ナシオナル・モンテビデオ

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ナシオナル・モンテビデオ
原語表記 Club Nacional de Football
愛称 Tricolores(トリコロール)
Bolsilludo(太っ腹)
Bolso(ポケット)
Albos(白)
Putos(͏͏Ѿ)
クラブカラー 白・青・赤
創設年 1899年
所属リーグ ウルグアイ・サッカーリーグ
所属ディビジョン プリメーラ・ディビシオン
ホームタウン モンテビデオ
ホームスタジアム エスタディオ・グラン・パルケ・セントラル
収容人数 29,500
代表者 ウルグアイの旗 エドゥアルド・アチェ
監督 ウルグアイの旗 ヘラルド・ペルッソ
公式サイト [nacional.com.uy/ 公式サイト]
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

クラブ・ナシオナル・デ・フットボールClub Nacional de Football)は、ウルグアイの首都モンテビデオを本拠地とするスポーツクラブ。特にサッカーチームが有名であるが、他にも多くの競技チームを所有している[1]。ナシオナルと呼ばれるクラブは世界中に存在するため、都市名を付けてナシオナル・モンテビデオ(Nacional de Montevideo)と呼ばれることが多い。エスタディオ・グラン・パルケ・セントラルをホームスタジアムとして使用している。

アマチュアリーグ時代・プロリーグ時代の通算で44回のリーグ優勝回数を誇る。リーグ優勝49回のCAペニャロールとライバル関係にあり[2]、エル・クラシコ・デル・フトゥボル・ウルグアージョと呼ばれるペニャロールとの対戦はラテンアメリカで最も歴史のあるダービーマッチである[3]コパ・リベルタドーレスでは3度、1971年と1980年と1988年に優勝し、同大会ではクラブ別で最多の勝ち点を獲得している[4]インターコンチネンタルカップでも1971年と1980年と1988年に優勝しており、一度も敗れることなく3度優勝した史上初のクラブとなった。レコパ・スダメリカーナでは第1回大会の1989年に優勝した[5]。124個の国内タイトル、21個の国際タイトルを獲得しており、このうちの9個は南米サッカー連盟(CONMEBOL)もしくは国際サッカー連盟(FIFA)に認められたものである[6]。南米王者と北中米カリブ海王者が対戦するコパ・インテルアメリカーナでは1972年と1989年の2度優勝している[7]。ペニャロールはこのタイトルを獲得した経験がないが、これはこの大会が不規則開催のためである。

歴史[編集]

設立と黎明期[編集]

コパ・デ・オノール・コウセニエールアラムナイAC(アルゼンチン)を破って優勝した1905年のチーム

南米にはヨーロッパ出身の移民労働者によって設立されたサッカークラブが多く、ライバルのCAペニャロール(1913年まではCURCC)もまたイギリス人労働者によって設立されたクラブであるが、ナシオナルは古くからモンテビデオに住むウルグアイ人が中心となって設立された、南米初の土着のクラブである[8]。なお、当時のウルグアイの人口はわずか93万人であり、首都モンテビデオの人口29万人の半数以上がウルグアイ国外出身者だった[8]。1899年5月14日、ウルグアイAC(Uruguay Athletic Club)とモンテビデオFC(Montevideo Fútbol Club)が合併してクラブ・ナシオナルが創設された[9]。ウルグアイの英雄であるホセ・ヘルバシオ・アルティガスに由来する3色(赤・青・白)を使用したクラブ旗を定め、赤色をメインに青色も用いたユニフォームをデザイン。6月18日、インテルナシオナルとの間でクラブ初試合となる親善試合を開催した[8]。1900年にはクラブ・デフェンサを吸収し、デフェンサの選手も取り込んだ。同年に初開催されたウルグアイ・アマチュアサッカーリーグには、第1回大会から続けて参加している。外国人によって運営されるクラブが4クラブ(アルビオンFC、CURCC、ウルグアイAC、Deutscher FK)も存在し、クリオーリョ(スペイン系)の選手やクラブが欠如しているという考えによるナシオナルの請願は却下されたが、ナシオナルは親善試合での傑出した成績が評価されてアルゼンチンリーグに招待されたため、1901年、ウルグアイリーグに所属するクラブはナシオナルの請願を認めざるを得なかった。1902年シーズンにはリーグ戦で初優勝し、同年には赤色のユニフォームが白色に変更された。1903年9月、ウルグアイ代表アルゼンチン代表とウルグアイのサッカー史上初の代表戦を行い、3-2で勝利したが、この際のウルグアイ代表のメンバーは完全にナシオナルの選手だけで構成された。1903年シーズンと1904年シーズンにもリーグ優勝して3連覇を達成し、3シーズン中2シーズンは無敗優勝を記録。1900年前後のナシオナルの選手は新しく持ち込まれたプレースタイルを消化し始めており、以前より肉体の接触を減らした、より創造的で敏速な連係プレーやドリブルなどを行った。マガリーニョス・ピッタルーガはナシオナルについて以下のように述べている。

