ドリーム開発ドリームランド線

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ドリーム開発ドリームランド線
ドリームモノレール車両(1984年)
ドリームモノレール車両(1984年)
路線総延長 5.3 km
電圧 1500V直流
最大勾配 100 パーミル
STR
東海道本線
ABZlg
横須賀線
BHF exKBHFa
0.0 大船
STRrf exSTR
東海道本線
exDST
 ? 小雀(信)
exKBHFe
5.3 ドリームランド
ドリームランドモノレール軌道
大船駅(1984年)
ドリームランド駅(1984年)
小雀信号所(1984年)
ドリームランドモノレール橋脚
ドリームランドモノレール複線用橋脚

ドリームランド線は、かつて神奈川県鎌倉市大船駅(ドリームランド線の大船駅は横浜市栄区側)と、横浜市戸塚区ドリームランド駅を結んでいたドリーム開発モノレール路線である。東京芝浦電気(現・東芝)が設計を担当した。開通間もない1967年に運行が休止され、一度も再開されることなく2003年に正式に廃止された。

一般にはドリームランドモノレールドリームモノレールと呼ばれていた。

目次

[編集] 路線データ

  • 路線距離(営業キロ):5.3km
  • 方式:跨座式(東芝式)(運転休止後に浮上式鉄道に変更)
  • 駅数:2駅
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化方式:直流1500V
  • 閉塞方式:票券閉塞式(運転休止後に自動閉塞式に変更)

[編集] 車両

10形
「東芝跨座式」というゴムタイヤを使用した連接台車構造が特徴で、急カーブでも容易に走れる純日本製跨座式モノレールであり、車両は軽量で快適な乗り心地が得られる。先に開園した奈良ドリームランドのスペースライナーの技術と経験を生かし導入された。車両には自動ステアリング機能やATC(自動列車制御装置)ATS(自動列車停止装置)の保安装置も採用された。さらに、車体と台車を完全に分離した構造で無理な力の伝達がなく、台車方式であるため振動絶縁に優れ高速でも安定した走行ができること、主要機器の点検が客室からできること、ゴムタイヤを使用しているので騒音が少ないこと、クッションがよいので乗り心地が良いこと、急勾配でも楽に登ることができること、加速もよくブレーキ距離も短い[1]こと、という利点を持つ。
3両1編成として2編成が製造され、11ABC編成に「ドリーム号」、12ABC編成に「エンパイア号」とそれぞれ横浜ドリームランドの施設の名称が与えられた。駆動関係は東京芝浦電気が設計し、車体は東急車輛が製造した。

[編集] 歴史

[編集] 開業まで

開業までの動きは、以下のとおり[2]

  • 1964年(昭和39年)6月3日 敷設免許につき、運輸審議会で諮問(鉄監第578号)
    • 7月7日 敷設を免許することが妥当である旨、運輸審議会が答申する(運審第40号答申、昭39第2114号)

大船駅の位置に関しては、用地買収を早く済ませるため、当初予定していた、大船観音の下にトンネルを通し国鉄と連絡させるルートから、比較的買収が簡単な山側のルート区間に変更されている[3]

[編集] 開業

1964年(昭和39年)8月1日日本ドリーム観光により、横浜市戸塚区俣野町に遊園地横浜ドリームランド」が開園した。これに伴い、同社の子会社として同年3月に設立されたドリーム交通が、その連絡手段として1966年(昭和41年)5月2日モノレール大船線を開業した。 それまで、バスで15分かかっていた大船駅―ドリームランド間が8分に短縮された。なお運行時刻は、朝7時から夜10時30分まで15分間隔で運転されていた[4]。開業の目的は遊園地への旅客輸送だけではなく、付近住民の通勤・通学客の交通手段でもあった。

運賃は片道170円(小児90円)、往復300円(小児150円)で、当時は国鉄の初乗りが20円だったことからすると相当な高額である。ただし、入場券は国鉄と同じく20円(小児同額)である。

路線免許申請はなかったものの、ドリームランド駅から、当初は小田急江ノ島線の六会駅(現・六会日大前駅)まで、後に長後駅までの路線を開通させる計画も存在した[5]。そのため、ドリームランド駅側付近の軌道の一部に複線用の橋脚が使われていた。

