ノート:フランシス・プーランク

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フランス語の発音[編集]

  • 別人ですが、同じPoulenc姓について「プーランク」と発音するというページもあります[1]。一般には、フランス語の語尾のcは発音しますよね。もし発音しないというなら、論拠を示してください。なお、siの発音をシと書く問題は、プーランクに限りませんので、短縮しましょう。-- [Café] [Album] 2006年5月26日 (金) 03:53 (UTC)[返信]
  • っさん、ご意見ありがとうございます。Poulencはまだ著作権が残っているため、演奏・録音を予定する際には、管理者やJASRACなどに対して所定の手続きが必要なわけです。それで、かつて私が著作権の処理でMusic Sales Corp.の窓口に電話した時、向こうは"c"を発音なしで発音していたため、そこで「あっ、そうか!」と思ったのが初めてのきっかけでした。念のためについでにすぐ質問して確認したのですが、やはり本当は"c"を発音しないとの説明を受けました。彼の多くの著作権を扱う窓口で、誤った習慣や情報が定着しているとは、ちょっと考えづらいです。
しかしながら、今回ちょっと検索して、ネット上の情報も参照してみましたが、少しだけ論議はあるようですね。っさん参照のページに出てくる製薬会社Rhône-Poulenc社は、意外に日本で知られているようですが、同社はこの作曲家Poulencの一族による会社だという記述も見つかりました。それを「プーランク」と発音するんだと弾糾している、在フランスの音楽家もいらっしゃいます[2]が、一族が全て厳密に同じ発音をするという確証はないわけですし、現地に2種類以上の発音方式があっても不自然ではありません。Rhône-Poulenc社の日本名「ローヌ・プーラン社」という表記を決定する際に、現地での発音を全く無視したともちょっと考えづらいですし、仮に"c"が本当は発音されるのに日本人向けには割愛された結果だとしても、Music Sales Corp.の窓口による情報も合わせると、"c"は発音しない派の方が優勢に思えてきます。まあ、ここで論議を続けてもあまり進まないので、再度Music Sales Corp.に問い合わせをしてみて、また、パリ国立高等音楽出身でPoulencを現地で弾いたこともある友人に連絡して、聴衆や学校関係者の発音がどうだったか聞いてみます。両方返答が揃ったら、ご報告しますね。
ありがとうございます。よろしくお願いします。-- [Café] [Album] 2006年5月29日 (月) 00:11 (UTC)[返信]
fr:Discussion Projet:Musique classique#Poulencで尋ねてみました。答えも返ってきています。ご覧ください。-- [Café] [Album] 2006年5月31日 (水) 14:44 (UTC)[返信]
また、"si"のカタカナ表記についての文を短縮してくださったお蔭で全体が確かに一般には読みやすくなっていますが、私はその処理について多少の疑念を抱いています。外来語のカタカナ表記の問題について、全ての日本人が的確な認識を持っているとは必ずしも言えず、特に年配層や若年層には、[si]でも[shi]でも原語の綴りを気にしない人は少なくはないと思います。百科事典として、全体が読みにくくならないように整理して記述するのであれば、詳細に記述したいという目的を前にして、本題にまつわるあらゆる内容を盛り込むことは有意義であると考えます。その中で、読者が各自の判断によって取捨選択すべきであり、例えば小学生がここを読んでいるかもしれないという配慮が執筆においてなされてもいいはずです。暗黙の了解などを作って記述を簡素化し、底辺を上げようとすると、それを持ち合わせていない読者は戸惑います。「発音をシと書く問題は、プーランクに限りませんので」というご意見は、そういう問題にこれまで遭遇したことのない読者にとって不親切だと考えます。いかがでしょうか?彼らは理解につまづいて、どこを調べれば関連情報が見つかるのか路頭に迷ってしまうでしょう。
siの音写については、または音写無声後部歯茎摩擦音sshなどのページにゆずり、このページにはそこへのリンクを貼るだけにするべきだというのが私の意見です。同じ問題はたとえば音階の「シ」やアルファベットのCやあらゆる場所にあるわけですから。-- [Café] [Album] 2006年5月29日 (月) 00:11 (UTC)[返信]