イギリス系のクラブのプレーは、純粋で標準化されたイギリスのスポーツの美学に則って行われた。ポジション変更が少ないプレー、ロングパスの多用、強烈なシュート、肉体の強さを活かしたプレーなどである。選手の肉体自体が武器となり、攻撃的にも守備的にもプレーする。(中略)ナシオナルはイギリス系のクラブに比べて小柄で機敏な選手で構成される。(中略)肉体の接触を捨て、自身の創造性に従ったプレーを選択する。彼らはドリブル、スピードのあるショートパス、ダッシュを行い、常にピッチを走り続ける[10]

1912年には27歳のホセ・マリア・デルガドが会長に就任し、1915年に世界トップクラスの選手だったエクトル・スカローネが加入すると、同年にはプリメーラ・ディビシオン、コパ・コンペテンシア、コパ・デ・オノールの3冠(トリプレ・コローナ)を達成。1916年シーズンと1917年シーズンにもリーグ戦で優勝し、ウルグアイ初の3連覇(コパ・ウルグアージャ・エン・プロピエダード)を達成した。

ヨーロッパ遠征と黄金期[編集]

5連覇達成期の前線の選手

全国レベルと地域レベルそれぞれで大きな成功を収めた後、ナシオナルは国際舞台で成功を収めたウルグアイ初のクラブとなった。1924年のパリオリンピックにはアンドレス・マサーリサントス・ウルディナラン、スカローネ、アンヘル・ロマーノアルフレード・シベーチ、パスクアル・ソーマの6選手をウルグアイ代表に送り込み、ウルグアイは決勝でスイスを破って優勝。1928年のアムステルダムオリンピック、1930年の1930 FIFAワールドカップの際にもウルグアイ代表に多数の選手を送り込み、ウルグアイは再び優勝を果たした。国内リーグでの活躍や、所属選手の代表での成功などの理由から、1925年には長期間のヨーロッパ遠征に招待され、6ヶ月(153日間)に渡る遠征中に38試合を行った。9ヶ国のプロクラブや各国代表チームと対戦し、26勝7分5敗(130得点30失点)の成績を残した[8]。ヨーロッパ遠征中には約80万枚のチケットが売れた[11]。1927年にはアメリカ遠征を行い、16勝2分1敗の成績を残した。

1939年から1943年には5連覇(キンケニオ・デ・オロ)を達成。この5年間にはコパ・ウルグアージャで96試合を戦い、77勝9分10敗(318得点108失点)の成績を残した。1938年から1943年には23度のエル・クラシコが行われ、ナシオナルはペニャロールに対して18勝4敗(1分)と圧倒的な成績を残している。1941年12月14日のダービーには6-0で大勝し、ダービーにおける最大得点差記録を樹立。この年には20戦全勝でリーグ優勝した。1943年11月23日のダービーでも勝利し、ダービーにおいて10連勝を達成した。この時代の主力には以下の選手らがいる。

選手 リーグ
優勝回数
備考
アティリオ・ガルシア 8回 クラブ歴代最多得点者、エル・クラシコ最多得点者(34点)、8度のリーグ得点王
アニバル・パス 9回 ウルグアイ代表として1950 FIFAワールドカップで世界制覇
スチュベルト・ガンベッタ 9回 ウルグアイ代表として1950 FIFAワールドカップで世界制覇
ルイス・エルネスト・カストロ 7回
アニバル・シオッカ 8回
エウヘニオ・パト・ガルバリーシ 7回
ロベルト・ポルタ 6回
ビビアーノ・サピライン 6回


