トヨダ・AA型乗用車

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AA型(復元車)

トヨダ・AA型乗用車(のちトヨタ・AA型乗用車)は、豊田喜一郎を中心とする豊田自動織機製作所自動車部(のちのトヨタ自動車の前身)が、1935年の試作車「A1型」を改良して、1936年に完成させた乗用車

トヨタ初の量産乗用車として1936年4月より市販を開始、同年9月には東京府商工奨励館で開催された「国産トヨダ大衆車完成記念展覧会」に出展され、太平洋戦争中の1943年までに1,404台が製造された。同時期のアメリカ車に匹敵する排気量3,400cc・5人乗りセダンであり、流線型ボディとシャーシの設計において、クライスラーのデソート・エアフロー(1933年)の強い影響を受けていた。

社名と車名[編集]

「豊田」を意匠とするAA型復元車のフードクレストマーク(フードマスコット)

1936年9月発表時の社名・車名は「トヨタ」でなく「トヨダ」である。しかし、翌10月早々には「トヨタ」を正式社名とすることを発表、翌1937年1月に新会社「トヨタ自動車工業株式会社」として豊田自動織機より分離独立する。そのため、車名に冠された「トヨダ」の使用は約3ヶ月というほんのわずかの期間であり、生産終了までの7年間は「トヨタ・AA型乗用車(トヨタ・AA型)」として販売されている。

開発の経緯[編集]

1930年代日本列強の一つといえど、欧米各国と比し経済力等で劣っており、そのため一般大衆層の自動車普及率は著しく低く、乗用車の最大のユーザー層はタクシーハイヤー業者であった。そして、この時代比較的廉価で、かつ実用上の耐久性が高い排気量3,000ccから4,000ccクラスのアメリカ製大衆車が広く用いられていた。その中でも多数を占めるのは、フォードシボレーゼネラル・モーターズ)の2大ブランドで、両社は1920年代中後半に日本に進出し国内でノックダウン生産を行い(「日本フォード(横浜フォード)・「日本GM大阪シボレー)」、日本市場に深く浸透していた。

当時、最大の需要があったこのカテゴリーに参入することがトヨタ及びAA型の目的であった。これは同時に、4~5t積みトラック(1935年から製造開始した「G1型トラック」と1936年登場の改良型「GA型トラック」)とエンジンその他を共用し、乗用車・トラック双方の製造コスト低減を図る見地からの施策でもあった。

当時の一般大衆の所得に比して天文学的に高価な自動車(高級車)であったにも関わらず、フォードやシボレーと同クラスという意味で「大衆車」を名乗っている。なお、エンジンをはじめとして全般に当時のアメリカ車に多くを負った設計のためか、既に日本でメートル法が施行された後にもかかわらず、インチ規格で設計されている。

基本構成[編集]

AA型復元車
AA型復元車
  • 全長×全幅×全高  4,785×1,730×1,736mm     
  • 総重量       約1,500kg
  • フレーム      梯子型フレーム(低床式)
  • サスペンション   前後とも固定軸 縦置き式半楕円リーフスプリング
  • ステアリング    ウォーム・アンド・セクター式
  • ブレーキ      4輪油圧式ドラムブレーキ(サーボ付)
  • エンジン形式    「A型直列6気筒 OHV
  • 排気量       3,389cc
  • ボア×ストローク  84mm×102mm 圧縮比5.4
  • 出力(グロス)   65hp/3,000rpm
  • 最大トルク     19.4kg-m/1,800rpm
  • 変速機       前進3段・後進1段(2速と3速はシンクロメッシュ) フロアシフト
  • 定員        5名
  • 最高速度      約100km/h~110km/h(推定)
  • 価格        3,6851937年

シャーシ構成[編集]

前車軸上に置かれた直列6気筒エンジンで、トルクチューブ・プロペラシャフトを介して後輪を駆動する。全体的に、当時としては平凡で堅実な構成。

最大の特徴は、クライスラー社が当時エアフローほかに採用したばかりのアンダーステア形重量配分を応用したことである。エンジンを前車軸上に配置、前後の重量配分を50:50ないしやや前車軸寄りとし、ボンネットを短縮して車室面積を広げながら操縦安定性をも高める手法で、その後世界各国のメーカーがこぞって採用したが、日本ではこのAA型が最初であった。