  • 表記については、日本語で別の表記がある(書籍など)場合は記述する意味がありますが、フランス語でどう発音するかは、原語表記がある他の項目同様不要です。また、大量の加筆部分はプーランクの音楽について否定的な印象を与えるものになっていますが、いささか中立性を欠いているように思います。もし、どなたかの説であるなら、それを明記して、参考文献を挙げてください。投稿者の考察による場合は、「独自の研究」であり、掲載を控えるべきです。--みっち 2006年5月26日 (金) 04:07 (UTC)[返信]
  • みっちさん、ご意見ありがとうございます。投稿文が私個人の専有物ではなく、もはや皆さんの共有物だという前提の下に申し上げたいと思います。
百科事典やそれ以外の著作物においても、常に人間はより真実を追究したいという思いに際限がないはずです。そうでなければ、この世に同じ分野の著作物が次々と出ることはなくなってしまうでしょう。従来の著作よりもより解りやすい記述、より詳しい記述、より正しい記述、より新しい記述を誰もが目指すが故に著作することと思います。そういう意味で、本題に全く関係がないと思われるもの以外は、何でも付随して記述されて構わないと私は考えます。但し、条件として、全体が理解されにくくならないように工夫した上で記述するという配慮が必要なだけであり、理解の妨げにならないかぎりは、関連内容がいくらあっても内容が豊富になることは好ましいと私は考えます。前述のように、不本意な内容でないかぎり、執筆側・掲載側が一部を都合で割愛するのではなく、読者が各自の判断で自由に篩い分けすればいいだけだと思います。
そういう意味で、外来語や外国の事項について、正しい発音を知りたいという読者の好奇心に応えようという執筆者がいても構わないのではないでしょうか?記述内容に、サイト全体としての線引きや決まりごとがあった方がいいのは解りますが、実際の出版物では印刷スペースの都合があったりするものの、ここの良さは、それがないことにもあると私は考えています。「不要です」と言い切ってしまうみっちさんのご意見は、意図せずとも、そういう内容を必要としている読者の存在や探究心を切り捨てることにもなってしまうわけです。みっちさんが過去に何件か、発音にまつわる議論を進めていらしたのを今回拝見しましたが、私も以前から、日本にそれらの正しい情報が広く出回っていないことに疑問を感じてきました。何か手がかりを見つけようと思っても、自力で探すには多大な労力と時間がかかかることもありましたし、最終的に真実を追究するだけの充分な材料にありつけないことだってあるわけです。百科事典は、知を欲するあらゆる人に応えるものであるはずですから、少しでもそのような苦心に応じることのできるものであっても嫌われるものにはならないはずです。
同様に、外来語のカタカナ表記について「別の表記がある(書籍など)場合は記述する意味がありますが」というご意見にも疑問を抱いています。もしそれを肯定すれば、逆に「別の表記がない場合は記述する意味がない」ということにだってなりそうですが、本当にそうでしょうか?「世間で頻出していない論議についてはWikipediaにおいて触れない」という方針を仮に作ってしまったら、過去のどの著作物よりも劣った二番煎じのような記述の寄せ集めサイトになってしまい、執筆者は既存の著作物に問題を抱いていても、何ら核心に迫ろうとする執筆は叶わなくなってしまうはずです。当サイトの良さのひとつは、最新の内容を盛り込むことができるということでもあり、既存のどの記述よりも核心に迫ったり正しい内容へと誰もが世間を誘引することができ、そしていくら専門的な内容を盛り込んでいけないという規制はないということでもないでしょうか?
当サイトがもし、既存の特定できる著作物を根底にしたものに限り、尚且つ保守的な内容だけに留まるとしたら、投稿文は専門性に欠け、専門家からは横目で見られる程度の存在以上にはなれないはずです。信頼性の低いサイトとしての評価が仮に定着してしまえば、読者が無料で閲覧できるという魅力以外に強みが殆どなくなり、有料の百科辞典を入手した方が安心と考える人が増えてしまうのではないですか?本題に対して是であっても、非であっても、それらがどれも不当な内容でなければ、記述されてしかるべき内容と考えますがいかがでしょうか?但し、その判定を下すには、判定者がよほどの専門家である必要がありますが、誰でも投稿できるこのようなサイトにおいて、現実世界の職業や身分は何の説得力も持ち合わせていませんから、ユーザー同士がその判定をしようとするのであれば、判定者が自身の見識に対して謙虚に振る舞うということが考えられるかと思います。「是」にも「非」にも、それら内容を判定するには本来なら広い見識を必要とするはずです。分をわきまえてそこまで立ち入らない自主規制を引くのは素晴らしい謙虚さではありますが、皆して「専門家でないのなら、そっちに行っちゃいけないと」と互いの身を引き合っていれば、仮に専門家が批判的な発言を持ち込んだとしても、それをも寄ってたかって取り下げることになるわけです。
「投稿者の考察による場合は、『独自の研究』であり、」という判定は、遠回しに「どんな投稿者の『独自の研究』も掲載に値しない」と決めつけることになってしまいます。その前に考えていただきたいのは、どの著作物も、この世の人間の手によったものだということです。そこには、多くの独自の研究、独自の論題が詰まっているわけで、時にはその全てが独自のものであることだってあり得るわけです。それにもし価値があるならば、広く共有されるだけの客観性と信頼性とが努められているからではありませんか?もし、判定者が掲載内容の本題について詳しくないとしたら、どんな投稿文をも「独自の研究」などとは判定できないはずです。判定できるとしたら、自分が最上の見識を持っているとか、少なくとも相手よりもずっと見識が広いという前提が敷かれていることになってしまいます。更に、「掲載を控えるべきです」という強い助言には、投稿内容に対する具体的な賛同も批判も裏づけられてはいません。
Poulencに対しての追加された記述は、正直なところ、もう少し優しくてもよかったかという思いが残らなくはありません。特に、彼のことを愛しちぎってやまない愛好家が批判的記述を目にすれば、その内容を受け容れ難く感じるかもしれません。しかしながら、賛も否も全て公正に記述されることが、本当の意味でPoulencのことを知りたい読者のためになるはずで、それをどう理解するかということもまた、きっと読者の判断に依存すべき領域なのだと考えます。何よりいけないのは、読者に不当な先入観を持たせることと、公正さを捻じ曲げた記述を展開することでしょう。