ライバルのペニャロールに加え、アルゼンチンの強豪であるボカ・ジュニアーズCAリーベル・プレートラシン・クラブCAインデペンディエンテCAサン・ロレンソロサリオ・セントラルニューウェルズ・オールドボーイズなどが、コパ・リオ・デ・ラ・プラタ、コパ・デ・オノール、コパ・デ・コンペテンシアなどの国際カップ戦を創設し、これらの大会での成功で国際的な名声を得た。1960年には南米王者を決めるコパ・リベルタドーレスが創設され、ナシオナルは1962年に初参加。1964年にはCSDコロコロ(チリ)を破って決勝に進出したが、インデペンディエンテに敗れて準優勝に終わった。1967年には準決勝リーグでクルゼイロEC(ブラジル)やペニャロールと同居した準決勝リーグを突破したが、ラシン・クラブに敗れて再び準優勝に終わった。1969年には準決勝でライバルのペニャロールを破ったが、エストゥディアンテス(アルゼンチン)に敗れて三度準優勝に終わった。決勝で敗れた相手はいずれもアルゼンチンのクラブであり、1971年大会で4度目の決勝進出を果たした際もアルゼンチンのエストゥディアンテスとの対戦となったが、3連覇中の相手に勝利して同大会初優勝を飾った。同年にはインターコンチネンタルカップにも出場し、ストライカーのルイス・アルティメの2得点でパナシナイコスFC(ギリシャ)を破った。この時代の南米のトップクラブは共通して荒っぽいプレーで知られており、UEFAチャンピオンズカップ優勝のAFCアヤックス(オランダ)が出場を辞退したため、準優勝のパナシナイコスが代わりに出場していた。翌年のコパ・インテルアメリカーナではクルス・アスル(メキシコ)を破って初優勝した。

1980年のコパ・リベルタドーレスでは決勝でSCインテルナシオナル(ブラジル)と対戦し、満員のセンテナリオでインテルナシオナルを破って2度目の南米制覇を果たした。同年のインターコンチネンタルカップではノッティンガム・フォレストFC(イングランド)と対戦し、ワルデマール・ビクトリーノが試合唯一の得点を挙げてノッティンガムを撃破。同年にはリーグ戦でも優勝した。1988年のコパ・リベルタドーレス決勝ではニューウェルズと対戦。センテナリオでの試合ではバルガス、デ・レオン、オストラーサが得点し、3-0で勝利して優勝を決めた。同年のインターコンチネンタルカップではフース・ヒディンク監督が率いるPSV(オランダ)と対戦し、2-2(得点はいずれもオストラーダ)で決着がつかなかったが、PK戦に勝利して優勝を決めた。1989年のコパ・インテルアメリカーナではCDオリンピアに勝利して2度目の優勝を飾り、同年のレコパ・スダメリカーナではラシン・クラブを破って優勝した。

1990年代以降[編集]

1992年シーズンにはフリオ・デリー・バルデスとアントニオ・ビダル・ゴンサレスの活躍でリーグ優勝を果たした。1993年から1997年まではペニャロールに2度目の5連覇を許し、ダンテ・イッコ会長が復帰した。1990年代の大部分は財政危機に悩まされ、スポーツ面で得た成功は少なかったが、1998年にはウーゴ・デ・レオン監督の下でリーグを制し、1994年に短期リーグ制(アペルトゥーラとクラウスーラ)が採用されて以降、アペルトゥーラ・クラウスーラ双方で優勝した初のクラブとなった。チームの礎となる選手を引き留め、2000年から2002年にはリーグ3連覇を果たした。2005年にはエル・パルケの改修工事が行われ、国有のエスタディオ・センテナリオを使用する機会が減少した。フアン・ラモン・カラスコ監督が率いた2010-11シーズンには2シーズンぶり43度目の優勝を飾った。アルゼンチン人のマルセロ・ガジャルド監督が率いた2011-12シーズンにはペニャロールとのエル・クラシコでダブルを達成して2連覇を果たした。シーズン終了後にガジャルド監督がクラブを離れ、後任にはデフェンソール・スポルティングを率いていたチャボ・ディアス監督を招聘した。

スタジアム[編集]

