ドイツ国鉄52形蒸気機関車
| ドイツ国鉄52形蒸気機関車 | |
|---|---|
| 総両数: | 7000以上 |
| 製造年: | 1942–ca. 1950 |
| 廃車: | ČSD: 1976 DB: 1962 DR:1988 ÖBB: 1976 |
| 車輪配置(ホワイト式): | 2-10-0 |
| 軸配置(UIC): | 1'E h2 |
| DRG形式分類: | G 56.15 |
| 軌間: | 1,435 mm |
| バッファ間距離: | 22,975 mm |
| 全軸距離: | 9,200 mm |
| 運転整備重量: | 84.0 t |
| 含テンダ運転整備重量: | 102.7 t |
| 動輪上重量: | 75.9 t |
| 最高速度: | 80 km/h |
| 図示出力: | 1,192 kW |
| 動輪径: | 1,400 mm |
| 先輪径: | 850 mm |
| 気筒数: | 2 |
| 気筒径: | 600 mm |
| ピストン行程: | 660 mm |
| ボイラ圧力: | 16 bar |
| 火格子面積: | 3.89 m² |
| 全蒸発伝熱面積: | 177.83 m² |
| 炭水車運転整備重量: | 18.7 t |
| 水容量: | 27.0 |
| 燃料: | 10.0 t 石炭 |
| 列車暖房: | 蒸気 |
ドイツ国鉄52形蒸気機関車(ドイツこくてつ52がたじょうききかんしゃ)は、ドイツ国鉄の戦時設計蒸気機関車である。開発計画名に由来する「戦時蒸気機関車(Kriegslok)」の名で知られる。
目次 |
概要 [編集]
1936年にドイツ第三帝国政府によって策定された「戦時蒸気機関車計画」に従い、50形(1939年)を皮切りに、簡素な構造の戦時量産仕様かつ軽軸重の貨物機関車が量産されることになった。
もっとも、本格的な計画始動は戦略物資の希少化が進み、また逼迫した物資輸送を支えるため大型の機関車が切実に必要とされるようになった1942年に入ってからで、同年に50形をより一層簡素化した試作1号車 (52 001) が製作され、さらに同機の試験走行の結果を反映した試作2号機 (52 002) が追加製作され、これの設計が52形 (Baureihe 52) 蒸気機関車として制式採用された
その本格量産は1944年に開始された。本形式の量産に当たっては、ドイツ国鉄の制式機関車を手がけていたドイツ帝国領内の有力機関車メーカー各社が総動員され、随時改良を加えながら生産数30,000両を目標とした当初計画に従って継続的に生産された。
もっともドイツの敗戦により、実際にドイツ国鉄向けとして完成した数は6,248両[1]に留まっている。
構造 [編集]
本形式は占領地の鉄道で使用されることなども考慮して設計された、最大軸重15t級で軸配置1'E(デカポット)の、単式2気筒過熱式テンダー機関車である。その膨大な生産計画を限られた資材・工員で達成するため、先行形式である50形を徹底的に合理化・簡略化した設計が採用された。
そのため、除煙板、ボイラー缶胴部のケーシングなど機能的に必要でない部品はことごとく省略された。また、従来は丸く成形されていたボイラー上の砂箱や煙室からシリンダー弁室へ給気する蒸気パイプ覆いなどは工作の容易化を重視して単純な角形に変更、給水ポンプ、給水加熱器、シリンダー安全弁、そして軸箱楔といった性能面や保守面からは備わっていた方が好ましい部品についても、給水ポンプと給水加熱器はインジェクター1基の追加搭載[2]で代用、シリンダー安全弁は排水栓と呼ばれる、シリンダー内水圧が一定値に達すると自動的に脱落してシリンダー破壊を防ぐ簡易な栓で代用されるなど、性能や使い勝手、あるいは保守を多少犠牲にした設計となった。
一方、基本構造についても工作の簡易化に主眼を置いた設計の見直しが行われた。従来は鋼材の鍛造品が用いられていた主連棒や連結棒は圧延鋼板の溶接組み立て品で置き換えられ[3]、主台枠は一部については従来通り棒台枠を採用したものの、大多数については戦略物資となっていた肉厚圧延鋼板の使用を避け、薄い板材を溶接組み立てした板台枠を採用している。
これらの台枠の製作にあたっては、軽量化のために板台枠・棒台枠の双方について肉抜き穴の開口加工が施されたが、それらは全て板材をガスバーナーで焼き切り、そのまま仕上げ加工を行わない、という乱暴な工法が採用されている[4]。
また、炭水車は工作の容易化と資材消費の削減を重視し、船底形と呼ばれるセミモノコック構造の半円筒形水タンクの上に石炭積載スペースを設け、台枠やタンクそのもののフレーム構造を大胆に省略した設計のものが標準採用されている。
