ドリス・デューク

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ドリス・デューク(Doris Duke, 1912年11月22日 - 1993年10月28日)は、アメリカ合衆国の、園芸家、美術収集家、慈善活動家である。

デュークは、たいへん裕福なタバコ王の娘であって、全地球的な旅行と広範囲な関心事の生活に資金を提供することができた。 それらのものは、ジャーナリズム、サーフィン競技、ジャズ・ピアノ、野生生物保護、東洋美術およびハーレ・クリシュナ(Hare Krishna)にわたる。

彼女の事業の大部分は、ニュー・ジャージーのヒルズバラ・タウンシップ(Hillsborough Township)の父の地所に集中したが、そこに彼女は、世界旅行で獲得した工芸品を供給された、精巧な主題の庭園を多数、造ったが、そのなかにはアメリカ最大の屋内植物展示をふくむ。 彼女はまた、ロード・アイランドのニューポート(Newport)の、80を超える歴史的建造物の保存においても活動した。

デュークは、2回、結婚し、離婚し、めったにゴシップ欄の外に出ることがない、色彩豊かな私生活を楽しんだ。

彼女の慈善事業は老年まで続いたが、その一部は、彼女の生前には公衆には知られなかったし、彼女の13億ドルと見積もられる財産は大部分、慈善のために残された。 受託者と遺言執行者による多くの異議申し立てののち、デュークの遺産は今は、ドリス・デューク慈善財団(Doris Duke Charitable Foundation)によって管理され、医学研究、児童動物虐待防止、舞台芸術、野生生物および生態学に献納されている。

家族と前半生[編集]

デュークは、ジェームズ・ブキャナン・デューク(James Buchanan Duke)とその2人目の妻で、ドクター・ウィリアム・パターソン・インマン(Dr. William Patterson Inman)の未亡人である、ナナリン・ホルト・インマン(Nanaline Holt Inman)とのひとりごであった。 1925年の大デュークの死亡で、その遺言書は、地所の大部分を妻と娘に、[1] 1700万ドルを遺言書の2つの別々の箇条で彼が1924年に設けたデューク基金(The Duke Endowment)に、遺贈した。[1] 地所の総価値は開示されなかったが、6000万ドル[2]、そして1億ドルとさまざまに見積もられた。

デュークは子供時代の前半を、ニュー・ジャージーのヒルズバラ・タウンシップの父の2700エーカー(11平方キロメートル)の地所であるデューク・ファームズ(Duke Farms)で過ごした。[3] ジェームズ・デュークの遺言書のあいまいさのために、彼が所有した不動産の競売と即金の売却を防ぐために訴訟が起こされた。[3][4] 問題の不動産のひとつは、東78番街1番地のジェームズ・B・デューク・ハウス(James B. Duke House)であった[3]が、これはのちにニュー・ヨーク大学の美術研究所(Institute of Fine Arts)の所在地となった。

彼女は1930年に18歳で、ロード・アイランドの一家の住まい、ラフ・ポイント(Rough Point)の舞踏会で、社交界にデビューする女性として紹介された。[5] 彼女は21歳、25歳、そして30歳になったとき、父の遺言書から巨額の遺贈を受けた。彼女はときどき、「世界一裕福な娘」と呼ばれた。[6][7] 母は1962年に死去し、彼女に宝石類とコート1着を遺した。[8]

成人としての生活[編集]

デュークは成年に達すると、世界旅行と美術をふくむ、さまざまな関心事を追求するために富を使った。 第2次世界大戦中、彼女は、年俸1ドルで、エジプトで水兵のための酒保で働いた。[9] 彼女はフランス語を流暢に話した。 1945年から、デュークは、戦争で荒廃したヨーロッパじゅうの諸都市から報告する、インターナショナル・ニューズ・サーヴィス(International News Service)の外国通信員として短期間、働いた。 戦争後、彼女はパリに移り、雑誌『ハーパーズ・バザー』(Harper's Bazaar)に寄稿した。

ハワイ在住中、デュークは、サーフィンのチャンピオンでオリンピック水泳選手のデューク・カハナモク(Duke Kahanamoku)とその兄弟らの指導のもとで、サーフィン競技を始める最初の女性となった。[10] 動物の、ことにイヌと愛玩動物のラクダの、愛好家として、晩年、デュークは、野生生物保護地区の支援者、環境保護論者、歴史的保存の後援者となった。