エスタディオ・グラン・パルケ・セントラル

創設当初はエスタディオ・プンタ・デ・ラス・カレータスを使用していたが、やがて、1900年にラ・ブランケアーダ地区に建設されたエスタディオ・グラン・パルケ・セントラルに移転した[8]。一般にエル・パルケと呼ばれるパルケ・セントラルはコパ・アメリカの1923年大会と1924年大会の単独会場となった[12]1930 FIFAワールドカップの開幕戦2試合のうちの1試合、7月13日に行われたベルギーアメリカ戦の会場となり、またアルゼンチンブラジルの試合も行われた。

CAペニャロールとのエル・クラシコなどのビッグゲームはウルグアイのナショナル・スタジアムであるエスタディオ・センテナリオを使用するため、エル・パルケが使用されない試合も多い。しかし、2000年代になって改修工事が行われたことから、2005年以降はかつてよりも多くのホームゲームがエル・パルケで行われている。

サポーター[編集]

サッカーのサポーターを表すスペイン語に「インチャ」(hincha)という単語があり、ナシオナルのサポーターを表す際にも使用される。20世紀初頭のナシオナルの関係者であったプルデンシオ・ミゲル・レジェスは、長年におけるクラブへの貢献によって有名だった。レジェスの職務にはボールに空気入れること(「膨らます」というスペイン語は一般的にはinflarであるが、ウルグアイではhincharがよく使用される)があったが、他のサポーターらが職務名で彼の名を呼び、わずか数試合のうちに、レジェスはナシオナルの「インチャ」として広まった。これが、世界中に広がるスペイン語話者によって頻繁に使用されるインチャという単語の起源である[13]

ナシオナルはトリコローレス(tricolores、トリコロール)、ボルシリュードス(bolsilludos、太っ腹)、ボルソス(bolsos、ポケット)というニックネームを持つ。後者のふたつはナシオナルが胸ポケットの付いたユニフォームを使用していたことに由来する。あまり一般的ではないが、アルボス(Albos、白)と呼ばれることもある。

クラブカラーは白と青と赤であり、これは独立指導者ホセ・ヘルバシオ・アルティガスが掲げたアルティガス旗に由来する[14]。2011年にはソシオ(クラブ会員)数が40,000人を突破し[15]、2012年中頃には50,000人を突破した[16]

タイトル[編集]

国内タイトル[編集]

アマチュアリーグ時代(1890-1931) : 11回
1902, 1903, 1912, 1915, 1916, 1917, 1919, 1920, 1922, 1923, 1924
プロリーグ時代(1932-) : 33回
1933, 1934, 1939, 1940, 1941, 1942, 1943, 1946, 1947, 1950, 1952, 1955, 1956, 1957, 1963, 1966, 1969, 1970, 1971, 1972, 1977, 1980, 1983, 1992, 1998, 2000, 2001, 2002, 2005, 2005-2006,2008-2009, 2010-2011, 2011-2012

主要国際タイトル[編集]

1971, 1980, 1988
1971, 1980, 1988
1972, 1989
1989

その他の国際タイトル[編集]

1916, 1919, 1920, 1940, 1946
1905, 1915, 1916, 1917
1913, 1915
1945

近年の成績[編集]

シーズン ディビジョン 順位 試合数 得点 失点 勝ち点 備考
2003 アペルトゥーラ プリメーラ 1 17 14 2 1 34 9 44
クラウスーラ 9 17 7 5 5 29 23 26 ぺニャロールとの年間優勝プレーオフに敗れて準優勝
2004  ? プリメーラ
 ? ダヌービオとの年間優勝プレーオフに敗れて準優勝
2005  ? プリメーラ 1 (注1) 17 12 5 0 39 16 41
2005-06 アペルトゥーラ プリメーラ 2 17 9 7 1 32 16 31
クラウスーラ 1 16(注2) 12 2 2 31 12 38 ロチャとの年間優勝プレーオフに勝って優勝
2006-07 アペルトゥーラ プリメーラ 5 15 8 3 4 28 22 27
クラウスーラ 15 15 5 3 7 14 22 18
2007-08 アペルトゥーラ プリメーラ 5 15 6 6 3 19 12 24
クラウスーラ 5 15 10 1 4 33 21 31
2008-09 アペルトゥーラ プリメーラ 2 15 10 2 3 23 13 32 1位のダヌービオとのプレーオフに勝利
クラウスーラ 6 14(注3) 6 5 3 27 21 23 デフェンソールとの年間優勝プレーオフに勝利して優勝
2009–10 アペルトゥーラ プリメーラ 1 15 13 0 2 36 11 36
クラウスーラ 4 15 8 3 4 27 15 27 ペニャロールとの年間優勝プレーオフに敗れて準優勝
2010–11 アペルトゥーラ プリメーラ 2 15 8 5 2 28 18 29
クラウスーラ 1 15 11 1 3 32 13 34 デフェンソールとの年間優勝プレーオフに勝利して優勝
2011–12 アペルトゥーラ プリメーラ 1 15 9 5 1 30 11 32
クラウスーラ 2 15 11 2 2 38 20 35 デフェンソールとの年間優勝プレーオフに勝利して優勝
  • (注1) - レギュラーシーズン最終節では90+7分にPKによる決勝点を挙げ、デフェンソールと同勝ち点でプレーオフ出場を決めた。しかし、この疑惑の勝利を不服としたデフェンソールがプレーオフ出場を拒否し、ナシオナルの優勝が自動的に決定した。
  • (注2) - アペルトゥーラは18クラブ、クラウスーラは17クラブによって争われたため。
  • (注3) - アペルトゥーラ終了後、財政問題によりビジャ・エスパニョーラがアペルトゥーラ終了後に強制降格となったため、クラウスーラは14試合制で行なわれた。

