ノート:シュリーフェン・プラン

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シュリーフェン・プランの成功の可能性について[編集]

このプランの成功の可能性については、色々編集が行われるなど、議論の的でしたが、近年の研究では不可能説が強いのでしょうか?また、それは英・蘭・ベルギーの参戦とは関係が大きいのでしょうか?C Lion hiro 2004年11月26日 (金) 08:27 (UTC)[返信]

ご返答[編集]

少なくとも現状の研究では、プランの成功に関して好意的な研究はかなり限定されています。わが国では、いまだ時代遅れの文献に従った「シュリーフェン神話」がまかり通っていますが、これは本文でも書いたように当の昔に忘れ去られるべきものです。いまでも英国のブライアン・ボンドのような軍事史家は、マルヌ近郊まで到達したという意味で、この計画をある程度好意にみていますが、これはシュリーフェン・プランに好意的なグループでは比較的伝統的な解釈です。しかし、ほかの研究を丹念に見てみるならば、純軍事的側面をきわめて好意的に取った結論であるということが言えると思います。例えば、軍事技術的側面では、マーチン・ヴァン・クレフェルトが、『補給線』(日本語で読めます。少し古いですがいまだに評価が高いです。)のなかで、兵站上の面で1905年のいわゆる「シュリーフェン・プラン」が、まったく非現実的な計画であると述べ、小モルトケがこの点を改善したということを述べています。しばしば非難される小モルトケの「改悪」は、クレフェルトによれば、より現実的な形に兵站面を改善し、また軍事作戦全体を機能化したという結論です。

また、お尋ねの蘭、ベルギーの中立侵犯の問題は、実質的にこの作戦の成功に直接関係してくるものではありませんが、きわめて重大な問題です。二正面戦争に勝つためという軍事的必然性によって、開戦時に国際的な正当性を完全に失うであろう状況を政府に強要したことが問題です。ベルギーへの中立侵犯は、当時の国際社会でのドイツのイメージを決定的に悪化させましたし(ドイツはベルギーの中立を保障する条約に署名していたのに!)、これは英国の参戦に直接的な理由を与えました。しかも、シュリーフェンは、自らの西方作戦が英国の参戦を招くことを知っていましたが、参戦したとしても英国軍の規模が少ないことを見越して、中立侵犯を許容したのです。また、シュリーフェンの案では、オランダ、ベルギーの両方の中立侵犯を行うことが計画されていましたが、これは後に小モルトケによってベルギーのみに変更されています。ドイツ帝国政府は、どうもこの計画を軍事的必然性の立場から容認していたようですが、当時のドイツ社会全般での軍の権力的、社会的、知的ステイタスから考えたならば、政府がたとえ軍の計画に異議を唱えたとしても、それがどの程度効果的であったかは疑問です。つまり、軍事技術的な論理が国家政策に悪影響を与えた一例ということができます。 現状での計画の評価は、短期戦のみを特化したきわめて投機性の強いもので、個別的な軍事技術では大胆さが見られるものの、一国の運命を欠けた戦争計画としては適切なものではなかったということができると思います。 利用者:高田健之助 2004年11月27日 (土) 11:38 (UTC)[返信]

詳細なご返答ありがとう御座いました。私もご紹介の文献などに当たって、研究してみたいと思います。第一次世界大戦でのプランは将に、孫子やクラウゼリッツが戒めた、軍事が政治に優先する投機的な側面が強いのですね。C Lion hiro 2004年11月27日 (土) 15:17 (UTC)[返信]

文献について[編集]

もし、読まれるようでしたら、古典的なものでは、結構いい文献が日本語でありますから、それを読んでみてはいかがでしょうか。ただし、最近の研究の進展はすさまじいので、やや時代遅れのものになってしまう点はご容赦ください。

・ゲルハルト・リッター、新庄宗雅訳『シュリーフェン・プラン ある神話の批判』1988年。 ・M・V・クレヴェルト、佐藤佐三郎『補給戦』原書房、1980年。 ・A・ファークツ、望田幸男訳『ミリタリズムの歴史』福村出版、1994年。 ・ピーター・パレット編『現代戦略思想の系譜』ダイヤモンド社、1988年。 ・H・U・ヴェーラー『ドイツ帝国 1871-1918』未来社、1983年。

入手しにくいものも多いので、図書館などを利用されるほうがいいと思います。

もし外国語がお得意であれば、次のものが面白いかと。 ・Mombauer, Annika. Helmuth von Moltke and the Origins of the First World War. Cambridge, 2001. ・Zuber, Terence. Inventing the Schlieffen Plan: German War Planning, 1871-1914. Oxford, 2002. ・Stig Förster: Der deutsche Generalstab und die Illusion des kurzen Krieges, 1871-1914. Metakritik eines Mythos, in: MGM 54 (1995), S. 61-95. 利用者:高田健之助 2004年11月29日 (月) 23:00 (UTC)[返信]

著作権侵害について[編集]

ここのウィキペディアの内容は別宮氏の第一次大戦サイトのコピーではないか?著作権侵害を構成している蓋然性がある。

ご指摘の通りです。Wikipedia:削除依頼/シュリーフェン・プランを提起しました。--Cave cattum 2007年5月2日 (水) 00:30 (UTC)[返信]

小モルトケによる修正[編集]

いまある記述は、あたかも、少モルトケが、戦争前に、オリジナルの計画通りの右翼の進軍が不可能なので、パリを前に、方向転換して、マルヌ川を渡るように変更したように、書かれていますが、こういう記述は、稀で、出典が必要でしょう。確かに、ドイツ第1軍は、9月1日に、進軍方向を変更して、オリジナルのシュリーフェンプランから、逸脱したのですが、そういうことは、戦争前には、小モルトケといえども、計画していなかった、というのが通説のはずです。--Kmk75s会話2013年11月2日 (土) 03:02 (UTC)[返信]