デュークの園芸への関心は、ピューリッツァー賞受賞者で有名な科学的農夫であるルイス・ブロムフィールド(Louis Bromfield)との交友につながったが、彼はルーカス(Lucas)、オハイオのリッチランド郡(Richland County)のオハイオ(Ohio)にある、田舎の故郷、マラバー農場(Malabar Farm)を経営した。 こんにち、彼の農場は、ブロムフィールドの死後、地所の購入の助けとなったデュークからの寄付によって可能になった、マラバー・ファーム州立公園(Malabar Farm State Park)の一部である。 森林の一部は、彼女にささげられており、こんにちまで彼女の名前を帯びている。

46歳で、デュークは、父ジェームズ・ブキャナン・デュークに敬意を表するために、異国風の、一般公開の庭園である、デューク・ガーデンズ(Duke Gardens)をつくり始めた。 彼女は、ニュー・ジャージーのデューク・ファームズの自宅の、ホレス・トランバウアー(Horace Trumbauer)の温室(conservatory)[11]から新たな温室(greenhouse)を広げた。[12] 11の相互に連結する庭園は、デュポン(DuPont)のロングウッド・ガーデンズ(Longwood Gardens)によって霊感を受けた、実物大の、庭園テーマ、国あるいは時代の再創造であった。 彼女は、自身の広汎な国際旅行からの観察に基づく展示の建築的、美術的および植物的諸要素をデザインした。[13] 彼女は、ときには16時間労働で、据え付け作業に働いた。[9] 展示の組立は1958年に始まった。 1970年代のフランス式庭園の夜間照明された再発見されたイメージ(rediscovered image of the night-lighting)は、デュークが生涯、庭園に惜しみなく注ぎ続けた、細部にまでわたる注目の一例である。

デュークは、幼いときにピアノ演奏を学び、ジャズの鑑賞を生涯、発達させ、ジャズ・ミュージシャンの友人として振る舞った。 彼女はまたゴスペル音楽を好み、ゴスペル合唱団で歌った。

1966年、デュークが賃貸自動車を運転していたとき、その自動車が突然、前方に傾き、インテリア・デザイナーのエドゥアード・ティレッラ(Eduardo Tirella)を押しつぶしたが、彼はロードアイランドのニューポート(Newport)で彼らが修復している邸宅の門を開けているところであった。 それは警察によって珍しい事故として決定されたが、デュークが不注意であったと判ったとき、ティレッラの家族は訴訟を起こし、75000ドルを勝ち得た。[14]

住居[編集]

デュークは、カノーヴァの三美神のこの複製のような、父が収集した彫像を展示するイタリア式庭園を造った。2008年

デュークはたくさんの住居を獲得した。 彼女の本邸で公式な住所は[15]、ニュー・ジャージーのヒルズバラ・タウンシップの、父の2700エーカー(11平方キロメートル)の地所、デューク・ファームズであった。 ここに彼女は、アメリカ最大級の、60000平方フィート(5600平方キロメートル)の、一般公開の屋内植物展示施設、デューク・ガーデンズを造った。[16]

デュークのほかの住まいは、生前は非公開であった:彼女は夏ばの週末をラフ・ポイント、ロードアイランドのニューポートの彼女が相続した49室のイングランドのマナー領主の邸宅に滞在しながら、ニューポート修復財団の計画の仕事をした。 冬ばは、ハワイのホノルルの彼女が1930年代に建てて、「シャングリ・ラ」と命名した、地所と、 かつてルドルフ・ヴァレンティノの自宅であった、カリフォルニアのビヴァリー・ヒルズのファルコンズ・レア(Falcon's Lair)で過ごした。 彼女はまたマンハッタンの2つのアパートメントを経営した:現在はジャーナリストであるシンディ・アダムズ(Cindy Adams)が所有する、パーク・アヴェニュー475番地の、1000平方フィートのヴェランダ付きの9室のペントハウスと、財務の経営の事務所専用に彼女が使用したタイムズ・スクエア近くの別のアパートメント。 彼女は自家用のボーイング737ジェット機を購入し、美術と植物を収集する旅行で諸自宅間を旅行するために、内装を再装飾した。 機内には、本物の邸宅に似せて装飾された寝室が、ある。 ドリス・デュークは、一箇所に留まることが困難であったし、いつでもどこかに彼女が到着したとき彼女はどこか他の所に行きたいという欲望を抱いた。[17] デュークは、シャングリ・ラの中庭の壁画を清掃する3階建ての足場まで梯子を登り、[18] デューク・ファームズで庭師らと並んで作業する、積極的に参加する住宅所有者であった。

