ドン・フアン・デ・アウストリア

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ドン・フアン・デ・アウストリア
ドン・フアン・デ・アウストリア

ドン・フアン・デ・アウストリア(Don Juan de Austria, 1547年2月24日? - 1578年10月1日)は神聖ローマ皇帝カール5世(兼スペイン王カルロス1世)の庶子で、軍人。幼名はジェロニモ(ヘロニモ)。スペイン王フェリペ2世は異母兄にあたる。

なお、記事名のうち「ドン」はスペイン語における男性への敬称で、本来名前に含まないが、一般的に「ドン・フアン・デ・アウストリア」で知られることから、本項ではこれを記事名としている。「デ・アウストリア」は「ダウストリア」と表記されることもある。

目次

[編集] 生涯

カール5世の寵愛を受けたバルバラ・ブロムベルクが、1547年にフランドルで出産したと推定される(1545年2月生まれとされてきたが、結局のところ正確な日時場所とも不明。なお誕生日とされる2月24日はカール5世と同日であり不自然である)。母バルバラは爛れた生活を送っており、ジェロニモを案じた皇帝により、3歳半よりスペインで引退した楽師のもとで育てられる。更に3年後にはカール5世の執事長であるルイス・デ・キハーダとその妻マグダレーナに養育された。

1557年、死期の近づいたカール5世と初めて面会。皇帝はジェロニモに大きな関心を抱くが、翌年に崩御する。1559年に国王となった異母兄フェリペ2世と初めて面会するが、国王は彼がカール5世に似ていないことに驚いたという。

1560年、フェリペ2世は13歳となったジェロニモをバリャドリッドの宮廷へ呼び、庶弟として認めドン・フアン・デ・アウストリアを名乗らせた。これにより彼は王族として認められたことになる。ただし「殿下」という呼称は認められなかった。貴族の私生児は聖職に就くのが一般的であったが、ドン・フアンはそれを拒み、軍人としての道を選ぶ。

1569年から1570年にかけてアンダルシアの反乱(特にアルプハーラスモリスコの反乱)を鎮圧。弱冠24歳の1571年にはローマ教皇ピウス5世により神聖同盟軍総司令官に推挙される。5月14日に教皇大使がマドリッドを訪れ、5月20日に神聖同盟が署名され、彼の総司令官の任務受諾が公表された。そしてレパント海戦を指揮し、圧倒的勝利を収めた。

1573年10月、フェリペ2世の命を受けチュニスのラ・ゴレータ要塞を陥落させる。しかしフェリペの指示を無視し要塞を解体しなかったためにトルコ軍の反撃を受け敗北した。

1576年よりネーデルラント総督を務める。フランドルでは宗教対立が表面化しており新教徒の反乱を支援するイギリスを攻撃するため、ドン・フアンとスコットランド女王メアリ・ステュアートとの結婚が計画される。この結婚により王座に就くことが可能なため、ドン・フアンは熱望したともされる。フェリペ2世は当初乗り気でなかったとされるが、ドン・フアンの説得を受け入れ結婚に同意した。

しかし、1578年8月にフランドル南部のナミュール城塞で軍事行動中に体調を崩す。ペストの蔓延もあり野営地の鳩小屋に隔離された。連日下痢・嘔吐・高熱に苦しみ続け、やがて視力も失い10月1日午後1時に死去。病状から死因は発疹チフスと推測されている。その一方、彼の侍医ディオニシオによれば、ドン・フアンは長らく痔疾を患っており、1578年当時彼のもとにいた医師らの誤った治療により死に至ったのだという説もある。

遺体はフランス経由でスペインへ運ばれ、翌年5月25日に壮大な葬儀が執り行われ、その後エル・エスコリアルに埋葬された。

[編集] 人物

  • 優雅な物腰の美男子。金髪碧眼。

[編集] その他

  • 19世紀末のスペイン海軍には「ドン・フアン・デ・アウストリア」と言う名の艦船が存在した。

[編集] 関連作品

[編集] 漫画

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ
ウィキソース
ウィキソースLepantoの原文があります。
先代:
ルイス・デ・レケセンス
ハプスブルク領ネーデルラント総督
1576 - 1578
次代:
アレッサンドロ・ファルネーゼ