらないのですが…。
なお、今回の改名提案について、プロジェクトの方にも報告させて頂きます。--Kliment A.K. 2009年3月7日 (土) 15:37 (UTC)[返信]
ウィキプロジェクトへの参加履歴は短く、合意があったかどうかについては敢えて書きませんが、コメントだけ。新共同訳はカトリックとプロテスタントが公式に認めた翻訳ですので有力なソースではありますが、Klimentさんが指摘されるように正教関係ではその限りではありませんし、プロテスタント内部でも福音派などは新共同訳を認めていません。従って、「聖書の登場人物に言及する際、新共同訳の用語を用いるという事務的なお約束」はしないほうが良いです。ケース・バイ・ケースで議論すればよろしいかと思います。--おーた 2009年3月8日 (日) 03:25 (UTC)[返信]
上の私の発言に誤りがありました。「言及する場合」ではなく、「記事名をつける場合」でした。記事内での言及についてはケースバイケースであるべきだとの点については、私も賛成です。>ご両名
プロジェクトの方、というのがなんのことかよく分かりませんが、お骨折りありがとうございます。
Wikipedia:記事名の付け方に言及されているように「聖書に出てくる人名の表記は日本聖書協会『新共同訳聖書』に準じる」とのWikipediaにおける合意に基づく慣例が既にあるようです。この合意自体が正教会や新共同訳を承認しない教派の用語との乖離を生じ安いとは言えると思うのですが、「ガイドラインを決めるとしたらこれにするしかないよね」というのはあるかと。項目名は一個しか与えることができないので、たとえば「生神女」とか「聖神」とかを(正教会の用語としての記事ではなく、キリスト教全体に関わる概念としての)記事名に与えるのが適切な場合はまずないだろう、というのはあるかと思います。--24.61.43.160 2009年3月8日 (日) 18:44 (UTC)[返信]

「聖書に出てくる人名の表記は日本聖書協会『新共同訳聖書』に準じる」という合意・原則を作ることには反対[編集]