当時、1934年型シボレーがデュボネ式前輪独立懸架を採用して「ニー・アクション」の名で大々的に売り出したが、耐久性欠如が露呈し、固定軸に戻された事件があった。この一件から、悪路の多い日本では独立式への不信感が強くなっていた。

AA型は前後軸とも縦置きリーフスプリングで吊った固定車軸を用いている。当時のクライスラーも前輪固定軸であるが乗り心地は良いと評されており、これに倣ったともされる。

また、クライスラーは1925年に量産車としては初の油圧ブレーキ(ロッキード社製)を導入し、1928年には自社の大衆車プリムスにもこれを採用して、作動の確実性・強力さから高い評価を得ていた。AA型もこれに倣って油圧ブレーキ装備としたもので、フォードやシボレーが1930年代中期に至っても旧式な機械式ブレーキを用いていたのに比し、著しく先進的であった。

エンジン[編集]

搭載されたA型エンジンは、直列6気筒3ベアリングのオーバーヘッドバルブ型である。全体にGM社の1933年型シボレー用6気筒をほぼコピーし、ヘッド回りに1934年型シボレーやディーゼルエンジンの技術も加味して豊田自動織機の技術者・菅隆俊(かん たかとし)が改良を加えた「菅式ヘッド」を装備する。基本がアメリカ製エンジンのコピーのため、寸法はインチ規格であった。

完全オリジナルのエンジンを開発するのは困難なため、設計はアメリカ車エンジンをほぼコピーすることになり、選択対象は自然、市場占有率の高いフォードの「V8」(1932年発表 通称「アーリーV8」)か、シボレーの通称「ストーブボルト・シックス」6気筒(1928年発表)のいずれかとなった。どちらも本国では幾度もの改良を受けながら、1950年代中期まで長く生産された傑作エンジンである。

当時アメリカの大衆車市場では、シボレーに代表される直列6気筒車と、フォードのV型8気筒車が覇を競っていた。フォードはアメリカ本国で製造終了した旧式な「B型」4気筒エンジンも日本市場向けには廉価版として1935年まで生産していたが、豊田自動織機では自社エンジン生産に際し、将来性のある多気筒型を選択した。

性能を比較すると、絶対的な出力では高回転型のフォードV8に一日の長があったものの、V8は部品点数が多く、製造に特殊な自動工作機械が必要という問題もあって、シンプルで製造しやすい直6を選んだものと言われる。またフォードやクライスラーなどが旧式なサイドバルブだったのに対し、シボレーは先進的なオーバーヘッドバルブであった。

織機製造の経験から、豊田自動織機は鋳造技術のノウハウをある程度持っていた。しかし、自動車用エンジン鋳造の実現には著しい苦心を重ねたという。試作完成当初は出力が50hpに達せず、これもまた苦労の末に65hpに到達した。

以後量産化に移ってからも絶えず改良が加えられたものの、トヨタA型とその後継形式のB型(1941年から生産。クランクシャフトを4ベアリング化した)の両6気筒エンジンにおける多くの改良部位は、戦前に日本に輸入された1939年型までのシボレーの設計改良を、適宜後追いで取捨選択し、コピーする形で取り入れたものであった。

変速機[編集]

3段式変速機の2・3速に、変速を容易にするシンクロメッシュ機構を採用した。アメリカで発明されたばかりの新技術で、日本車としては最初の採用である。当時はエンジンの回転数が低い(アイドリング状態で300rpm程度)ため、シンクロメッシュ・ギアとの組み合わせで変速は相当に容易となった。

ボディ[編集]

AA型復元車の車内

全鋼製の4ドア流線型。後席ドア後にも窓を設けた6ライト型ファストバックセダン。これもまたクライスラーの流れを汲んだものである。

流線型デザイン[編集]

