ドベルド・デル・ラーゴ

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ドベルド・デル・ラーゴ
Doberdò del Lago
ドベルド・デル・ラーゴの風景
行政
イタリア国旗 イタリア
Friuli-Venezia Giulia-Flag.png フリウーリ=ヴェネツィア・ジュリア
Blank.png ゴリツィア
CAP(郵便番号) 34070
市外局番 0481
ISTATコード 031003
識別コード D312
分離集落 Devetachi, Jamiano, Marcottini, Visintini, Parkisce, Fabbrici, Micoli, Issari, Ferletti, Bonetti, Berne [1]
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
公式サイト リンク
人口
人口 1,437 [2](2012-01-01)
人口密度 53.5 人/km2
文化
守護聖人  
祝祭日  
地理
座標 北緯45度51分0秒 東経13度32分0秒 / 北緯45.85000度 東経13.53333度 / 45.85000; 13.53333座標: 北緯45度51分0秒 東経13度32分0秒 / 北緯45.85000度 東経13.53333度 / 45.85000; 13.53333
標高 92 (1 - 236) [3] m
面積 26.85 [4] km2
ドベルド・デル・ラーゴの位置
ドベルド・デル・ラーゴの位置
ゴリツィア県におけるコムーネの領域
ゴリツィア県におけるコムーネの領域
Flag of Italy.svg ポータル イタリア
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ドベルド・デル・ラーゴイタリア語: Doberdò del Lago ; スロベニア語: Doberdob)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ゴリツィア県にある、人口約1400人の基礎自治体コムーネ)。

地理[編集]

位置・広がり[編集]

ゴリツィア県東部のコムーネで、州都トリエステからは北西に約28km、県都ゴリツィアからは南西に約12km、モンファルコーネから北へ約4kmに位置する。コムーネの東はスロベニア国境であり、ミレン=コスタニェヴィツァ市の中心地スタニェヴィツァ・ナ・クラス (Kostanjevica na Krasuは東に約8kmの距離にある。

隣接コムーネ[編集]

隣接するコムーネは以下の通り。SLOはスロベニア領、TSはトリエステ県所属を示す。

地勢[編集]

スロベニアとイタリアにまたがって広がるカルソ台地(カルスト台地)西部にあり、カルスト地形が広がっている。

コムーネの東部には、南北に峡谷が走っている。単に「ドル」(Dol、スロベニア語で「谷」を意味する)と呼ばれるこの谷は、イゾンツォ川流域のヴィパッツォ谷 (it:Valle del Vipacco・ゴリシュカ地方 (Goriškaアドリア海を最短距離で結んでおり、ゴリツィアトリエステを結ぶ主要道路(SS55)が走っている。戦略上重要な地点として、古来争奪の舞台ともなった。

ドル谷の西側のカルソ台地をドベルド・カルスト(イタリア語: Carso di Doberdò / スロベニア語: Doberdobski Kras)と区分することがあり、同様に東側に広がる台地をトリエステ・コメン・カルスト(Tržaško-komenski Kras)とも言う。コムーネの大部分はドベルド・カルスト台地上にある。トリエステ・コメン・カルスト上にはスロベニアとの国境が走っており、地形はスロベニア領に続いている。

台地の南側にはポリエが広がっている。ドリーネには地下水面が上昇するとドベルド湖 (it:Lago di Doberdòと呼ばれる湖が現れる。ドベルド湖周辺は自然保護区 (it:Riserva naturale dei Laghi di Doberdò e Pietrarossaに指定されている。

ドベルド湖 
カルソの景観 

主要な集落[編集]

ドベルド・デル・ラーゴDoberdò del Lago)の本村はコムーネの西北部に位置する。ドベルド・カルスト台地上の村である[3]マルコッティーニMarcottini)は本村の北東約2kmに位置する。

ドル谷の中にはパルキシェPalchisce)などいくつかの集落がある。ジャミアノJamiano)は本村から約4km離れたコムーネの東南部、ドル谷南部に位置する集落で、モンファルコーネやサン・ジョヴァンニ(ドゥイーノ=アウリジーナの一部)といった海沿いの都市に近い。

歴史[編集]

中世[編集]

現在のスロベニア人の祖先となったスラブ系の人々は、7世紀頃にカルソ台地に暮らすようになったと考えられている。中世、カルソ台地はランゴバルド王国フランク王国アクイレイア総大司教領などを経て、15世紀にはゴリツィア伯国の統治下に入った。

村が最初に文書に登場するのは1179年のことで、そこには Dobradan と記されている。これはおそらくスロベニア語の地名 Doberdob(「オークの良木」を意味する) の誤記である。

