ネスター (駆逐艦)
| 艦歴 | |
|---|---|
| 発注 | |
| 起工 | 1939年7月26日 |
| 進水 | 1940年7月9日 |
| 就役 | 1941年2月3日 |
| 退役 | |
| その後 | 1942年6月16日に戦没 |
| 除籍 | |
| 性能諸元 | |
| 排水量 | 基準:1,760トン 満載:2,550トン |
| 全長 | 356 ft 6 in (108.66 m) |
| 全幅 | 35 ft 8 in (10.87 m) |
| 吃水 | 16 ft 4 in (4.98 m) (maximum) |
| 機関 | パーソンズ式ギアード・タービン、40,000 hp |
| 最大速 | 36ノット (67 km/h; 41 mph) |
| 乗員 | 226名 |
| 兵装 | 4.7インチ砲6門、4連装ポンポン砲1基、ボフォース40mm砲1門、エリコン20mm砲3門、0.5インチ機銃2基、ルイス機銃2基、21インチ魚雷発射管10門、爆雷投射機 |
ネスター (HMAS Nestor, G02) はオーストラリア海軍の駆逐艦。N級。第二次世界大戦中の1941年2月に就役し、大西洋や地中海、インド洋で活動した。1942年6月、地中海で実行されたヴィガラス作戦中に空襲で損傷し、処分された。
目次 |
艦歴 [編集]
グラスゴー、ゴーバンのフェアフィールド社で建造[1]。1939年7月26日起工[2]。1940年7月9日進水[2]。1941年2月3日就役[2]。本国艦隊の第7駆逐群に所属した[3]。
1941年3月1日にスカパ・フローに着き[4]、アイスランドに向かう船団の護衛などに従事した[5]。4月10日から4月28日までクライドで改装工事が行われ、285型レーダーが搭載された[5]。
5月5日にネスターは第6駆逐群に加わり[6]、軽巡洋艦エディンバラ、マンチェスター、バーミンガム、駆逐艦ベドウィン、ソマリ、エスキモーと共に北極海でドイツの気象観測船の捜索に当たった[7]。5月7日、駆逐艦ソマリによって気象観測船ミュンヘンが捕捉され、ネスターは捕虜となったミュンヘンの乗員を乗せて5月9日にスカパ・フローに戻った[7][6]。
5月18日、ドイツ海軍の戦艦ビスマルクと重巡洋艦プリンツ・オイゲンによる、大西洋での通商破壊を目的としたライン演習作戦が開始された。5月22日、ネスターは本国艦隊の戦艦キング・ジョージ5世、空母ヴィクトリアスなどと共にスカパ・フローから出撃した[8]。5月24日、ビスマルク、プリンツ・オイゲンとイギリスの巡洋戦艦フッド、戦艦プリンス・オブ・ウェールズとの間でデンマーク海峡海戦が発生し、フッドが撃沈された。ネスターはビスマルクを追撃する艦隊に同行したが、5月25日に給油のためアイスランドへ向かい、以後の戦闘には参加しなかった[6]。ビスマルクは5月27日にキング・ジョージ5世などに捕捉され撃沈された。
7月、ネスターは地中海でサブスタンス作戦に参加した。これは7隻の船からなる船団を西からマルタへ送るというものであったが、1隻はジブラルタル沖で座礁し作戦参加が不可能となった。ネスターは7月19日にジブラルタルに到着した[9]。7月22日、ネスターはイタリア潜水艦ディアスポロが発射した魚雷を発見、巡洋戦艦レナウンに警告を送ると共に爆雷攻撃を実施したが、結局潜水艦を見失った[10][11]。7月23日には空襲を受け護衛艦艇に損害が発生した。さらに夜、パンテッレリーア島の北でイタリアの魚雷艇による襲撃があり、貨物船シドニー・スターが被雷し落伍した。それに気づいたネスターはシドニー・スターに近づき、487名を移乗させた[10][12]。それから、ネスターとシドニー・スター、そして救援に派遣された軽巡洋艦ハーマイオニーの3隻はマルタへ向かった。途中空襲を受けるが命中弾はなく、3隻は7月24日午後2時にマルタに到着した[10]。7月27日、ネスターを含む艦隊はジブラルタルに帰投した[10]。
ネスターが参加した次の作戦はスタイル作戦であった。これは、サブスタンス作戦時に座礁した兵員輸送船に乗っていた兵員など、これまでの作戦でマルタへたどり着けなかった者を巡洋艦などに載せて運ぶというものであった[13]。それを援護するため、H部隊が7月30日にジブラルタルから出撃し[13]、ネスターもそこに加わっていた[14]。兵員輸送に当たったX部隊は8月2日に無事マルタに着き、8月4日にH部隊と共にジブラルタルに帰還した[15]。
8月6日からはネスターはOG70船団を護衛し、8月12日にジブラルタルに戻った[10]。続いてネスターはミンスミート作戦に参加した[10]。この作戦では8月24日に空母アーク・ロイヤル搭載機がサルデーニャ島空襲を行った。