[編集] 運行休止

運行から約1年半後、車両重量超過など安全性が問題視されるようになる。その状況を物語るきっかけとなったのは1967年(昭和42年)の春、ドリーム交通(当時)が運転状況を調べた結果「どうも具合が悪い。車体の重量が重いようだ」[6]と故障が多発している原因を調べなければならなくなった。日曜・祝日には最高1万5000人を運び、モノレールの開業当初からの好調な出だしとは裏腹に、車両自体が重すぎて危険な状態にあったことは、関係者や利用客は全く知らされていなかった。この状況を鑑み、東京陸運局は、ドリーム交通(当時:日本ドリーム観光横浜営業所・通称横浜ドリームランド)から運行経過報告書を提出させていた。

同年3月にタイヤの摩耗が激しいことに気付き、重量超過が発見されるとすぐに、東京陸運局(現・関東運輸局)に報告。4月以降、5か月は乗客の安全を守るため、運輸省(当時)の行政指導により次の対策が講じられた[7]

  1. 定員160人のところを100人以下に厳守
  2. スピードは60km/hを45km/hに減速
  3. 風速15メートル以上の強風のときは運休
  4. 間引き運転をする

このような対策をしたにもかかわらず、同年4月からコンクリートの橋脚にヘアークラックと呼ばれる細かい亀裂が入り出した。休止直前の9月に入ってから70人に定員を減らした[8]。それは、車両自体を軽くし、レールへの負担を軽減するためのものだった。また、車両の故障もタイヤのパンクやバースト(車のタイヤ破裂のような状態)だけではなく、ある程度乗客が乗ると制御装置が誤作動を起こし途中でたびたび停止したり、車軸が折れるという故障も発生した。この状況について、運輸省は、問題は車体だけではなく、1年間も重すぎる車体を乗せていたレールに影響があるとみて、運輸省民営鉄道部運転車両課、運輸省土木課、運輸省船舶技術研究所が詳細の調査を行った結果、休止直前の9月中旬になって、やはりレールに疲労がきていることがわかり、東京陸運局は21日に運転を休止するよう強く勧告した[7]。 その後、9月22日に東京陸運局から運行休止勧告が下された。「危険があるので、根本的に改善する必要がある。それまで運転をストップすべきだ」との理由で1967年(昭和42年)9月23日限りで自発的に運行休止。9月26日に休止が運輸大臣に認可され、翌9月27日に正式に営業が休止した。休止期間は1年間とし、神奈川中央交通のバスが、大船駅―ドリームランド間を平日70往復、休日300往復の代替輸送することとなった。

これによって、横浜ドリームランドへの公共交通機関のアクセスがバスに限られた。国道1号原宿交差点に代表される周辺道路の渋滞が最大の障害となり、利便性の高かったモノレールの営業休止が横浜ドリームランドの遊園地としての運営に致命的ダメージを与えた。休止以降、横浜ドリームランドの収支は悪化の一途をたどり、遊園地自体の縮小を余議なくされることとなっただけではなく、収支は全く改善されることはなかった。そのため遊園地の敷地東半分程度を売却し、ドリームハイツが建設されるに至ったのである。

[編集] 原因

設計段階、つまり開業免許申請当時では車両の自重は30tだったが、実測は約46tと約50%、16tも超過していた。これは、大船駅 - ドリームランド間の土地の起伏に合わせて軌道・橋脚を建設したことに起因する。これにより最大100パーミルというモノレールとしては最も勾配が厳しい路線となったため、車両をもっと速く走らせようと考え、急遽モータを予定より出力の高いものに変更して搭載した結果、重量も同時に増加し、軌道の許容重量を超えてしまった[3]。その理由について東京芝浦電気(当時)の平賀潤二副社長は「当社で以前、奈良のドリームランドでモノレールを作っているので、それを基本にして作ることにした。ところが、横浜のコースは山あり谷あり、カーブも多いので、安全のため連結器はじめ各部品を頑丈にした。いわば丁寧に作りすぎた結果重すぎるものになってしまったわけで、それほど重くなるとは思わなかった」と釈明していた[7]

また、東芝電鉄事業部(当時)の関係者の話では「車体が重すぎたといわれるが、そのとおりだったかもしれない。しかしいろいろな条件を考えて判断を下す必要があると思う。コンクリートの桁は別の会社(三井建設)が作ったが、車両とはツイのもので十分打ち合わせしているはずだ。あのモノレールは話し合いの途中でコースが変わったり、勾配がきつくなったところもあったりして困難な仕事だった」と釈明。レールと橋脚の建設を請け負った三井建設の土木部工事課の関係者の話では「当社では車体を作った東芝から30トンの重さに耐えるように言われたので、そのように設計した」[6]と釈明していた。