何より、誰でもいつでも改訂ができるこのようなサイトにおいては、本題に対する愛好家が、「賛」を助長させ「否」を追放すべく働きかければ、公正さという意味において、どの項目についても評価の低いものにしかならないはずです。それは、この百科事典における重大な危険性のひとつだと考えます。事実、例えば批判されるべき余地が皆無である作曲家がいるかというと、各人に一長一短はあるはずです。すなわち、Poulencに批判されるべき面が全くないというのは嘘になってしまいます。ユーザーの現実世界が見えないここにおいてそういう内容を論じる際に、極論的には、誰もが自分のことを専門家と名乗ることは難しいわけですが、だからこそ、ユーザー同士が、自主的に己の分をわきまえつつ、互いに、認めるところは認め合って盛り込んでいくことが大切なのではないでしょうか。
実際の音楽百科事典においては、その道の専門家が執筆するわけですが、基本的に他人の担当項目には他人は議論を持ち込みません。なぜかと言えば、全ての項目について議論を徹底し始めれば、何十年も解決が見込まれず出版できなくなることが明白だからです。ですから、執筆者の責に任せて全面的に書き進めてもらうわけです。助手や、心を開いた共同執筆者がいることがあっても、基本的に個人作業になりはするので、内容の信頼性と公正さで疑念が湧くものの、執筆者はその項目に特別詳しい専門家が選任されているだけに、ある程度の確かさは保たれることになるわけです。但し実際には、非のつけどころのない仕上がりというのはなかなかあり得ないもので、どこかに誤りや偏見などが部分的に含まれていることもあるわけです。それに対して当百科事典では、偏見や誤りの危険性は常に誰かが払拭してくれる可能性があるものの、参加型の執筆ということは逆に、あらゆる視点の人との論議を納得づめにすることは困難で、たった数人のユーザー同士で意見をどうにかとりまとめたとしても、長い年月の中で後々多くのユーザーが接することになれば、過去の議論が決して最上の答えを出していると全面的に賛同してくれるとは限らないはずです。
そう考え進めると、投稿型による執筆に限界を感じ、投げやりな気持ちになりそうなくらいです。膨大な数のユーザーが同じページの議論に参加するような時代が来れば、どのユーザーも、たった一つのページでの議論に長期間専属的に張りつかなければことが進まなくなるでしょう。しかしながら、ユーザーの議論も少ない現在だからこそ議論しやすいという現実もあるでしょうから、ユーザーが互いのことを尊重し合いながらも、そのユーザーの良さを謙虚に認め合い、本題に対して肯定的な記述も批判的な記述も公正さに努めつつ盛り込むことに対しては、問題はないものと思います。
確かに、このPoulencの記事は、もう少し公正さを持って改訂しようとは思っています。ただ、長所にも短所にも触れている点では、以前の内容よりはずっと進化したと自負しています。残るは、読む方々がそれをどれだけ理解してくれて、賛同してもらえるかですが、それについても、厳密に記事を完成させるならば、譜例を出して詳細な楽曲分析を大量のページで進めていく必要が出てきてしまいます。そして、作曲学的な彼の技術をとりまとめるような大規模な研究ページも必要になってくるでしょう。どちらにしても、彼の作品においては著作権があと暫く残っているため無理な話ですが、それが解禁されたとしても、私はそこまでの多大な情熱を注ぐほど彼の音楽を愛してはいないことを表明しなくてはいけなくなってしまいます。
Wikipediaに手をかけるようになったばかりの新人ユーザですが、問題は山積みにあるものと感じています。ただ私は、このサイトから誤った記述を少しずつ改善していきたいですし、心もとない内容の項目に、説得力のある専門的な文章を足していけたらと、サイトの充実を心から願っていることに変わりはありません。音楽をこよなく愛する者として、恐縮ながら、このまま放置しておくにはあまりに心苦しいページを幾度となく目にしてきました。私生活が多忙なため、それほどこちらに貢献もできないとは思いますが、少しずつでも積み重ねで関与していけたらと願うばかりです。Poulencの追加内容についても、そういう気持ちで書いたことを、少なくともご理解ください。そして、過去の執筆者の皆様が、今回の追加文を仮に望んでいなかったとしたら残念なことですが、ひとつの見識として目を通してみる価値はあることと思います。
とりあえず、せっかく乗った船ですので、もうちょっとこの記事を改善していきたいと思っています。何かご意見でもございましたら、またこちらでお待ちしております。お邪魔しました。--024 2006年5月28日 (日) 12:08 (UTC)[返信]
横から失礼します。それについての長い議論があらゆる言語版のウィキペディアになされてきたと思います。その結果として、024さんの思いとは裏腹にすでに英語版ウィキペディアではen:Wikipedia:No original researchのように、独自の調査は排除されました。同様に日本語版でも、翻訳中ではありますが、その方向で動いています。ご理解ください。-- [Café] [Album] 2006年5月29日 (月) 00:11 (UTC)[返信]
発音については、プーランクだけの問題ではありません。もし、024さんがあらゆるカタカナ語表記やその発音について、すべて正しい発音についての解説が必要だと思われるのでしたら、とりあえずWikipedia:井戸端にでも提起されてはいかがでしょうか。「別の表記がない場合は記述する意味がない」というのは、私はまったくそのとおりだと考えます。--みっち 2006年5月29日 (月) 02:18 (UTC)[返信]
IPAでの表記を提案します。カタカナで表記できるとは全く思えませんので。Native speakerによる発音の音声ファイルへのリンクがあれば、なお望ましいと思います。ところでPoulencの発音の件ですが、フランス人の返答からすると普通は語尾のcを発音するということでいいんですよね? --Arpeggio 2006年6月6日 (火) 03:07 (UTC)[返信]
どうもそのようですね。まあよく英語版などでは、音声ファイルへのリンクがありますよね。必要ならですが、私には本質的な事柄と思えないのですが.....-- [Café] [Album] 2006年6月6日 (火) 03:47 (UTC)[返信]