ネスターは次は中東へ向かう兵員輸送船団の護衛に従事した[10]。9月11日、給油のために立ち寄っていたガンビアのバサーストからの出航直後にネスターはアスディックで何かを探知し爆雷を投下したが、その爆雷の爆発でネスターにも被害が生じた[16]。現地での修理は不可能であったためデボンポートに向かい、10月1日から11月30日まで損傷の修理がおこなわれた[17]。
修理完了後ネスターはWS14船団と共に出航し、途中で船団とは分かれてジブラルタルへ向かった[17]。12月15日、ネスターはサン・ヴィセンテ岬南西で浮上航行中のドイツ潜水艦U127を発見した[18]。ネスターは砲撃を行い、U127が潜航すると爆雷を投下した[18]。また、同行していたほかの駆逐艦も爆雷攻撃をおこなった。U127は撃沈され、それはネスターの戦果とされている[19]。
ネスターは12月16日にジブラルタルに着き、22日には軽巡洋艦ダイドーや4隻の駆逐艦と共にマルタへ向かった[17]。それは、マルタからアレクサンドリアへ向かう船団を護衛するためであり、それはMF1作戦といった[20]。12月24日にマルタに着いたネスターなどはC部隊として、B部隊と共に船団を護衛して12月26日にマルタを出発した[20]。途中空襲があったが目立った被害はなく、船団は目的地に着いた[17]。12月31日、ネスターはバルディア砲撃を行った[21]。
太平洋戦争勃発により、オーストラリア政府の要求にこたえてネスターなど3隻のオーストラリア駆逐艦が東洋艦隊へ移されることになった[22]。3隻は1942年1月3日にアレクサンドリアを離れ、途中で空母インドミタブルと合流し1月14日にポートスーダンに着いた[23]。インドミタブルはシンガポールへの戦闘機の輸送任務についていた(セモリナII作戦)[24]。インドミタブルと3隻の駆逐艦は1月15日にポートスーダンを出港した[24]。途中で戦闘機の送り先がバタビアに変更となり、1月27日と18日にインドミタブルは戦闘機を発進させ[24]、2月2日にトリンコマリーに着いた[25]。続いて、今度はポートスーダンからセイロン島へ戦闘機を輸送するインドミタブルを護衛した[1]。それからはしばらくインド洋で過ごし、護衛任務などに従事した[1]。5月のディエゴ・スアレス攻略作戦(アイアンクラッド作戦)の際は日本軍の来襲に備えて戦艦ラミリーズ、ウォースパイトなどと共にマダガスカル東方に展開した[26]。
1942年6月、マルタへの補給作戦であるヴィガラス作戦に参加するため、ネスターは再び地中海に戻った。6月11日に最初の船団がポートサイドから出発し、続いて2つ目の船団がハイファから、3つ目の船団がアレクサンドリアから出発した[27]。ネスターはこの内ハイファから出発した船団の護衛であった[28]。3つの船団は6月13日に合流した[29]。枢軸国軍による空襲やSボートの襲撃で船団の船や護衛艦艇には被害が続出し、ネスターもそのうちの1隻となった。6月15日午後6時6分、トブルク北方でネスターの至近で爆弾が爆発し、ネスターは大きな損害を受けた。[30]。駆逐艦ジャヴェリンがネスターを曳航したが、ネスターの揺れがひどく曳航は2度中断された[31]。アレクサンドリアまでの距離を考えると、これ以上曳航を続けた場合ジャヴェリンも失われる可能性があるためネスターの処分が決定され[31][32]、6月16日午前7時ごろジャヴェリンの爆雷でネスターは沈められた[1]。ネスター乗員の戦死者は、第1ボイラー室の浸水で死亡した4名であった[31][33]。
脚注 [編集]
- ^ a b c d HMS Nestor
- ^ a b c The Kelly's, p.216
- ^ 第二次大戦駆逐艦総覧、p.20
- ^ The Kelly's, p.88
- ^ a b The Kelly's, p.89
- ^ a b c The Kelly's, p.133
- ^ a b Chronology of the War at Sea 1939-1945, p.72
- ^ Chronology of the War at Sea 1939-1945, p.74
- ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, p.397
- ^ a b c d e f g The Kelly's, p.134
- ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, p.398
- ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, pp.398-399
