ノート:ベトナム帝王一覧

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

帝王の項目名について[編集]

すでにノート:黎朝に記しましたが、帝王の項目名を「姓+諱」にすると混乱が生ずるので、代表的な(「正統な」)王朝については廟号ないし諡号にした方がいいのではないかと思い、手を入れました。もっとも鄭氏や阮氏をどうするかなどは難しい問題です(諱はだいたい一つですし、王号で呼ばれることは少ないかと考えてそのままにしました)ので、このような形でいいかご意見を伺いたいと思います。--Novo 2006年12月26日 (火) 18:55 (UTC)[返信]

項目分割について[編集]

チャンパ王国の王名一覧をこのページに置くのは中国語版に従ったものと存じますが、全体の流れから言って独立させた方が見やすいのではないかと考えました。ご意見をいただければ幸いです。--Novo 2006年12月26日 (火) 18:55 (UTC)[返信]

こんにちは。単純な疑問なのですが、「全体の流れ」とはどのようなものでしょうか(例えばベトナム史の研究者からチャンパ王国はベトナムの王朝とみなされてないとか?)。中国帝王一覧が地方政権の君主も掲載の方向で行ってるようなので、それに倣って全部掲載でもありかと思います。尤もウマイヤ朝以前が掲載されていないスペイン君主一覧のように記載する王朝を選ぶというのもありなようです。―霧木諒二 2006年12月26日 (火) 19:28 (UTC)[返信]
ご質問ありがとうございます。チャンパ王国の歴史とベトナム史との関係はとても微妙な問題で、私も「チャンパ史がベトナム史でない」と断定しているわけではありません。私が「全体の流れ」と書いたのは単純な見やすさの問題でして、「南越国」のあと、やはり性質の異なる(対立している)チャンパ王国が割り込んで15世紀までずっと続き、その後1世紀まで戻って「北属期」がはじまるというのは参照しづらいので、それなら分割するか、あるいはお話の通り残した上で、たとえば最初か最後に「チャンパ王国」の節をもってくるか、どちらかがいいのではと思った次第です。--Novo 2006年12月26日 (火) 19:47 (UTC)[返信]
説明ありがとうございます。北部と南部でずっと対立した政権が存在していたということでしょうか。だとすると仰るとおりチャンパ王国は分割してもいいかもしれません。個人的には網羅されているほうが便利で楽だと思いますが、時代が行ったり来たりするのはわかりづらいですね。
ただ、分割する場合は冒頭の定義を
'''ベトナム帝王一覧'''では、主に現在の[[ベトナム]]北部を支配した中国系の君主を一覧する。南部にはこれとは別に[[チャム族]]の[[チャンパ王国]]が存在したが、こちらの君主は[[チャンパ王の一覧]]を参照。
みたいに案内が欲しいところです(文章に誤りがあったら申し訳ありません)。―霧木諒二 2006年12月28日 (木) 14:36 (UTC)[返信]
了解しました。網羅されている方が便利とのご意見もいただいたので、「チャンパ王国」の節をページの最後にもってくるという第2案を提案します。分割案とあわせてご意見をいただければと思います。--Novo 2006年12月28日 (木) 22:56 (UTC)[返信]
お返事が遅くなりました。私は「こちらにすべきだ」というような強い意見を持ってない(というかその判断ができるような知識がない)のですが、一覧の節の移動でわかりやすくなるのであればそれでいいのではないかと思います。
オフトピですが、領域がややこしいのであれば魏晋南北朝表のようなものがあるといいのですが(英語版にも中国語版にもベトナム語版にもそれぞれの王朝の地図がなかったもので)。―霧木諒二 2007年1月1日 (月) 19:01 (UTC)[返信]

(インデントを戻します)コメント拝見しました。私も分割そのものに固執するつもりはありませんので、今のところ「節の移動」が穏当というところでしょうか。ただ、チャンパ王の編集をされた方々のご意見もいただければより強い合意になると思いますので、もうしばらく編集は実行せず、提案(特にチャンパ王国の節をベトナム王朝の後にもってくることについての是非)をつづけることにします。

あと、お話いただいた領域の件ですが、チャンパ王国に簡単な地図があります。地図に出ている領域の北側にベトナム王朝があってずっと並立しており、最後に併呑されたという経過ですので、魏晋南北朝のような複雑さはありません。--Novo 2007年1月2日 (火) 02:54 (UTC)[返信]

イギリス君主一覧なんかも参考になるのでは?(大越→イングランド、チャンパ→スコットランド)水野白楓 2007年1月3日 (水) 10:11 (UTC)[返信]

ご教示ありがとうございます。見てみましたが、イギリスの場合はいくつか(ウェールズ、アイルランドも含めて)分立していた王国が最後にひとつ(連合王国)になるという形であり、その中でスコットランドとイングランドは通婚や国王の兼任のような交流もあるので自然な流れになっていると思いました。ベトナムとチャンパの場合そういう関係がなく、チャンパが一方的に征服されてしまったので、同一ページに置くにせよ分割するにせよ、はっきり分けてしまうしかないように思います。
あと、Category:チャンパ王国という新しいカテゴリが作られていますが、これを認めるならば、むしろ分割した方がいいような気もしてきました。いかがでしょうか。--Novo 2007年1月5日 (金) 01:40 (UTC)[返信]
新しいカテゴリができていることから、分割を実行しました。ご意見があれば引き続きお寄せください。--Novo 2007年1月14日 (日) 15:20 (UTC)[返信]

独自研究の除去[編集]

ノート:呉朝にも書きましたが、楊清の乱が「前楊朝」、節度使・楊廷芸の支配が「後楊朝」とされていたのでそれぞれ「楊氏」に書き換えました。前者は反乱を起こしただけ、後者は節度使になっただけで、王朝を立てたとは言いがたい人物です。さらには、趙國達の乱が「後趙朝」となっていたのも「趙氏」に直しました。これはもしかすると、趙佗の南越国を前趙朝に見立てて、Wikipedia編集者が勝手に後趙朝と記述した可能性まであると思います。他にも怪しい部分はあるかと思いますので、複数の問題タグを貼ってあります。--Tonbi ko会話2016年6月9日 (木) 00:23 (UTC)[返信]