ドベルドは、ゴリツィア伯国の他の地域とともに1500年にハプスブルク家の所領となり、以後400年間ハプスブルク君主国オーストリア帝国)領となった。

20世紀以降[編集]

オーストリア・ハンガリー軍兵士の墓地

第一次世界大戦において、イゾンツォ川一帯は、「未回収のイタリア」の回収を目指すイタリア王国と、オーストリア=ハンガリー帝国の激しい戦いの舞台となった(イゾンツォの戦い)。ドベルドの村はこの中で完全に破壊され、村の住民の1/5以上が命を落とした。とくに、第六次イゾンツォの戦いの一部であるドベルドの戦い (Battle of Doberdòの舞台として知られている。

第一次世界大戦後、一帯はイタリア王国に割譲された。ドベルドはトリエステ県に編入され、ファシスト政権下でイタリア化政策を受けた。

第二次世界大戦中の1942年末、この地域では共産党員が主導するスロベニア人民解放戦線 (Liberation Front of the Slovenian Peopleが、反ファシズムの抵抗活動を行うようになり、多くの住民がユーゴスラビアのパルチザンの一員として戦い、斃れることになった。1945年5月1日、村はユーゴスラビア人民軍 (Yugoslav People's Armyによって解放されたが、その後ユーゴ軍は撤退し、代わってイギリス・アメリカ連合軍が進駐した。1947年、イタリアの統治下に復帰し、ゴリツィア県に属することとなった。

社会[編集]

民族[編集]

村の人口の多くは、民族的なスロベニア人である。村には国営の幼稚園や初等学校・高等学校があり、スロベニア語による教育を行っている。

政治[編集]

1950年代から80年代にかけて、村はイタリア共産党の票田のひとつとして知られた。イタリア共産党はスロベニア系マイノリティの左派政党・スロヴェーヌ連合 (Slovene Unionの支援を受けていた。1990年代以降も選挙の際には左翼系政党の支持が高い。

人口[編集]

人口推移[編集]

人口推移
年度 人口   ±%  
1921 1,010 —    
1931 1,331 +31.8%
1936 1,484 +11.5%
1951 1,504 +1.3%
1961 1,399 −7.0%
1971 1,371 −2.0%
1981 1,417 +3.4%
1991 1,422 +0.4%
2001 1,410 −0.8%
2011 1,441 +2.2%

居住地区別人口[編集]

国立統計研究所(ISTAT)は居住地区(Località abitata)別の人口として以下を掲げている[3]。統計は2001年時点。

地区名 標高 人口 備考
DOBERDÒ DEL LAGO 1/236 1,410
DOBERDÒ DEL LAGO * 92 802
JAMIANO 45 273
MARCOTTINI 110 135
PALCHISCE 60 46
Berne 59 16
Bonetti 90 22
Devetachi 66 18
Ferletti 86 17
Micoli 41 29
Sablici 50 17
Visintini 35 23
Case Sparse - 12
Dosso Giulio 1/150 - ドゥイーノ=アウリジーナとの境界未画定地域
San Giovanni di Duino 18 - ドゥイーノ=アウリジーナとの境界未画定地区
Case Sparse - -
Lago di Doberdò 6 -
  • ISTATは人口統計上、家屋密度の高い centro abitato (居住の中心地区)、密度の低い nucleo abitato (居住の核となる地区)、まとまった居住地区を形成していない case sparse (散在家屋)の区分を用いている。上の表で地名がすべて大文字で示されているものが centro abitato である。「*」印が付されているのは、コムーネの役場・役所 la casa comunale の置かれている地区である。

交通[編集]

道路[編集]

国道

文化・観光・施設[編集]

第一次世界大戦の戦跡[編集]

ドベルドの戦いを描いた絵画。R.A. Höger 画

スロベニア人の住民の多くは、オーストリア軍に参加してイタリア軍と戦った。村の名を読み込んだ軍歌 Doberdob は、スロベニア人の間で広く歌われ、この村の名を有名なものにした。

1940年、スロベニア人作家 Prežihov Voranc  (Prežihov Vorancは、第一次大戦におけるスロベニア人兵士を描いた小説 Doberdob を著し、この作品は非常に有名になった。それとともにこの村の名は、第一次大戦におけるスロベニア人の犠牲の象徴として知られるようになった。

またこの村の名は、ハンガリー人の犠牲を象徴するものでもある。ハンガリー人の間でも、Doberdó という名の軍歌が広く歌われた。2009年にはVisintini / Vižintini の集落にハンガリー人犠牲者を記憶する礼拝堂が建立された。碑銘には、イタリア語マジャール語スロベニア語の3言語が用いられている。

姉妹都市[編集]

1977年より。ノヴァ・ゴリツァ市の一部。
1998年より

脚注[編集]

外部リンク[編集]