中立的な観点について[編集]

024さん、お返事ありがとうございます。 私としては、024さんが記事を投稿されるにあたって、ウィキペディアのWikipedia:基本方針とガイドライン、とりわけそのなかの、Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:ウィキペディアは何でないかに目を通されるようお願いします。 「中立的な観点」は、ウィキペディアの記事における方針の三つのうちのひとつです。ほかの二つは「検証可能性 (Verifiability)」 と「独自の研究を含めない」です。また、Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは演説場所ではありませんには、これらを補足するより具体的な例が示されています。 これらによれば、ウィキペディアは必ずしも「真実を追求する場」ではありません。真実も公正も、ある人によってはそうですし、ある人によっては間違いです。記事に書かれるべきは、事実であって意見ではありません。そして事実は、一般に知られていたり、検証可能であることが求められます。

具体的には、以下の文章には、明らかに主観が認められます。

  • 「主題や素材を展開させながら知的に構築することは非常に苦手」。なにが知的であるかは、議論の分かれるところでしょう。
  • 「熟考型の作曲家肌ではなかった彼は、多くの発言力を素材の展開に依存せず多様性で間を持たせ、また和声的な魅力で書法の甘さを自己防衛……」。この前後の文章を含めて否定的で、偏った観点となっています。
  • 「ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスが殊に息の長い音楽を書くことに成功したのは、彼らのひとつの武器であった高い知性による熟考の賜物であると言えよう。」。旋律の息の長さが知性や熟考の賜物であると「意見」として述べています。しかも、もはやプーランクの事跡・評価ではありません。