デュークの邸宅のうち3つは現在、ドリス・デューク慈善財団の子会社によって経営されており、限定的に一般公開されている。 ニュー・ジャージーのデューク・ファームズは、デューク・ファームズ財団によって経営されている。旧デューク・ガーデンズのヴィデオ・ツアーは利用可能である。 ラフ・ポイントは、1999年にニューポート修復財団(Newport Restoration Foundation)に証書作成のうえ譲渡された。 ツアーは12人に限定されている。 シャングリ=ラは、ドリス・デューク・イスラム美術財団(Doris Duke Foundation for Islamic Art)によって経営されている。小規模の個人的なツアーとオンラインの仮想的なツアーは利用可能である。[19]

結婚と情事[編集]

デュークは2回、結婚したが、1935年の1回目はジェームズ・H・R・クロムウェル(James H. R. Cromwell)とで、彼はパーム・ビーチの社交界の最古参者であるエヴァ・ストーツベリー(Eva Stotesbury)の息子である。 クロムウェルは、妻と同様にニュー・ディールの擁護者で、政治生活の資金に彼女の財産を使用した。 1940年、彼は数か月間、駐カナダ 米国大使をつとめ、議会には不首尾であった。 夫婦には娘アーデン(Arden)が1人いたが、生後わずか1日で死亡した。 ふたりは1943年に離婚した。

1947年9月1日、パリにいる間、デュークは、ドミニカ共和国の外交官であるポルフィリオ・ルビロサの3人目の妻になった。 彼女は、争いの無い離婚に同意するために、彼の妻であるダニエル・ダリューに100万ドルを支払った。 巨富のために、デュークの、ルビロサとの結婚は、アメリカ国務省の注目を引いたし、国務省は、彼女に政治的課題を推進するために彼女の金銭を使用しないように警告した。 またさらに、彼女の死亡したばあい、外国政府があまり多くの影響力を得ることができるおそれがあった。 したがってルビロサは、婚姻前夫婦財産合意(pre-nuptial agreement)に署名しなければならなかった。 しかし結婚期間中、彼女はルビロサに、贈り物として幾百万ドルも与えたし、そのなかには、ポロ・ポニーの複数の厩舎、複数のスポーツ・カー、改造したB-25爆撃機1機、そして離婚財産処理合意(divorce settlement)ではパリの17世紀の家屋も含まれる。 彼女は多くの恋愛関係があったが、しかしいちども再婚しなかった。 ドリス・デュークのいちばんの親友のひとりは、ブラジルのソーシャライトで「ジェット族」("jetsetter")であるエーメ・ド・ヒーリン(Aimée de Heeren)であった。

彼女の、伝えられるところによれば、多くの情事の相手のなかには、デューク・カハナモク、エロール・フリン、, アレック・カニンガム=リード(Alec Cunningham-Reid)、ジョージ・パットン、ジョー・カストロ(Joe Castro)、ルイス・ブロムフィールド、もいた。[10]

慈善活動[編集]

デュークの最初の大きな慈善活動は、1934年、彼女が21歳のときに、彼女に向けられる多くの経済的援助の要求を処理する目的で、インデペンデント・エイド会社(Independent Aid, Inc.)を創立することであった。 1958年に、彼女は、デューク・ファームズを造るために始めた一般公開展示庭園に資金を寄付するためにデューク・ガーデンズ財団を設立した。 彼女の財団は、デューク・ガーデンズが「他の文化の正当な評価と地球的理解はもちろん、デューク家の関心事と慈善的大望」を明らかにするという意図があった。[11] デューク・ガーデンズは、ドリス・デューク慈善財団の受託者による、2008年5月25日の閉鎖するという決定にかんする議論の中心であった。[20]