多くの記事(聖人の記事は膨大に存在します)に影響を与えかねない議論を提起なさっておいでの割には、大変恐縮では御座いますが、24.61.43.160さんにはまだ不慣れから来ると思われます認識不足が散見されます。色々とウィキペディア上の記事を御調べになった上で、一般論に展開された方が宜しいかと思われます。
まず、「プロジェクトに報告」と申しましたのは、その直前で上げましたWikipedia:ウィキプロジェクト キリスト教のノートページへの報告を指します。
次に、「Wikipediaにおける合意に基づく慣例が既にあるようです。」と仰いますが、出典を提示して頂けますか?「慣例が存在する」と「合意が存在する」では、重みが違うのです。少なくともWikipedia:ウィキプロジェクト キリスト教では全くそのような合意内容が提示されていません。
また、確かに正教会に係る記事を執筆している小生も「聖母マリア生神女マリヤに改名せよ」などという無茶を主張する事は絶対にありませんが、そもそもe-bibleで御検索頂ければ判ります通り、「聖母」は新共同訳聖書には出て来ない訳語・単語ですよね。
例外も少なく無い慣例として」位ならば認められなくもありませんが、例外の存在についての留保が無い限りは「聖書に出てくる人名の表記は日本聖書協会『新共同訳聖書』に準じる」という合意・原則を作ることには反対です。新たな混乱を呼ぶ事必至です。例えば聖書に登場するリヌス (ローマ教皇)スタヒイコンスタンディヌーポリ総主教)は、新共同訳とは別の、教派ごとの概念・事情によって記事名が決定されています。--Kliment A.K. 2009年3月9日 (月) 05:08 (UTC)[返信]
二つの意味で「聖書に出てくる人名の表記は日本聖書協会『新共同訳聖書』に準じる」という合意・原則を作ろうとしているつもりはありません。
私は「慣例」と「合意」を区別していませんでしたので、混乱を招いているかもしれません。その点は申し訳ありません。
まず、私が言っているのは、単に「記事名の付け方」の表記だけです。
Wikipedia:記事名の付け方#人名に「6. 聖書に出てくる人名の表記は日本聖書協会『新共同訳聖書』に準じる。」とする「慣例」があることに言及しようとしていました。本慣例は「多くの利用者が基本的に同意しており、従うことが推奨され」ているものだと思っています。また、これはWikipedia全体にかかる慣例であると思っており、Wikipedia:ウィキプロジェクト キリスト教は先の慣例を前提として議論がなされているものだと思っています。新しい合意や原則を作る意図はありません。
「例外」の存在についての私の考えですが、
「ヤコブ(イエスの兄弟)」といった、聖書に現れるにも関わらず、記事名に新共同訳の用語を採用しないのであれば、それなりの「理由」が説明されるべきとは考えています。
たとえば、イエスの母とされる人物について「生神女マリヤ」という記事があるとするなら「この記事は正教会の伝統的な観点に基づく『マリア』の側面についての記事だから云々」というような説明があるべきだと思います。(もし、誰かが訊いたとしたらそう答えればよい)
リヌス、スタヒイは聖書中の人物と同一であるかないか、議論の余地のある人物であると思います。現行の記事を見る限り、これらはローマ教皇、コンスタンディヌーポリ総主教としての側面を述べる記事であって、聖書の登場人物としての側面を述べる記事ではない、したがってカトリック、正教会それぞれの内部において、もっとも広く通用する名前を採用した、という説明が可能であると思います(したがって、このような例外は自ずと「少なくない」ものになると思います)。逆にリヌスではなく、リノスとしてしまったら特定のPOVであるところの「2テモテに出てくるリノスと2人目のローマ教皇リヌスが同一人物である」という観念に乗っかったものになってしまいます。
しかし、「ヤコブ(イエスの兄弟)」に関しては、この種の説明が今までのところまったくありませんし、今後も可能であるとは思えません。これがこの個別の記事について改名を提案している理由です。--24.61.43.160 2009年3月9日 (月) 10:20 (UTC)[返信]
それでは、Wikipedia:記事名の付け方#人名での「慣例」は原則ともルールとも違うということ、つまり「事務的に従う」ようなものではないということはご理解いただけたものと考えますが、それでよろしいですね?その上で、「主の兄弟ヤコブ」について議論させてください。
そもそも新共同訳聖書を典拠にして「主の兄弟ヤコブ」を記事名にするのも無理があるんじゃないの?というのが私の意見です。Kliment.A.K.さんが紹介していただいたe-bibleで検索してみても、エルサレム教会の長老として言及される個人としてのヤコブは5回ほど出てきますが、「主の兄弟ヤコブ」という個人の呼び方は1箇所しかありません。
  • 使徒 15:13 二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。
  • 使徒 21:18 翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。
  • ガラテヤ 1:19 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。
  • ガラテヤ 2:9 また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、
  • ガラテヤ 2:12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
つまり新約聖書が書かれた当時、「主の兄弟ヤコブ」という呼び方はありましたけどいつも必ずそう呼ばれていたわけではありません。『ユダヤ戦記』のヨセフスは「義人ヤコブ」と記しましたし、英語版wikiもフランス語版wikiもこれを表題としていますよね(en:James the Justfr:Jacques le Juste)。この英語・仏語の記事を見ていると「エルサレムのヤコブ」という呼び方もあるようです。この問題は結構ややこしくて、新共同訳を持ち出してもそう簡単に解決するとは思えません。私個人としては「主の兄弟」を百科事典の見出しにするのはキリスト教POVなんで抵抗があります。信徒からすれば「主」なんでしょうけど、キリスト教外部から見たら何が「主」なんだ?てことになりませんか。それならば英語・仏語などで採択した「義人ヤコブ」は、妥当な選択だったような気がします。(念のために書きますがヨセフスはキリスト教徒ではありません。)とはいえ、私は表題にはあまり拘らないので今のままでも全く構いません。--おーた 2009年3月9日 (月) 14:40 (UTC)[返信]

賛成 -「主の兄弟ヤコブ」への改名に賛成します。新共同訳だけでなく、文語訳聖書口語訳聖書新改訳聖書など主要な翻訳聖書が「主の兄弟ヤコブ」としています。「ヤコブ(イエスの兄弟)」なる語は一般的な語とは見なせません。--Evangelical 2009年3月13日 (金) 14:57 (UTC)[返信]

コメント - 現時点での私の意見を短く纏めますが、一般論への安易な拡大解釈が行われないという留保つきであれば、「主の兄弟ヤコブ」でも「ヤコブ (イエスの兄弟)」でも、いずれでも構いません。つまりは改名提案そのものにつきましては、条件つき消極的容認という事です。--Kliment A.K. 2009年3月13日 (金) 16:15 (UTC)[返信]