一方、ドリーム交通の親会社、日本ドリーム観光の田中和弥常務の1967年時点の話によれば「開通以来、バーストなどの故障が多かった。今年の3月になって東京陸運局の監督のもとに、モノレールの車体の重さをはかったところ、3両編成で30トンの予定のものが、45.85トンもあった。そこで少しでも重量を軽くするため、定員300人のところを、4月から160人に乗車制限して様子を見ていたが、そのうちに脚柱やケタに細かいひびがはいりだしたので9月に入ってから70人にした」という。そしてモノレール施設の製造、工事は東芝電鉄事業部にいっさいを任せてあるというが、再開に向けるにあたって、車体を軽いものに作りかえ、脚柱やケタの補強工事をしなければならず、工事に約1年かかるという見通しだった[8]。そんな中、運輸省鉄道監督局民鉄部土木課(当時)の山本正男課長は「車体が重すぎるのだから当然、つくりかえなければならない。コンクリート軌道も修理で済むか、つくりかえる必要があるか、これから検討を進める。運転再開までにはかなりかかるだろう。定期券数百人については、代行輸送を会社側(ドリーム交通=当時)で検討中だ」[6]と説明していた。

幸い大惨事には至らなかったものの、非常に危険な状態であることには変わりはなかった。

[編集] 運行休止中の動き

1967年(昭和42年)11月6日、ドリーム交通は、「横浜ドリームランドのモノレールが故障続きで、1年間の運休に追い込まれたのはモノレールを納入し、工事を担当した業者のミスによるもの」だとして、三井物産会社と東京芝浦電気(当時)を相手取り、一年あまりの休業予定期間中の損害2億1474万7千円の賠償を求めて東京地裁に提訴した。これは、同年10月度から1968年(昭和43年)10月度までの日本ドリーム観光の役員ならびに従業員の給料ほか税金、電気代など諸経費の補償を要求したものである[9]

しかし、これまで車両の設計ミスを認めた東京芝浦電気側の態度が一転した。東京芝浦電気の平賀副社長は「製造の過程で横浜ドリーム交通(当時)側からコースの設計変更がなされたため、車両の重量も勢いこれに左右された。したがって、東芝だけが運休の責任を負わなければならないか疑問だ。訴状をよく検討したうえで、態度を決めたい」[10]と全面的に争う姿勢をみせた。しかし、製造過程や車両の搬入はおろか、開業当初から危険な車両を運行させ、「軌道損傷に責任なし」と主張し自社の失敗責任を転嫁する東京芝浦電気の姿勢に、原告側のドリーム交通(当時)との対立は激化した。これが裁判を長期化させてしまった一因であった。

また、これを契機に横浜ドリームランドの経営はさらに緊迫した。横浜ドリームランドの経営が一時赤字に陥り、周辺の土地を売却してしのいできただけに、モノレールの運休が経営に与える影響は大きかったとして高額の賠償を要求。設計だけではなく製造過程のミスから引き起こしたことである以上、最終的に東京芝浦電気側の責任であるということに何ら疑いの余地はないはずで、これだけ故障の多かったモノレールを運転させたメーカーの責任を追求する場でも責任転嫁する東京芝浦電気の態度に業を煮やした格好となった。これに対し東芝側には設計、製造のミスを全面的には認められないという“メンツ”があり、また、工事にやり直しによって問題解決を図るとの意向を強く示すなど、双方が真っ向から対立[11]。だが、疲労がたまってひびの入った橋脚やレールを作りかえなければ危険な状態であり、車両も軽いものに作りかえないと再開に結びつかないことはいうまでもなかったのである。

1980年11月25日に東京地裁が示した和解案に対し、原告・被告企業両者がようやく歩み寄った。和解金額は、当初の設備投資に対する補償、運休による経営上の損失に対する補償などを合わせて25億 - 27億円と推定され、ここで和解案を最終的に詰めた[11]。この時点では13年間雨ざらしになっていたモノレールの車両やレール、駅舎などの設備は錆の進行や腐食が目立ち、既にとても再開できるような状態ではなく、この補償金をもとに、運転再開せずに撤去する見通しを固めていた。やがて1981年(昭和56年)1月に和解が成立し、東京芝浦電気が発注元の日本ドリーム観光グループに総額26億円(推定)の損害賠償を支払った[12]

