ナサニエル・ウォーリッチ

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ナサニエル・ウォーリッチ(T. H. Maguireのリソグラフ)

ナサニエル・ウォーリッチ(姓はウォリッチとも[1]英語: Nathaniel Wallich)、またはナタナエル・ヴァリック[2]デンマーク語: Nathanael Wallich1786年1月28日 - 1854年4月28日)は、デンマーク生まれで、イギリス東インド会社にためにインドで働いた外科医植物学者である。多くの植物をヨーロッパにもたらした。

生涯[編集]

1786年1月28日コペンハーゲン[3]、ナータン・ベン・ウルフ(Nathan ben Wulff)として生まれた。。父親はドイツ出身のセファルディ系ユダヤ人実業家ウルフ・ベン・ウォーリッチ/ヴァリック(Wulff ben Wallich )である[4][5]

デンマーク王立外科アカデミー英語版デンマーク語版[注 1]に入学したが、植物学の業績も持つ各分野のエリック・ヴィボー英語版, マルティン・ヴァール英語版, マルティン・ヴァール英語版ハインリック・クリスチャン・フリードリッヒ・シューマッハー英語版イェンス・ヴィルケン・ホルネマンらの教授に薫陶を受けている[5][3]

を1806年に卒業後、インドのベンガルセランポールSerampore)のデンマーク人入植地の医師に任命。1807年4月にインドに向けて出発、11月にセランポールに赴任[3]ナポレオン戦争による国際情勢はデンマークの植民地をイギリスが占領することになり、セランポールのデンマーク植民地フレデリクスナゴール(Frederiksnagore)も、占拠され、ウォーリッチは捕虜となった[5][3][注 2]。1809年に学識が認められて仮釈放された[7]

1813年までにインドの植物や植生に強い関心を持ち、ネパール、西ヒンドスタンビルマ探検を行った。1814年からイギリス東インド会社の軍医助手となった。1814年2月にアジア協会の理事会に博物館の設立を提案する手紙を書き、自らのコレクションを協会に寄付し、協会のために働くことを申し出た。協会は申し出を受け入れ、博物館を設立しウォーリッチを名誉学芸員に任命し、その後、アジア協会の東洋博物館の監督官になった。博物館はウォーリッチの指導や、収集家たちの協力で充実したものになった。協力した収集家の多くはヨーロッパ人であったが、インド人のBabu Ramkamal Senもいて、Ramkamal Senは後にアジア協会のインド人事務局長となった。ウォーリッチは博物館に多くの植物標本を寄付した。コルカタの東インド会社の植物園の監督にも任命され、1817年から1846年に引退するまで、植物園の常任職員として、植物園で働いた。1837年から1838年の間はカルカッタ医学学校の植物学の教授も勤めた。

20,000種を超える「ウォーリッチ・カタログ」と呼ばれる目録を作成した。自ら収集したものや、同時代のロクスバーやゴメス、グリフィス、ワイトといった収集家が集めた標本が記載された。ウォーリッチの個人コレクションはキュー植物園に、ウォーリッチ・コレクションとして保管されている。ジョゼフ・バンクスに送った標本もまたキュー植物園に保存されている。多くの標本の収集のほかに、コルカタでヒマラヤなどに向かう多くのプラント・ハンターを支援したことも植物学への貢献として評価されている。

著書に "Tentamen Floræ Nepalensis Illustratæ" (vols I-II, 1824–26) 、"Plantæ Asiaticæ Rariores" (vols I-III, 1830–32)がある。Plantae Asiaticae rarioresは、カルカッタ植物園が雇った画家を使った図版がつけられた。Gorachand、Vishnupersaudが大部分の図版を描き、Rungiah や John Clark 、William Griffithらもいくつかの図版を描いた。250冊が製作され、40冊は東インド会社が購入した。

引退後はロンドンで暮らし、ロンドンで没した。1818年王立協会フェロー選出。

ツバキ科の種Schima wallichii(和名:ヒメツバキ)などに献名されている。

"Plantae Asiaticae Rariores"の図版[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 旧式デンマーク語綴りだと"Chirurgiske Akademie"だが、現代語式だと"Kirurgiske Akademi"。
  2. ^ 前注と照らせばわかるように、"Frederichsnagor"[3]が旧式デンマーク語綴り、"Frederiksnagore"[6]が現代語式綴り。"Frederischnagor"[5]は誤植である。

脚注[編集]

  1. ^ ドゥ・カンドル 著、加茂儀一 訳『栽培植物の起源』 上、岩波書店、1953年、343頁。 (原書: de Candolle , Alph.  (1883 ). Origine des plantes cultivées. Paris: Librairie Germer Baillière et Cie. https://www.google.co.jp/books/edition/Origine_des_plantes_cultivées/vO8HAAAAIAAJ 
  2. ^ 山本文明「悲劇の言語学者ラスムス・ラスク : サンクト・ペテルブルグでの生活」『異文化. 論文編= 異文化. 論文編』第10巻、法政大学国際文化学部、2009年4月1日、171頁、CRID 1390572174783950976doi:10.15002/00007221hdl:10114/6375ISSN 1349-3256 
  3. ^ a b c d e Indian Museum (1914), p. 104.
  4. ^ Taylor (2009), p. 103.
  5. ^ a b c d Lorenzo Da Ponte and Nathaniel Wallich: Jews in the Enlightenment”. Horthistoria.com (2021年). 2022年5月7日閲覧。
  6. ^ Hansen, Alfred (1974), “List of Danes honoured in naming of plant genera”, Botanisk tidsskrift 69: 215, https://books.google.com/books?id=7yIoAQAAIAAJ&q=Wallich 
  7. ^ Kothari & Chhapgar (2009), p. 194.
参照文献