1968年、デュークは、町の80を超える植民地時代ふうの建造物の歴史的保存という目的でニューポート修復財団を創立した。 歴史的地所には、ラフ・ポイント, サミュエル・ホワイトホーン・ハウス(Samuel Whitehorne House)、プレスコット・ファーム(Prescott Farm)、ブロイド=ペリー・ハウス(Buloid-Perry House)、キングズ・アームズ・タヴァーン(King's Arms Tavern)、バプティスト・ミーティングハウス(Baptist Meetinghouse)、コットン・ハウス(Cotton House)がふくまれる。 71の建造物が賃借人に賃借されている。 5つの建造物だけが博物館として機能している。 彼女は、インドのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのアーシュラマを作ったが、ここに1968年ビートルズが訪れた。[21] デュークの広範囲にわたる旅行は、諸文化の多様性に対する興味につながったし、彼女は、生涯、イスラムの、そして東南アジアの、美術のかなりの収集を蓄積した。 彼女の死後、多くの作品は、サン・フランシスコのアジア美術館(Asian Art Museum)と、ボルチモアのウォルターズ美術館(Walters Art Museum)に寄贈された。 デュークはさらに多くの慈善活動をしたし、医療研究と児童福祉政策の大きな後援者であった。 彼女の財団、インディペンデント・エイドは、ドリス・デューク財団となったし、それはなお個人的な下賜金作成実体として存在している。 彼女の死後、4つの国立の下賜金作成政策とドリス・デュークの3つの地所、シャングリ・ラ、ラフ・ポイントおよびデューク・ファームズを支える、ドリス・デューク慈善財団が1996年に設立された。

死亡[編集]

1992年、79歳でデュークはフェースリフト手術を受けた。 彼女は、いまだ大量に薬物療法をうけながら歩こうと努め始め、倒れ、ヒップの骨を折った。 1993年1月、彼女は膝の交換の手術を受けた。 彼女は2月2日から4月15日まで院内加療をほどこされた。 彼女は同年7月、2回目の膝の手術を受けた。 2回目の手術から帰宅した翌日に、彼女ははげしい発作に襲われた。 ドリス・デュークは1993年10月28日、ファルコンズ・レアの自宅で、80歳で死去した。 死因は、デュークの遺言書によって遺言執行者に指名されたバーナード・ラファティ(Bernard Lafferty)のスポークスマンによれば、進行性の肺水腫の結果である心拍停止であった。

デュークは死亡の24時間後に火葬にされ、遺灰は最後の遺言書が指定したとおりに太平洋にまかれたけれども、遺言執行者、ラファティは少量の遺灰を、デュークが生涯、世界旅行者として町、ミズーリのマーシュフィールド(Marshfield)に。 デュークはでマーシュフィールドを訪れ、彼女はそこで音楽を楽しんでいた。 デュークの遺灰は地元の共同墓地に埋葬され、石が1個、彼女の死後の名声に敬意を表するために置かれた。 彼女はしばしばさまざまなプロジェクトに、典型的には宣伝なしで、大金を送ったために、地元で慈善活動家として知られた。

信託と遺言書[編集]

デュークは、父であるジェームズ・ブキャナン・デュークによって1917年と1924年に作られた、2つの信託の、終身受益者であった。 信託からの収入は、彼女の死後、どの子供にも支払われ得た。 1988年、75歳でデュークは、チャンディ・ヘフナー(Chandi Heffner)という女性を法律上の養子縁組をしたが、彼女は35歳の、ハーレ・クリシュナの熱烈な帰依者で、億万長者ネルソン・ペルツ(Nelson Peltz)の3人目の妻の姉妹であった。[22] デュークは、ヘフナーは、生後わずか1日で死亡した、自分のただ1人の子アーデンの霊魂の、新たな肉体における再来であるとはじめは主張した。 この2人の女性は仲違いし、デュークの遺言書の最終版は、彼女は、、ヘフナーが、彼女の父の信託から利益を得ることを望まないと明記した。 彼女はまた養子縁組を無効にした。 無効にもかかわらず、デュークの死後、地所の受託者らは、ヘフナーによって起こされた、6500万ドルを求める訴訟を解決した。[23]

最終的な遺言書において、デュークは、幾つかの現存する、そしてあらたな慈善財団に彼女の財産の事実上すべてを遺した。 彼女は、アイルランド生まれの執事バーナード・ラファティ(Bernard Lafferty)を遺言執行者として指定したが、彼はそれから共同執行者としてUSトラスト会社(US Trust company)を指定した。 ラファティとその友人であるマリアン・オーツ・チャールズ(Marion Oates Charles)は彼女の受託者として指名された。[24] しかしながら、おおくの訴訟が遺言書を相手どって起こされた。 死亡時、デュークの財産は13億ドルと見積もられた。 最も知られた訴訟は、[25]ハリー・ダマパラス(Harry Demopoulos)によって開始された。 より古い遺言書においては、ダマパラスは遺言執行者に指名されていたし[26]、 ラファティの指定に異議を申し立てた。 ダマパラスは、ミスタ・ラファティとその弁護士らは、鎮静剤を服用させられた病気の老女を甘言でだまして地所の管理を彼にまかせさせたと主張した。