AA型開発に際して、豊田喜一郎はアメリカ車のような頻繁な変更を必要としないデザインを求めた。このため、当時の最先端である流線型デザインが導入されることになる。

1930年代頭、ドイツで研究の進んでいた流線型自動車の発想がアメリカにも移入され、クライスラーは1933年にいち早く、クライスラーとデソートに大胆な流線型を取り入れた市販モデルを登場させた。これはエアフローと呼ばれ、シャーシの重量配分や、後世に言う「スケルトン構造」の採用など斬新な設計であったが、当時の人々にとってはその極端な流線型デザインは異様極まりなく、商業的には大失敗に終わった。アメリカで流線型自動車が本格的に普及するのは、より大衆に理解しやすいデザインを持つリンカーン・ゼファー(1935年、フォード社製)の登場以降である。

試作車A1型ではエアフローの曲面デザインをやや穏健にした形状を採った。例えば、ヘッドライトはエアフローは現代の車のようにグリルにビルトインされた構造であったが、A1型では当時一般的な外付け式ヘッドライトに手直しされている。しかしこれもまだ不評で、AA型では更に直線基調を採り入れアクを抑えている。それでも1936年時点の日本では十分に斬新であり、結局このデザインは戦時中の改良型であるAC型にも受け継がれた。

全鋼製ボディ[編集]

1920年代までのアメリカ車の車体は、木骨鋼板張り構造、または木製の骨組みに布を張って防水塗装した「ウェイマン式ボディ」が主流を占めていた。しかしこれらは事故時の耐久性や長期使用時の劣化等に問題があった。全鋼鉄製ボディは耐久性に優れるが、生産性やコストの面から採用に踏み切るメーカーはなかった。クライスラー社は車体メーカーのバッド社の協力を得てこれを克服、全鋼鉄製ボディのいち早い採用で、安全性をアピールした。

AA型にも全鋼製ボディが採り入れられたが、これも日本で最も早い時期の採用である。ただし、アメリカのように高精度の大型プレス機を用いて大量生産を図るほどの規模ではなかったため、プレス部材の採用はごく一部に限られ、多くの部品は工員の手叩きで成型された。これは、当時は熟練工の賃金が安かったことも一因である。

ドアはいわゆる「観音開き」で、前ドアは前ヒンジ、後ドアは後ヒンジだが、前後ドアは完全な対称デザインである。つまり右前ドアと左後ドア、左前ドアと右後ドアが同じプレス型から作られており、プレス型の種類を節約していた。

車室内はかなり広かったが、後部座席の居住性を優先したため、運転席は前方寄り固定でやや窮屈であったという。

バリエーション[編集]

AB型(ABR型)[編集]

AB型(ABR型)(トヨタ博物館蔵)
ABR型(再塗装車、日本自動車博物館蔵)

AB型は1936年、AA型と同時に登場した4ドアフェートン(いわゆるオープンモデル)。基本的な性能はAA型に準ずるが、折り畳み式の幌と可倒式ウインドシールドを持ち、ボンネット部分の細かなデザインもAA型とは異なる。

価格はAA型より200円高い3,885円(1937年)だったが、日中戦争勃発のため民間にはほとんど販売されず、多くはカーキ色に塗装され帝国陸軍に納入されている(この陸軍仕様をABR型と称す)。

なお、陸軍航空部隊の活躍を描いた1939年の映画燃ゆる大空』に、各トラック・始動車・給油車・サイドカー(側車)と共にABR型が出演しており、劇中では将校の送迎等に用いられている。

1945年までに353台が製造されたと言われる。

AC型[編集]

AC型(トヨタ博物館蔵)

AC型は太平洋戦争中の1943年、AA型の改良型として開発された。

戦時型モデルらしく、クロームメッキの廃止やウインドシールドの2分割化など資材・工作の削減が図られ、地味な外観となった。一方エンジンは排気量をそのままに、出力を75hp/3,000rpm、最大トルクも21.6kg-m/1,600rpmに増強、またトルクチューブ・ドライブを廃して、簡略なオープン・プロペラシャフトのオチキスドライブとなった。