1982年(昭和57年)3月に、ドリーム交通は、同路線の経営権や事業免許をダイエーの子会社であるドリーム開発に、副事業として行っていたタクシーおよび貸切バス事業を新ドリーム交通に譲渡し、同年4月26日に解散[13]した。1988年(昭和63年)7月には、日本ドリーム観光もダイエーの傘下に入った。また、新ドリーム交通は1989年(平成元年)にグリーンキャブが買収した。

[編集] 設備関連

ドリームランド駅の先にはモノレールの車両基地があり、休止後は構内に放置された車両とともに廃墟となっていた。1979年(昭和54年)頃には、運行再開に向けての調査の為か、ドリームランド駅構内に放置されていた保守車両を整備して全区間(又は一部区間)を走行させている。1985年(昭和60年)11月に車両は全車解体され、2年後の1987年(昭和62年)にはドリームランド駅舎、車両基地が解体され、車両基地の跡地はバス停留所や、当時ダイエー系列だったコンビニエンスストアローソンが出店された。この店は「ローソン横浜ドリームランド駅前店」と称し、鉄道事業休止から20年が経過して開店したにも拘わらず駅名が採用されていた。

1991年(平成3年)頃、高所区間の集電レールと信号設備が撤去された。このとき使用された作業車両はドリーム開発によって製造されたもので、作業後は、後述の事業廃止による軌道・橋脚の撤去が行われるまで小雀信号所に放置された。

JR大船駅から数100メートル先の柏尾川沿いにあったドリーム交通大船駅のプラットホームは長らく放置されていた。1980年代後半に芸術家グループが駅本屋を「ワークショップ」として利用していたこともある。しかし、長年の放置によって鉄骨の腐食が進行したため、1992年(平成4年)2月に軌道・橋脚のみを残して撤去され駐車場となった。

[編集] 再開計画

運行休止期間中もいくつかの運行再開計画が考案されたが、いずれも立ち消えとなっていた。1995年(平成7年)6月14日、運行方式をモノレールから急傾斜に強い浮上式鉄道HSST)に変更し、路線名もドリームランド線へと改称する最後の再開計画が立案された。この計画は、途中に3駅を設け、通勤路線化も目指したものであり、相鉄いずみ野線延長線上の下飯田付近(現・ゆめが丘駅)への延長計画もあった。着工時期を1997年度にはじめ、1999年の開業を目指す計画を明らかにし、建設予定費を約300億円としていた。1995年12月に、HSSTに免許が変更され、1996年(平成8年)の首都圏整備計画では、運行再開の実現を図ることとされた[14]

しかし、軌道から車両を浮かすほどの強力な磁力を利用するというHSSTに対するイメージにより、電磁波の生体への影響、テレビ・携帯電話等の電波障害、医療機器の誤作動や、いわゆる電磁波過敏症などといった種々の被害を沿線住民が不安視した。

また、平日は通勤時間帯以外の予測需要が低く、建設コストの大きいHSST方式では設備投資の回収が見込めないことなどから、2001年(平成13年)9月にはHSSTのほか、新しい技術である小型モノレール方式を採用することや、経営においては上下分離方式の導入等も検討され、同年の首都圏整備計画でも、運行再開の実現を図ることとされた[15]

[編集] 廃止へ

しかし同じ時期に、ドリームランド・ドリーム開発双方の親会社であるダイエーが深刻な経営危機に陥り、運行再開に必要な200億 - 300億円規模の資金調達は絶望的となった。さらに、ダイエーは経営再建にともなう系列事業整理の一環として横浜ドリームランドの閉園を決定し、来場客輸送というドリームランド線の本来の事業目的自体が失われることになった。もう一つの再開目的であった通勤路線化についても、原宿交差点立体交差化事業の着手といった道路事情や、沿線人口の変化等による需要予測の見極めから、運行再開を実現しても採算を見込めるまでには至らないとの判断が下された。これにより、2002年(平成14年)8月21日、ダイエーはドリームランド線の運行再開断念と路線の廃止を正式に発表した[16]。約一年後の2003年(平成15年)9月18日には、国土交通省による事業免許も廃止された。

モノレールの軌道や設備の一部は運行休止後40年近く放置されたままとなり、テレビ番組の廃墟特集等でも何度か取り上げられたほどであったが、廃止が決定された後に大部分の事業用地が横浜市に売却された。軌道・橋脚などの構造物の早期撤去を条件に売却されたため、2003年9月1日から開始された撤去工事は、2005年(平成17年)上半期までにほとんど終了した。

放置されていたドリームランド駅は2003年(平成15年)に整地され、駐車場となった。また、ローソン横浜ドリームランド駅前店は2005年(平成17年)9月18日までこの店名で営業しており、2006年(平成18年)3月に僅かに位置を変えて「ローソンプラスドリームバスターミナル前店」として再開している。