現所属メンバー[編集]

2014年2月25日 現在
No. Pos. 選手名
1 ウルグアイの旗 GK レオナルド・ブリアン
2 ウルグアイの旗 DF ホルヘ・クルベロ
3 パラグアイの旗 DF イスマエル・ベネガス
4 ウルグアイの旗 DF ギジェルモ・デ・ロス・サントス
5 ウルグアイの旗 MF ラファエル・ガルシア
6 ウルグアイの旗 DF フアン・マヌエル・ディアス
7 ウルグアイの旗 FW レナト・セザル
8 ウルグアイの旗 MF ディエゴ・アリスメンディ
9 ウルグアイの旗 FW アレクサンデル・メディーナ
10 オーストラリアの旗 FW リカルド・ポルタ
11 ウルグアイの旗 MF イグナシオ・ゴンサレス
12 ウルグアイの旗 GK グスタボ・ムヌア
13 ウルグアイの旗 FW フアン・クルス・マスキア
14 ウルグアイの旗 MF ゴンザロ・ラモス
No. Pos. 選手名
16 ウルグアイの旗 MF カルロス・デ・ペーニャ
17 ウルグアイの旗 MF マクシミリアーノ・カルサダ
18 ウルグアイの旗 DF パブロ・アルバレス
19 ウルグアイの旗 DF アンドレス・スコッティ
20 ウルグアイの旗 FW アルバロ・レコバ
21 ウルグアイの旗 MF ニコラス・プリエト
22 ウルグアイの旗 DF ダルウィン・ロドリゲス
23 ウルグアイの旗 FW サンティアゴ・ガルシア
24 ウルグアイの旗 FW イバン・アロンソ
25 ウルグアイの旗 GK ホルヘ・ババ
-- ウルグアイの旗 DF セバスティアン・ゴルガ
-- ウルグアイの旗 MF ガストン・ペレイロ
-- ペルーの旗 MF リナルド・クルサード
-- ウルグアイの旗 FW ヘンリー・ヒメネス

歴代監督[編集]


歴代所属選手[編集]

世界王者[編集]

1924年のパリオリンピック・サッカー競技ではウルグアイ代表が金メダルを獲得したが、ナシオナルはウルグアイ代表に6人の選手を送り込んだ。1928年のアムステルダムオリンピック・サッカー競技の際には、4年前以上の8人をウルグアイ代表に送り込み、ウルグアイ代表は2大会連続で金メダルを獲得した。1930年にウルグアイで開催された1930 FIFAワールドカップでは、9人のナシオナルの選手が初代大会王者となった。ウルグアイが2度目の優勝を果たした1950 FIFAワールドカップにも5人の選手を送り込んだ。ウルグアイが世界大会で優勝した4大会すべてに1人以上の選手を送り込んだクラブはナシオナルのみである[17]

GK[編集]

DF[編集]


MF[編集]


FW[編集]


サッカー以外の競技[編集]

バスケットボール[編集]

1932年以来、ウルグアイバスケットボール連盟(FUBB)が主催する大会に参加しており、1935年と1937年に優勝した。近年は2部リーグに相当するトルネオ・メトロポリターノに所属している。

