ナバテア王国

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ペトラの遺跡
ナジブ砂漠のシヴィタの教会の廃墟

ナバテア王国紀元前2世紀前半頃にペトラ(現在のヨルダン西部)を中心に栄えたナバテア人の王国。紀元前63年ローマの属国となり、106年アラビア属州に併合という形で滅亡した。

起源[編集]

ナバテア人は元来北アラビアを起源とする遊牧民族であり、放牧盗賊稼業貿易などを行いながら、当時エドム人が居住していたペトラを拠点に生活していた。紀元前4世紀前後には1万人弱だったナバテア人の人口は紀元前2世紀頃になると20万人近くに膨れ上がり、深刻な人口増加問題を抱えるようになる。もはや遊牧生活では立ち行きが難しくなったナバテア人はその頃から定住生活に移行を始め、エドム人の住むペトラに腰を落ち着けるようになり、ナバテア王国が誕生した。

歴史[編集]

もともとを使った貿易を行っていたナバテア人の定住により、シルクロードの通商上の要所でもあったペトラは、隊商都市として繁栄を極める。優れた灌漑・貯水機能を有し、砂漠の都市にもかかわらず水に不自由することは無かったという。交易により巨万の富を築いたナバテア王国は紀元前1世紀頃よりその隊商路に沿う形で領土を拡張していき、紀元後1年アレタス4世の時代にはその領土をダマスクスからヒジャーズ地方までの砂漠周辺部とネゲブ地方まで広げ、メソポタミア南アラビアから地中海にいたるほぼ全ての隊商路を掌握した。

しかし、紀元前63年にローマより攻撃を受け属国化する頃から次第に国力が衰えていき、106年には首都として機能していたペトラをローマに占領される形となり、アラビア属州に併合された。海路の発達と、363年に発生した大地震の影響からペトラ自体も隊商路として機能しなくなり、その機能をパルミラに移す形で次第に表舞台から姿を消す事になる。その後1812年スイス人ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトによりペトラ遺跡として紹介され、1958年からイギリスアメリカの合同調査隊がペトラ遺跡の発掘調査を実施し、ローマ時代以前のペトラについて明らかにされることとなった。

言語と文字[編集]

ナバテア文字の碑文(1世紀頃)。(右から「職人 šwdw 」とある)

ナバテア人の言語についてであるが、マカバイ記1および2、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』ではナバテア王国を「アラビアの王」と読んでおり、発掘されたナバテア文字碑文の人名研究からアラビア語の特徴が顕著であるため、アラビア語の一派であったろうと考えられている(タバリーなどのアッバース朝時代以降のイスラーム圏の歴史家たちもナバテア人をアラブ人の一派であると認識していた)。彼らは帝国アラム文字の後身のひとつであるナバテア文字を使用していた。紀元前3世紀頃から紀元後5世紀頃まで、シリア北部からアラビア半島南部のイエメンまでの広い地域に多数のナバテア文字碑文群が確認されているが、これらはナバテア人の活動範囲の広がりに重なるものと考えられ、碑文群は殆どの場合、アラム語によって書かれている。

紀元前後からアラビア半島からメソポタミア、シリア全域にアラブ系の諸部族が交易や定住などで多数進出していたことが知られている。これらのアラブ系の諸勢力はもともと完全に独自の文字をもたなかったが、話し言葉は当然ながらアラビア語系であったものの、多くの場合、書き言葉としてアラム文字とアラム語を借用していたようである。ナバテア人もまた同じくアラム文字を独自の書体に変化させたナバテア文字を用い、アラム語で碑文などを書いていた。今日のアラビア文字の元となったのは、4世紀から5世紀頃にアラビア半島西岸のヒジャーズ地方を中心に用いられていたナバテア文字の一種から派生したと考えられる。特に5世紀以降からナバテア文字や最初期のアラビア文字によってアラム語ではなくアラビア語で書かれた碑文が見られるようになる。1952年にサウジアラビアのタブーク州で、イギリスのジョン・フィルビーがサムード語、ナバタエ語の新碑文2500個を集めている。

その他ペトラ周辺では南アラビア文字と呼ばれる文字が多数発見されているが、どのような経緯でナバテア人に伝わったのかははっきりしていない。

政治[編集]

ナバテア王国は王制であったが商業貴族が大きな権力を持っており、どちらかというと民主政治に近かった。首都であるペトラ以外の各都市には王の代官が在住し、政を行った。また、ペトラには裁判所らしきものもあったようであり、かなり高度な統治を行っていた事がうかがえる。

また、騎馬隊を保有しており、隊商路の防衛などにあたらせていた。

産業[編集]

香料を中心とした貿易と、交易による関税収入が主収入となっており、ナバテア人の大部分は隊商活動に従事していた。その他農業ブドウイチジクなどの果樹栽培家畜の飼育なども行っていた。

宗教と文化[編集]

エドム人から教わった陶芸の技術を元に土器を作成するなどしていた事が明らかになっている。 宗教基盤として古代アラブ人の宗教観を持っており、主神としてオアシスの豊穣を司るドゥサレス(ナバテア語で「ドゥシャラ」)、アッラートを信仰していた他、原始的な石柱崇拝や山岳信仰も存在していた。

関連項目[編集]

参考文献・出典[編集]

外部リンク[編集]