ナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト
ナポレオン・ヴィクトル・ジェローム・フレデリック・ボナパルト(Napoléon Victor Jérôme Frédéric Bonaparte, 1862年7月18日 - 1926年5月3日)は、1879年から1926年のその死まで、ボナパルト派のフランス帝位請求者。通称プランス・ヴィクトル。支持者からはナポレオン5世と呼ばれた。
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生涯 [編集]
ナポレオン3世の従弟ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルトと、その妻でイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の娘マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイアの息子として、フランス第二帝政時代にパリのパレ・ロワイヤルで生まれた。誕生時、彼はナポレオン・ウジェーヌ皇太子と父に次いで皇位継承順第3位であった。しかし1870年、皇帝ナポレオン3世の退位とともに帝政は崩壊した。
1879年、ナポレオン・ウジェーヌ皇太子が死去すると、その遺言により18歳にしてボナパルト家の家長となり、その支持者たちからはナポレオン5世と呼ばれるようになった。もっとも、彼の弟でロシア帝国軍近衛隊の大佐だったルイの方が多くのボナパルティストから好まれていた[1]。ヴィクトルの父を無視したこの皇太子による決定は、父と子の関係を完全に壊すこととなった。1886年5月、共和国政府が旧支配王家の子弟の追放を決定すると、ヴィクトルもフランスを去り、ベルギーに亡命した[2]。
ドレフュス事件の最中の1899年にフェリックス・フォール大統領が死去すると、いくつかの政治党派はこの混乱を利用しようと試みた。ナポレオン公ヴィクトルは、帝政派委員会からの代表団に対し、好機と見なせればフランス帝政復古の行動を起こすであろうと表明した。これを成し遂げるため、彼の側で戦う弟ルイとともに、自ら運動の先頭に立つであろうと表明した。彼は、弟ルイが「ボナパルティスト軍に、その名声、軍事手腕はもちろん、ロシア軍の階級をももたらす」であろうと話していた。ライバルの王位請求者オルレアン公ルイ・フィリップ・ロベールもまた動員可能な軍隊を持ち、ボナパルティスト軍と時を同じくして、フランス国境を越える用意をしていた。結局、予想されたようなフランスにおける突発事件は起こらず、フランス第三共和政はその最も重大な危機を乗り切った[1]。
ナポレオン公ヴィクトルは1926年5月3日、ブリュッセルにおいて死去した。フランス人作家シャルル・モーラスは、王位請求者としてのヴィクトルの歳月についてコメントを寄せ、彼は1884年以来いかなる新しい考えをも表さなかったし、そして共和国政府に対して抜本的に代わるものを持たなかった、と述べている[3]。ボナパルト家の家長の座は一人息子ルイ・ナポレオンが継いだ。
家族 [編集]
1910年11月14日、モンカリエーリにおいてナポレオン公ヴィクトルは、ベルギー国王レオポルド2世と王妃マリー=アンリエットの娘クレマンティーヌ(1872年 - 1955年)と結婚し、2人の子供をもうけた。
出典 [編集]
- ^ a b The Great Round World. Universe Publishing company. (1899).
- ^ Israel Smith Clare (1897). Library of Universal History. R. S. Peale, J. A. Hill.
- ^ Gildea, Robert (1994). The Past in French History. Yale University Press. pp. 78.
外部リンク [編集]
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