  • カンペオナート・フェデラル (2) : 1935, 1937
  • リギージャ (2) : 1982, 1983

自転車競技[編集]

大会創設以来、ナシオナルはウルグアイ自転車連盟が主催する大会に参加しており、ブエルタ・シクリスタ・デル・ウルグアイやルータス・デ・アメリカなどの主要大会でチーム・個人ともに何度も優勝している。近年はミルトン・ウィナンツなどが在籍しているが、ウィナンツはシドニーオリンピックのポイントレースにおいて銀メダルを獲得した。

  • ブエルタ・シクリスタ・デル・ウルグアイ (9)
チーム優勝 (6) : 1960, 1961, 1968, 1994, 1999, 2000[18]
個人優勝 (3)
レアンドロ・ノーリ : 1939
ホルヘ・コレーア : 1968
ミルトン・ウィナンツ : 1996
チーム優勝 (5): 1993, 1994, 1995, 2000, 2001[19]
個人優勝 (1)
グスタボ・フィゲレード : 2000
  • ミル・ミリャス・オリエンタレス (1)
個人優勝 (1)
トマス・コレーア : 1960
  • ブエルタ・シクリスタ・デル・パラグアイ (2)[20]
チーム優勝 (1): 1998.
個人優勝 (1)
グスタボ・フィゲレード : 1998

テニス[編集]

パルケ・セントラルには、タルード・アブドン・ポルテスタンドの裏側に多くのテニスコートがあり、様々なカテゴリーの大会が行われている。2005年にはデビスカップのアメリカゾーンⅡのウルグアイ代表戦を開催された。

バレーボール[編集]

パルケ・セントラルの中、ハイメ・シビルス通りに面した体育館に自前のバレーボールコートを持っている。このコートでウルグアイバレーボール連盟が主催する選手権のホームゲームを戦っている。

男子
  • カンペオナート・フェデラル (1): 1954.
  • スーペル・リーガ・ナシオナル・デ・ボレイボル (3): 2008, 2009,[21] 2010
  • カンペオナート・ウルグアージョ・リボスール (1): 2010
  • トルネオ・アペルトゥーラ・リボスール (2) : 2009, 2010
  • トルネオ・クラウスーラ・リボスール (2) : 2006, 2008
女子
  • カンペオナート・フェデラル (3): 1955, 1960, 1961
  • トルネオ・アビエルト・シウダ・デ・ミナス : 2011

女子サッカー[編集]

1996年のリーグ創設以来、ナシオナルはウルグアイサッカー連盟の女子サッカー部門が主催する大会に参加し、1997年と2000年にカンペオナート・ウルグアージョで優勝した。2005年にリーグを脱退したが、2009年に再び参入して3位となった。2010年シーズンと2011-12シーズンにリーグ優勝を果たした。

  • カンペオナート・ウルグアージョ (4): 1997, 2000, 2010, 2011-12
  • トルネオ・アペルトゥーラ (4): 1997, 1999, 2000, 2011
  • トルネオ・アペルトゥーラ (2): 2002, 2012
  • トルネオ・プレパラシオン・ジョセフ・ブラッター (2): 2010, 2011
その他の国内タイトル
  • ディア・インテルナシオナル・デ・ラ・ムヘル3クラブ対抗戦(1): 2011
  • インテルナシオナル・ディエゴ・ロドリゲス3クラブ対抗戦 (1): 2011
  • コンフラテルニダ・エン・アルティガス3クラブ対抗戦 (1): 2012
国際親善大会タイトル
  • インテルナシオナル・シウダ・サン・ニコラス・デ・ロス・アロージョス4クラブ対抗戦(アルゼンチン) (1): 2011
ユースタイトル
  • U-18 トルネオ・アペルトゥーラ(1): 2004
  • U-16 トルネオ・プレパラシオン・ビセンテナリオ (1): 2011
  • U-16 インテルナシオナル・ディエゴ・ロドリゲス3クラブ対抗戦 (1): 2011

フットサル[編集]

ナシオナルはウルグアイサッカー連盟のフットサル部門が組織する大会に参加しており、何度もリーグ優勝している。2003年にはコパ・リベルタドーレス・デ・フトゥサルで準優勝した。

