ドミニク・ハシェック

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ドミニク・ハシェック
生誕 1965年1月29日(49歳)
チェコスロバキア・パルドゥビツェ
身長
体重
5 ft 10 in (1.78 m)
165 lb (75 kg; 11 st 11 lb)
ポジション ゴールテンダー
キャッチ 左利き
所属クラブ
代表 チェコ &
チェコスロバキア
NHLドラフト 199th overall(1983年)
シカゴ・ブラック・ホークス
現役期間 1980年 – 2011年

ドミニク・ハシェックDominik Hašek, 1965年1月29日 - )は旧チェコの、ボヘミアパルドゥビツェ生まれのプロ・アイスホッケー選手で、ポジションはゴーリーである。 愛称は The Dominator (「支配者」の意)。

人物[編集]

ヨーロッパ生まれのゴーリーとしてはNHL史上最も成功した選手といえるトップアスリートである。 NHL 加入がもう少し早ければ、パトリック・ロワを凌ぐ成績を残したかもしれないと評価する声もある。

実弟のマルティン・ハシェックスパルタ・プラハなどでプレーした元サッカー選手、従兄弟に元サッカーチェコ代表イワン・ハシェックがいる。

来歴[編集]

獲得メダル
 チェコ
男子アイスホッケー
オリンピック
1998 長野
2006 トリノ
世界選手権
1983 西ドイツ
1987 ウィーン
1989 ストックホルム
1990 Berne / Fribourg
世界ジュニア選手権
1982 Minnesota
1983 Leningrad
1985 Helsinki/Turku

ハシェックは、1983年シカゴ・ブラックホークスに第11位、全体では第207位でドラフト指名されるが、 NHL へのデビューは遅く1990-1991シーズンからとなった。ブラックホークスでは、エド・ベルフォア (Ed Belfour) の控えに甘んじ、2シーズンでわずか25試合の出場に止まった。

1993年の夏には、ハシェックはバッファロー・セイバーズにトレードされたが、これを契機にハシェックは NHL のトップゴーリーとして花開いた。

ハシェックは、最優秀ゴーリーに与えられるヴェジーナ賞を6度、ハート記念賞、レスター・B・ピアソン賞を各2度獲得している。また、セーブ率首位を6度、オールスター戦の第1チーム出場を5度果している。

1998年冬期長野オリンピックでは、チェコチームを率いて同チームに金メダルをもたらした。特に決勝戦ではロシアチームを完封した。シード6カ国の中では弱小と思われたチェコだったがヤロミール・ヤーガーが挙げる数少ない得点をハシェックが神がかりなセーブで守り抜くという同国が誇る2枚看板中心の戦術で臨んだ。これがトーナメントの短期決戦にはピタリとはまり、見事同国初の金メダルに貢献した。プラハでの祝勝会は数十万人の観衆で溢れたという。また、この勝利を題材にしたオペラ「ナガノ」が作られた。

2001年スタンレー・カップ以外のものはほとんど獲得したといえるハシェックは、当時下馬評が高かったデトロイト・レッドウィングスに移籍する。そして、2001-2002シーズン、ハシェックの念願叶って、チームは会長賞とともにスタンレー・カップを獲得する。

2001-2002のシーズンオフにハシェックは引退をするのだが、その1年後再びレッドウィングスに現役復帰を果す。当時、デトロイトのゴーリーにはカーティス・ジョセフ (Curtis Joseph) がおり、ハシェックとともに高額の年俸を要した。他チームもカーティス・ジョセフの高額年俸には難色を示し受入れを拒んだため、レッドウィングスのチーム内に緊張をもたらした。

2003-2004シーズンは、ハシェックにとっては鬼門の年で、股関節を故障した。2004年1月9日、彼は怪我の治療のため2-4週間の休養をとることでチームと合意した。当時、ハシェックはマネージャーのケン・ホランド (Ken Holland) に欠場期間の報酬返上を願い出たとされるが、このときにはその事実は公表されなかった。2月10日になると、そのシーズンの出場を見合わせる旨を発表し、レッドウィングス首脳部を困惑させた。3月12日にホランドとハシェックの会談が持たれ、報酬返上の事実を報道陣に伝えた。このときの返上額は、年俸6百万ドルのうちの半分、3百万ドルであったとされる。

ハシェックは同時代を代表するゴーリーでありながら、またトラブルメーカーとしても知られている。1996年のプレイオフ時には、当時コーチの Ted Nolan を解雇させなければ、今後バッファロー・セイバーズではプレイしないと発言した。ハシェックはこの言葉を実行し、次のラウンドではセイバーズが敗れるのをスタンドで観戦したこともあった。翌シーズン Nolan はチームを去るが、彼を慕うセイバーズの選手達は一様に憤慨したと言われている。

また、2001年のプレイオフでは、トレードかさもなければ引退かを要求した。この要求も通って、ハシェックはレッドウィングスへ移籍した。

2004年4月、ハシェックはプラハで股関節の手術を行い、故郷 Pardubice で体力を回復した。6月17日、チェコのメディアに対し、2004-2005シーズンはレッドウィングスでプレーしない旨を発表した(結局このシーズンは、ストライキのためシーズン自体が中止となる)。このインタビューでは、スタンレー・カップを争えるようなチームでプレイしたいとし、特にオタワ・セネターズの名前を移籍候補としてあげた。その後、セネターズはハシェックと複数年契約を行った。

2005-2006シーズン、ハシェックは順調な滑り出しを見せ、リーグトップクラスの成績を挙げていた。 しかし、2006年トリノオリンピックチェコ代表として出場し、その1試合目の途中に足を故障している。 その故障によってオリンピックの残り試合及びNHLのシーズンを棒に振ることになる。 チームはプレイオフに進出し、ハシェックが復帰するのではないかという憶測が流れたが、結局復帰することは無くシーズンを終了した。

2006シーズン終了後のオフに、ハシェックはデトロイト・レッドウイングスと契約し、古巣に復帰する事となった。 2007年には守護神として活躍したものの、2008年にはクリス・オスグッドの復活もあり、控え的な立場になったこと、チームが6年ぶりにスタンリーカップを獲得したことなどもあり、3度目の引退を宣言した。

外部リンク[編集]