- ^ a b The Royal Navy and the Miditerranean, Volume II:November 1940-December 1941, p.152
- ^ Somerville's Force H, p.154
- ^ The Royal Navy and the Miditerranean, Volume II:November 1940-December 1941, p.153
- ^ The Kelly's, pp.134-135
- ^ a b c d The Kelly's, p.135
- ^ a b Royal Australian Navy, 1939–1942, p.407
- ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, p.408
- ^ a b The Royal Navy and the Miditerranean, Volume II:November 1940-December 1941, p.232
- ^ Chronology of the War at Sea 1939-1945, p.130
- ^ The Kelly's, p.136
- ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, p.525
- ^ a b c The Illustrious & Implacable Classes of Aircraft Carrier 1940-1969, p.119
- ^ The Illustrious & Implacable Classes of Aircraft Carrier 1940-1969, p.121
- ^ British Invasion Fleets, pp8-9,49
- ^ Malta Convoys 1940-1943, pp.351-352
- ^ Malta Convoys 1940-1943, p.351
- ^ Malta Convoys 1940-1943, p.353
- ^ Royal Australian Navy, 1942–1945, pp.93-94
- ^ a b c The Kelly's, p.152
- ^ Royal Australian Navy, 1942–1945, pp.96
- ^ Royal Australian Navy, 1942–1945, pp.94
参考文献 [編集]
- Christopher Langtree, The Kelly's : British J, K and N Class Destroyers of World War II, Naval Institute Press, 2002, ISBN 1-55750-422-9
- Jurgen Rohwer, Chronology of the War at Sea 1939-1945, Naval institute press, 2005, ISBN 1-59114-119-2
- The Royal Navy and the Miditerranean, Volume II:November 1940-December 1941, Frank Cass Publishers, 2002, ISBN 0-7146-5205-9
- Raymond Dannreuther, Somerville's Force H, Aurum press, 2006, ISBN 1-84513-178-9
- Neil McCart, The Illustrious & Implacable Classes of Aircraft Carrier 1940-1969, Fan Publications, 2000, ISBN 1-901225-04-6
- Richard Woodman, Malta Convoys 1940-1943, John Murray, 2003, ISBN 0-7195-6408-5
- John de S. Winser, British Invasion Fleets The Mediterranean and beyond 1942-1945, World Ship Society, 2002, ISBN 0-9543310-0-1
- M.J.ホイットレー、『第二次世界大戦駆逐艦総覧』、岩重多四郎 訳、大日本絵画、2000年、ISBN 4-499-22710-0
- Royal Australian Navy, 1939–1942
- Royal Australian Navy, 1942–1945
外部リンク [編集]
座標: 北緯33度36分 東経24度30分 / 北緯33.600度 東経24.500度
|
|||||||||||||||||