FIFUSA – AMF / FUdeFS管轄大会
国内タイトル
  • カンペオナート・メトロポリターノ (8): 1990, 1991, 1992, 1993, 1994, 1995, 1996, 1997
  • カンペオナート・ナシオナル・デ・クルーベス・カンペオネス (2): 1994, 1997
国際タイトル
  • カンペオナート・スダメリカーノ・デ・クルーベス・カンペオネス: 1996
FIFA / AUF管轄大会
国内タイトル
  • カンペオナート・ウルグアージョ (7): 1998, 2000, 2002, 2003, 2005, 2008, 2009
  • カンペオナート・メトロポリターノ (5): 2002, 2004, 2005, 2007, 2009
  • コパ・デ・オノール(リギージャ・プレ・リベルタドーレス) (3): 2006, 2010, 2011
  • カンペオナート・アペルトゥーラ (5): 1998, 2000, 2005, 2008, 2009
  • カンペオナート・クラウスーラ (3): 1998, 2002, 2009
国際タイトル
  • コパ・リベルタドーレス・デ・フトゥサル: 2003[22]
ユースタイトル
  • U-20カンペオナート・ウルグアージョ (5): 2001, 2006, 2007, 2010, 2011
  • U-15カンペオナート・ウルグアージョ: 2007
  • U-20トルネオ・アペルトゥーラ (3): 2007, 2011, 2012
  • U-20トルネオ・クラウスーラ (4): 2001, 2007,2010, 2011
  • U-17トルネオ・アペルトゥーラ (2): 2007, 2010
  • U-20メトロポリターノ (1): 2007
  • U-17メトロポリターノ (1): 2007

参考文献[編集]

  • クリストファー・ヒルトン&イアン・コール著 『南米サッカーのすべて』 大栄出版

脚注[編集]

注釈[編集]


脚注[編集]

  1. ^ Classic club”. FIFA.com. 2012年3月31日閲覧。
  2. ^ FIFA.com - Peñarol - Nacional, una rivalidad única”. FIFA.com. 2012年3月31日閲覧。
  3. ^ Montevideo’s ancient Superclasico
  4. ^ Nacional, líder de la tabla histórica”. Ovacion. 2013年5月22日閲覧。
  5. ^ Recopa”. RSSSF (2012年2月29日). 2012年3月31日閲覧。
  6. ^ 17:55. “¿El verdadero Rey de Copas? - Algo de Fútbol de allá”. Eduardocantaro.blogspot.com. 2012年3月31日閲覧。
  7. ^ Copa Interamericana”. RSSSF (2011年2月25日). 2012年3月31日閲覧。
  8. ^ a b c d e CLUBS Nacional”. FIFA.com. 2012年5月22日閲覧。
  9. ^ Uruguay - Foundation Dates of Clubs”. RSSSF. 2012年3月31日閲覧。
  10. ^ 3 Magariños Pittaluga, "Del fútbol heroico", Montevideo, 1943, p. 74 ss.
  11. ^ Giovannini, Eduardo (2003). La gira de Nacional por Europa en 1925. Montevideo: Nacional Digital. ISBN 9974-39-500-3. 
  12. ^ 000webhost.com - free web hosting provider”. Parquecentral.com.uy. 2012年3月31日閲覧。
  13. ^ Amando de Miguel. “Amando de Miguel - El incierto origen de las palabras”. Libertad Digital. 2012年3月31日閲覧。
  14. ^ Nacional entró con la bandera de Artigas - Diario EL PAIS - Montevideo - Uruguay”. Ovaciondigital.com.uy. 2012年3月31日閲覧。
  15. ^ [1]
  16. ^ Ovacion (2012年6月). “El interior aporto el socio 50.000”. 2013年5月22日閲覧。
  17. ^ 1904”. Nacionaldigital.com. 2012年3月31日閲覧。
  18. ^ Interior”. 2009年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年6月14日閲覧。
  19. ^ Federación Ciclista Uruguaya”. Federacionciclistauruguaya.com.uy. 2012年3月31日閲覧。
  20. ^ Página de la Federación Paraguaya de Ciclismo” (2012年3月). 2010年11月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年6月14日閲覧。
  21. ^ Página oficial de la FUV”. Uruvoley.org.uy. 2012年3月31日閲覧。
  22. ^ Conmebol.com (2003年7月2日). “Futsal: Nacional de Uruguay ganador de la Zona Sur”. 9 de julio閲覧。

外部リンク[編集]