こうして総力戦下の消耗機材的な性格のものとして、耐用年数5年程度を想定して粗製濫造一歩手前の乱暴な設計や工法が採用された本形式であるが、基本となった50形の設計の優秀さから、一定の性能が確保されていた。
本形式は工場での簡素化提案などを随時取り入れたという事情もあって、その仕様は生産時期・生産工場によって様々であるが、特に軍用としても使用された車両の内、水質の悪い占領地域での使用を前提としていたヘンシェル製の164両については、タービンと冷却装置を組み合わせた復水装置を搭載した3'2'T16テンダーを連結する復水式蒸気機関車として完成している[5]。
運用 [編集]
本形式は製造当時ドイツの版図にあったヨーロッパ全土および東部戦線全域で運用され、一般貨客輸送のほか軍需物資および兵員の輸送に携わった。そのため、「東方植民地総合計画」にもとづく強制収容所および絶滅収容所へのユダヤ人の輸送にかかわるという側面ももつ。
本形式は戦時設計であったが、もともとオーバーパワー設計で完成度の高い50形を徹底的にリファインしたものであり、戦後も設計時の予測をはるかに超える耐久力を発揮した。これを実現したのは軽量化と低級鋼材の使用による性能低下を補うために実施された重量分散と平均化の徹底的な構造計算だった。その性能は高速走行に難点があったものの、当時の貨物機関車としては水準以上の完成度であり、その生産は第二次世界大戦終結後までつづけられ、各国の戦後復興にも大いに貢献した。
また第三帝国の支配を受けたソ連およびポーランド、更にはトルコでは戦後、領内に遺された52形をコピーした車両が大量に生産された。そうした事情から、本形式の生産数はドイツ国内だけで6,300両から7,000両程度[6]、コピーもふくめると10,000両近くにのぼると見られ、群を抜く世界最高数となっている。
なお、フランス・オーストリアなどドイツの敗戦後占領されていた各国に残留した各車は、それぞれの国の鉄道でそのまま継続使用されている。
本形式は戦後、順次他形式並の仕様への装備改修が実施されたが、電化とディーゼル化が本格化した1960年代から1970年代にかけて順次廃車となった。その多くは解体処分されたものの、相当数が世界各地に売却または寄贈されて保存されている。日本にも寄贈があり、1980年代まで河口湖近辺の公園に展示されていた。
本形式の現存両数はドイツを中心にオーストリア、チェコ、および旧ソ連、ポーランドなどに合計数百両にのぼり、動態保存も少なくない。稼働車の多くは改造や改修をほどこされているがドイツ国鉄保有車のなかには製造当時の状態に復元された資料性の高いものもある。一部は営業運転に就いている。
脚注 [編集]
- ^ この数字については諸説が存在するが、その多くは6,300両前後としている。いずれにせよ、その数は日本の国鉄が保有した蒸気機関車総数の最大値を上回る。
- ^ つまりボイラーへの注水はインジェクター2基で行う。なお、インジェクターによる注水はボイラーの高温高圧蒸気を使用するため、給水加熱器を併用しないと冷水を直接ボイラーへ注水してしまうこととなる給水ポンプとは異なり、ボイラー水温を大きく下げないという性質がある。よって給水ポンプを使用せず、インジェクターのみとすると給水加熱器は不要である。ただし、インジェクターより給水加熱器+給水ポンプの方がボイラーへ注水される水温を高くできる(一般的なインジェクターは水温が低くないと動作しない)ため、インジェクターのみとするとボイラーの熱効率は必然的に低下することになる。
- ^ これらは溶接部の仕上げを省略したこともあって鍛造品より重量が増大し、原形となった50形に比してマスバランスが崩れ、高速走行時の振動が増大する主因の一つとなった。
- ^ これも台枠の重量バランスの不均衡をもたらし、走行性能に少なからぬ悪影響を及ぼした。
- ^ ヘンシェル社はこのほかにもロシアやアルゼンチンなどにも輸出向けに製造している。戦後南アフリカに25型蒸気機関車用の復水器炭水車を輸出している。
- ^ 仕掛かり状態のまま占領先各国に承継され、そこで完成した車両を含む。
参考文献 [編集]
- 『世界の鉄道 '76 特集 蒸機C58,D51 日本のローカル私鉄 西ドイツの国鉄』、朝日新聞社、1975年
- 篠原正瑛 「大いなる時代を偲ぶ-回想のメルクリン ドイツ鉄道の変遷と蒸気機関車たち」、『世界の鉄道模型 メルクリンのすべて』、サンポウジャーナル、1979年