残されていた大船駅の軌道・橋脚も撤去され、2005年(平成17年)には建売住宅が、2008年(平成20年)にはマンションが建設された。

モノレールの跡地は、休止中から続いている宅地開発や、2004年(平成16年)10月に発生した台風22号による土砂災害の復旧工事などで大きく姿を変えている。そのため現在では、古い地図を見ながらでなければ軌道の存在した場所を探しあてることは困難である。ただし、休止期間が大変長かったために、ファンが撮影した軌道の写真等は数多く残っている。

[編集] 廃止後の動き

1970年代に旧ドリームランド敷地の一部売却により建設された団地「ドリームハイツ」は、分譲の際にドリームランド線の再開を前提に募集を掛けていた経緯もあり、休止期間を通じて住民のあいだでモノレールの再開を望む声が大きかった。その後、横浜ドリームランド跡地へ学校法人都築第一学園によって横浜薬科大学が2006年(平成18年)4月に設立されてからは、すでにモノレールの軌道はほぼ全て撤去されていたが、モノレールもしくはそれに準じた交通システムの再建を望む声があがった。

ドリームハイツや横浜薬科大学方面へは、藤沢駅・大船駅・戸塚駅横浜市営地下鉄立場駅などを発着するバスしか交通機関がない。戸塚駅・大船駅の発着便はかなりの頻繁運転だが、一部便を除いては、県下屈指の渋滞箇所として悪名高い国道1号原宿交差点を通らなければならない。そのため、再開希望派の住民は「横浜薬科大学に通学する学生の輸送のためにバスの便数が増え、ただでさえ酷い原宿交差点の渋滞をさらに悪化させてしまう」と主張した。

しかし、現実問題として、

  • 宅地化が進んだために軌道建設用地の再取得が困難。
  • かつての延長計画とほぼ同一のルートで、ドリームランド線の代替とも言われる市道環状4号線が開通し、立場駅から湘南台駅までの横浜市営地下鉄沿線へバス路線を増やせる見通しが立った。
  • 2010年(平成22年)12月に原宿交差点の立体交差化事業が完成し、渋滞軽減によりドリームハイツ方面へのバスの輸送力が改善された。
  • ドリームランド線の事業者だったドリーム開発が2005年(平成17年)11月に解散した。
  • 現在の土地所有者でもある横浜市が、横浜薬科大学への交通便をバスに限定する方針を宣言している。
  • 廃止前に行われた需給予測により、採算性がないとの判断が下されている。

などの要因により、再建設が実現する可能性はほぼ消滅している。

なお、1997年(平成9年)に策定され横浜市企画局が推進している「ゆめはま2010プラン」の中にドリームランド線運行再開事業があり、1996年(平成8年)事業化検討、2001年(平成13年)実現を目指していた。

[編集] 駅一覧

大船駅 - (小雀信号所) - ドリームランド駅

[編集] 接続路線

[編集] 関連項目

  • 奈良ドリームランド - 東芝が開発、設計したモノレール、「スペースライナー」を設置していた。当路線のシステムのベースとなっている。

[編集] 脚注

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  1. ^ 「東芝方式モノレールについて」斎間亨・刊行年不明=大阪市立中央図書館所蔵
  2. ^ 1964年(昭和39年)10月12日、運輸省告示第389号
  3. ^ a b DREAM BoX 横浜ドリームランドモノレール
    海を往く者 「夢破れたモノレールとドリームランド」
  4. ^ 毎日新聞1966年4月28日夕刊
  5. ^ ドリーム交通や日本ドリーム観光の公式文書など
  6. ^ a b c 毎日新聞1967年9月26日朝刊
  7. ^ a b c 読売新聞1967年9月26日朝刊
  8. ^ a b 朝日新聞1967年9月26日朝刊
  9. ^ 朝日新聞1967年11月7日朝刊14面より
  10. ^ 読売新聞1967年11月7日朝刊
  11. ^ a b 日本経済新聞1980年11月25日朝刊
  12. ^ 日本経済新聞1981年1月26日夕刊
  13. ^ 同年5月1日付、官報第16575号「解散公告(第1回)」
  14. ^ 1996年9月26日、総理府告示第30号
  15. ^ 2001年11月15日、国土交通省告示第1634号
  16. ^ 日本経済新聞2002年8月22日朝刊12面

[編集] 外部リンク・参考文献

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