ニコラーイ・オストロフスキー

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ニコライ・オストロフスキー
Николай Островский
N Ostrovskiy.jpg
人民委員准将時代(1935年)
誕生 ニコライ・アレクセーヴィチ・オストロフスキー
(Николай Алексеевич Островский)
1904年9月29日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ヴォルィーニ県オストロフ郡ヴィリヤ村
死没 1936年12月22日
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
Flag of Russian SFSR.svg ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
墓地 ロシアの旗 ロシアモスクワ、ノヴォデヴィチ墓地
職業 小説家
言語 ロシア語
国籍 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
最終学歴 Я・М・スヴェルドロフ名称共産大学ロシア語版卒業(通信制)
活動期間 1927年 - 1936年
文学活動 社会主義リアリズム
代表作 鋼鉄はいかに鍛えられたかロシア語版
主な受賞歴 レーニン勲章コムソモール賞
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ニコライ・アレクセーヴィチ・オストロフスキーロシア語: Николай Алексеевич Островский1904年9月29日ユリウス暦9月16日) - 1936年12月22日)はソビエト連邦作家。全身の不随や失明に打ち勝って書かれた代表作『鋼鉄はいかに鍛えられたか』は、国内外から広く反響を集めた。レーニン勲章授章者。

前半生[編集]

ニコライ・オストロフスキーは1904年9月29日(当時のユリウス暦では9月16日)に、ロシア帝国ヴォルィーニ県オストロフ郡ヴィリヤ村 (uk)(現在のウクライナ共和国リウネ州オストロジクィー地区ウクライナ語版)で生まれた。父は軍の下士官であり、税官吏でもあった。

オストロフスキーは、その優れた才能のため通例より早く教区付属学校ロシア語版に入学し、1903年に9歳でそこを卒業するとすぐ家族でシェペトフカウクライナ語版へ移り住んだ。1906年からは駅食堂の厨房や資材倉庫のオペレーター、発電所の火夫見習いなど様々な職に就きながら学校にも通い、1917年にはボリシェヴィキの活動家となった[1]1919年7月20日に赤軍へ志願し、8月9日にはコムソモールへ入団している。公式の伝記によると、1918年春にドイツ軍が故郷に進入した際はボリシェヴィキの地下組織の使い走りもしたという。

後にオストロフスキーの手足を奪うことになる病が発症したのは、この時期であるとみられる[1]。最終的に彼は「進行性強直性関節炎、進行性関節骨化症」と診断されたが、現代の医学ではこれは遺伝性の強直性脊椎炎として知られる多発性関節炎であると推測されている。

軍ではグリゴリー・コトフスキーロシア語版の騎兵旅団や第1騎兵軍ロシア語版、時にはOSNAZロシア語版(共産党直属の特殊部隊)にも所属したが、リヴォフで背中に榴散弾による重傷を負い1920年8月に復員した。しかし、この軍歴は彼の自伝では触れられていない。また、1920年から1921年にかけてオストロフスキーがイジャスラフウクライナ語版チェーカーのメンバーだったとする情報もある。

1921年にはキエフで技師見習いとして電気工学を学び、同時にコムソモールの秘書も務めた。翌年にはチフスを患ったが、体調不良をおしてキエフで鉄道の敷設工事に参加している。病から回復した後はポーランドとの国境地帯のベレズドフウクライナ語版政治将校普通義務教育ロシア語版大隊に所属し、1924年にシェペトフカのコムソモール地区委員会事務局長を務めた後は、ベレズディウとイジャスラウの地域委員会の秘書となった。同年にオストロフスキーは共産党へ入党している。

1925年からオストロフスキーの体調は急激に悪化し、療養の甲斐なく1926年の暮れには寝たきりとなった。翌年8月にはチフスの合併症から視覚を失ったが、直後にЯ・М・スヴェルドロフ名称共産大学ロシア語版通信制に入学し、2年で修了している。

作家として[編集]

1927年の秋にオストロフスキーは自伝的小説を書き始めたが、半年後に原稿は輸送事故で失われた。1930年代後半からはステンシルを使うことを考案し、長編『鋼鉄はいかに鍛えられたかロシア語版』の執筆を開始した。これは雑誌「青年前衛」(ru) からは「作風にリアリティがない」と酷評されたが、原稿は二次審査を通過している。原稿は副編集長のマルク・コロソフ (ru) と責任編集者のアンナ・カラヴァエワロシア語版によって編集され、1932年4月に第1部が、11月に第2部が同誌から書籍化された。この本はソ連中でたちまちベストセラーとなり、1942年 (ru)、1956年 (ru)、1975年 (ru) と3度映画化された。

オストロフスキーは1932年にロシア・プロレタリア作家協会のモスクワ支部に加入し、1934年にはソビエト連邦作家同盟にも加入した。

1935年にオストロフスキーはレーニン勲章コムソモール賞 (ru) を授与され、ソチに邸宅を、モスクワゴーリキー通りロシア語版にアパートを与えられた。さらに政治将校准将 (ru) の地位も与えられ、それから数か月の間は自宅に詰めかける読者や他の作家たちに囲まれ、その名声は広く知れ渡った。また、彼が1930年から1932年にかけて住んでいたモスクワの死人小路ロシア語版にも彼の名が冠された。

その後、オストロフスキーは新作を約束し、ロシア内戦下のウクライナについての三部作『嵐に生まれ出るもの』(ru) の第1部を執筆したが、それは本人にとっても納得のゆくものではなかった。

1936年12月22日、オストロフスキーは32歳で病苦の中に死んだ。その葬儀には、急ピッチで刷り上げられた『嵐に生まれ出るもの』が捧げられた。

オストロフスキーと面会したアンドレ・ジッドは、著書『ソヴィエト紀行』(fr) の中で、オストロフスキーはソ連の体制に対して批判的であったと述べている。

ギャラリー[編集]

日本語訳[編集]

  • 『鉄はいかに鍛へられるか』(東京案内社、1936年) - 稲田定雄
  • 『嵐に生れ出づるもの』(第一書房、1938年。新日本出版社版、1965年) - 稲田定雄訳
  • 『収入ある地位』(世界古典文庫、1947年) - 石山正三
  • 『狼と羊』(世界文庫、1948年) - 石山正三訳
  • 『どんな賢人にもぬかりはある』(世界古典文庫、1948年) - 石山正三訳
  • 『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(ナウカ社、1950年) - 杉本良吉
  • 『嵐の中に生まれ出づるもの』(青銅社、1951年) - 竹村良行清水邦生
  • 『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(青木文庫、1953年) - 一条正美
  • 『文学修業』(未来社、1954年) - 鹿島保夫
  • 『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(岩波文庫、1955年) - 金子幸彦
  • 『いかに鋼鉄は鍛えられたか』(角川文庫、1958年) - 袋一平
  • 『ロシア文学全集第32巻 オストローフスキィ 鋼鉄はいかに鍛えられたか』(修道社、1959年。平凡社版、1964年) - 中村融
  • 『世界革命文学選1 鋼鉄はいかに鍛えられたか』(新日本出版社、1964年。文庫版、1974年) - 横田瑞穂

脚注[編集]

  1. ^ a b Dan Richardson (2001). The rough guide to Moscow. Rough Guides. p. 135. ISBN 1-85828-700-6.