よりいっそう扇情的な告発が臨終の看護師タミー・ペイエト(Tammy Payette)によってなされたが、彼女は、ミスタ・ラファティと有名なビヴァリー・ヒルズの医師であるドクター・チャールズ・キヴォウィッツ(Dr. Charles Kivowitz)とはミス・デュークの死をモルヒネとデメロール(Demerol)で早めたと主張した。 1996年、ラファティが死亡した年、ロス・アンジェルスの地区首席検察官(District Attorney)の事務所は、不正行為の確固たる証拠は無いと決定した。[23]

デューク大学も訴訟を起こし、遺言書において与えられた1000万ドルより多くの、デュークの資産の取り分の権利を主張した(ただしデュークの遺言書はまた、その取り分を議論するいかなる受益者も、何も受け取らないと述べた[27])。

40人の弁護士と10のさまざまな法律事務所を巻き込む訴訟は、3年間近くにわたってデュークの地所を固定させた。 ラファティは最後には、地所の基金を自身の生活費に使用したことでニュー・ヨーク裁判所によって免職させられたし、USトラストは「彼を止めるために何かをすること」はできなかった。[23] マンハッタンの遺言書検認後見裁判所(Surrogate Court)は、デュークの遺言書を無効にし、それに異議を唱えた人々のなかからあらたな受託者を指定した: ハリー・ダマパラス。 J・カーター・ブラウン(J. Carter Brown)(のちにドクター・アルバート・C・バーンズ(Dr. Albert C. Barnes)の遺言書を破棄することにかかわる) マリオン・オーツ・チャールズ、デュークの最後の遺言書からただひとりの受託者。 ジェームズ・ジル(James Gill)、弁護士。 ナンネル・O・コヘイン(Nannerl O. Keohane)、デューク大学の学長およびジョン・J・マック(John J. Mack)、モルガン・スタンレーの代表者。[25] これらの訴訟のための報酬は1000万ドルを上回り、デュークの地所によって支払われた。 これらの受託者は今や、ドリス・デューク慈善財団の全資産を管理しているが、ドリス・デュークは財団は医療研究、動物児童虐待防止、舞台芸術、野生生物と生態学を支援するように指示した。[28] DDCFはまた、デュークの以前の住居を経営するために作られた3つのそれぞれの財団のための基金を管理する: ドリス・デューク・イスラム美術財団、デューク・ファームズおよびニューポート修復財団。 受託者らは、ドリス・デューク自身の諸事業は、「デューク家の、個人的な情熱と顕著な消費の歴史を永続化しつつある」と述べて、これらの財団のための基金をじょじょに減じている。 最近、これらの財団は一部の資産を売却し[29]、デューク・ガーデンズを閉鎖した。 ニュー・ヨークのクリスティーズは、ニュー・ヨークのニュー・ヨークで2004年6月3日木曜日 - 5日土曜日の3日間にわたって行なわれた「ドリス・デューク慈善財団に利するために売却される、ドリス・デューク・コレクション」の競売のための、600ページを超える、多数のイラストレーションが掲載されたカタログを刊行した。

大衆文化[編集]

デュークのいくつかの伝記が出版されているが、最も有名なのはステファニー・マンスフィールド(Stephanie Mansfield)の『The Richest Girl in The World』(Putnam 1994)である。

1999年、マンスフィールドの書籍に基づく、4時間のテレヴィジョン・のために制作されたミニ・シリーズ(デューク役はローレン・バコール、ラファティ役はリチャード・チェンバレン)は、『Too Rich: The Secret Life of Doris Duke』の題名で放映された。

テッド・シュワルツ(Ted Schwarz)とトム・(Tom Rybak)の『Trust No One』(1997年)は、デュークのスタッフのひとりと共同執筆された。

彼女の、相続権を剥奪された甥であるポニー・デューク(Pony Duke)とジェーソン・トーマス(Jason Thomas)は、1996年に『Too Rich: The Family Secrets of Doris Duke』を出版した。

彼女の人生はまた、HBO映画『Bernard and Doris』(2007年)の主題であり、デューク役をスーザン・サランドンが、執事であるラファティ役をレイフ・ファインズが演じた。

参考文献[編集]

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  3. ^ a b c “Girl of 14 to Run 3,000 Acre Estate”. New York Times. (1927年9月25日). p. E1. http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F60816F73B5B157A93C7AB1782D85F438285F9 2010年7月25日閲覧。 
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外部リンク[編集]