それで、024さんにもう一度確認したいのですが、これらはどなたかの説でしょうか。であるなら、それを明記して、参考文献を挙げてください。率直に申し上げますが、「ひとつの見識」ではウィキペディアには掲載できません。そのようなものは、個人のサイトでいくらでも述べることが出来ます。--みっち 2006年5月29日 (月) 02:18 (UTC)[返信]

コメントアウトします[編集]

対話が止まってしまいましたので、該当の箇所をコメントアウトします。問題があれば、こちらに提起してください。-- [Café] [Album] 2006年6月8日 (木) 07:56 (UTC)[返信]

編集報告[編集]

「~だろう」「~言えよう」といった、出典に基づかないことが自明な記述、WP:Vを満たさない記述の削除と出典要請を行いました。本編集を差し戻したユーザーがいますが、正当な理由なく差し戻す行為はご遠慮ください。--Wikied 2010年5月5日 (水) 05:28 (UTC)[返信]


差し戻した者です。本項目において、独自研究やエッセイ・批評が掲載されている事は事実であり、確かに一部改善されている箇所も見受けられましたが、大まかな編集内容は過剰な出典要請であり、意味の無いものと判断致しました。
そもそも例えば
曲の構成は、多くは単純明快なものによっており、もしくは即興的な志向の曲はスケッチ的に仕上げられている。
この記述にはノータッチで
プーランクの旋律は、類似した旋律が様々な作品の中に見出され、それらはどれも長続きすることはなく、思いついたかのように強制的なカデンツァ(終止)に突入するという定型が認められる。
こちらに要出典を貼付ける理由が不明です。(認められるの表現は変えるべきですが)なぜこのようなレベルで編集方針にブレが生じるのでしょうか。
またどちらも自明の事で、このような記述に要出典を貼付け始めたら全くキリがありません。
Wikipediaの、編集時に従うべきとされる公式見解は詰まるところWikipediaのより良い発展のために現段階で用意されている一つの方針です。
例外無しにそれらに従ったとしてより良い記事が生まれるかといえばそうとは限りません。少なくとも現段階であなたのような観点で記事を編集していけば、書ける内容が次々と制限され、Wikipediaは市販の百科事典よりも無味乾燥でWikipediaとしての長所が削ぎ落とされたつまらない代物に成り下がるでしょう。
これまでも、多くの利用者とこのような内容で議論を重ねて来られたようですが、もう少しご自身の編集方針について見直されては如何でしょうか。
なお、私が行ったのは、過剰な出典要請(荒らし行為)に対するrvvであり、正当な差し戻しです。湘新特快 2010年5月5日 (水) 10:49 (UTC)[返信]
湘新特快氏の気に入らない編集部分があったからといって、「独自研究やエッセイ・批評」と一緒くたに差し戻すのは問題でしょう。まして荒らし行為と断じるとはどのような了見でしょうか。
どちらも自明の事で、このような記述に要出典を貼付け始めたら全くキリが」ないとの湘新特快氏の見解は、一般常識に照らしたものとはみなせず、合意することはできません。
湘新特快氏の差し戻しは不当であるという判断は変わりません。--Wikied 2010年5月5日 (水) 11:29 (UTC)[返信]


ご返答ありがとうございます。
既に述べましたが、編集の大部分は行き過ぎた出典要請です。また”こちらに要出典を貼付ける理由が不明です。”に返答が無い限り、Wikiedさんの編集に妥当性を見いだせず、荒らしと見なされても仕方がありません。Wikiedさんは数年に渡り同様の問題で物議を醸し出しているようですが、今回のような編集の仕方をご自身のノートなどの於いても他の利用者から荒らし行為と指摘されています。
高い中立性をWikipediaに求めて活動される事は大変素晴らしいと思いますが、いささか過剰であるようです。編集方針を見直す事をお奨めします。湘新特快 2010年5月5日 (水) 12:12 (UTC)[返信]
出典要請部分についてですが、出典要請が必要であっても一括して要請しているわけではありません。多量の要請をすれば湘新特快氏のように荒らしと判断するユーザーもいますし、少なければ少ないで異議を唱えるユーザーもおり、裁量によります。
「編集の大部分は行き過ぎた出典要請」と主張されても、こちらも同様に妥当性を認めることができません。
「荒らしと見なされても仕方がない」かどうかは、当事者のみの主張では無力です。これまでにも当方の主張との対立意見があったことは間違いないですが、荒らしという見解が正当と断じることもできないでしょう。
湘新特快氏には、WP:VH:RVを今一度参照していただき、今回のような不当な差し戻しをしないようお願いいたします。--Wikied 2010年5月5日 (水) 12:50 (UTC)[返信]