時代は太平洋戦争中後期のため民間への販売は行われておらず、1944年までに製造された65台はAB型(ABR型)同様ほとんどが帝国陸軍に納入されたと言われる。

なお戦後の1947年、外国貿易代表団の専用車として、ストックされていたパーツを用いて50台が製造された。これは戦後最初に作られた日本製乗用車である。従って、AC型の合計製造台数は115台となる。

AA型についてのまとめ[編集]

AA型(ローマン博物館蔵)

AA型は1936年当時では相当な意欲作であったが、当時のトヨタの技術水準はまだ十分なものではなく、品質や価格競争力においては当時の日本製アメリカ車(ノックダウン生産)に及ばなかったと言われる。シボレーコピーのエンジンをシボレーとフォードの折衷的シャーシに搭載、クライスラー風のボディを与えたというその成り立ちは、アメリカ製量産車の体裁を格段に小さな規模で模倣せねばならなかった技術的限界を如実に現した産物とも言えた。販路も限られ、トヨタ関係企業や官公庁、帝国陸軍などが主たるユーザーであった。

輸出については、また本格的な海外輸出以前の存在で、満州国など日本の勢力圏で少数が使用されたにとどまる。

元々製造台数が少なかったこともあり、戦争による被災や戦中戦後の酷使の結果、AA・AB(ABR)・AC型の各車は1950年代までにほぼすべて喪失されたものと見られている。豊田喜一郎をはじめとする1950年代前半のトヨタ関係者を撮影した写真に、AA型もしくはAC型と思われる大型乗用車が背景として写り混んでいた事例から、昭和30年代まではトヨタ自動車所有である程度の残存車があったものと思われるが、以後の消息はつまびらかでない。

AB型(ABR型)については、トヨタ博物館日本自動車博物館所蔵の2台の現存が確認されている。

最近になり、戦後満州方面において戦利品としてソビエト連邦に接収され、ウラジオストックからシベリアの農夫の手に渡ったAA型と思われる自動車が現存し、オランダのローマン博物館英語版が入手している事がわかった[1]。左ハンドル化やワイパー、ラジエターグリル、トランク等、改造個所は多くみられるが、リブやフェンダー、ドア、窓ガラスの特徴はAA型と一致しており、後にこの自動車はトヨタ博物館の調査によりAA型であることが確認された。

AA型復元車[編集]

AA型復元車(トヨタ博物館蔵)

1980年代に至りトヨタ自動車は自社のルーツであるAA型の行方を捜したものの、ついに残存車を発見することはできなかった。

そこでトヨタでは、AA型を自社で一から復元製作することを決定した。系列の特殊車両製作会社であるトヨタテクノクラフトが実際の作業に当たったが、残存資料が限られており、当時かろうじて生存していたAA型開発当時の関係者からも証言を得て、内張生地の色合いに至るまで、開発時の仕様に極力忠実な復元が進められた。

戦後世代にはなじみのないインチ規格の設計で、その換算だけでも困難であったという。また一部に排気管などの図面通りの寸法では組み立てることができない、あるいは図面に書かれていない部品もあり、開発・生産当事者に聞き取りを行ったところ「そこは現物合わせで調節して組み付けていた」という拍子抜けするような真相がわかった部位もあった。

この復元AA型は1986年に完成した。監修に当たった自動車評論家・五十嵐平達は、復元車を運転して「昔のトヨタはシボレー(GM製大衆車)のようだったが、これはダッジ(クライスラー製中級車)だ」と評し、復元車の性能水準がオリジナルより上がっていることを示唆したという。あくまで原型に忠実に製造したつもりだったが、技術の進歩の結果、戦前より材質の水準や加工精度が上がってしまったのが「予期せざる性能向上」の原因だったらしい。

以後この経験のもと、G1型トラックをはじめとする主な戦前型トヨタ車各車についても復元車が製造され、トヨタ産業技術記念館に収蔵されているが、トヨタ博物館所蔵のAB型は1974年に法政大学自動車部よりトヨタ自動車に寄贈された車両をレストアしたものであり[2]、復元車ではない。

この経験から、トヨタは自社の歴史にクラシックカーのモチーフを得、その後1996年にはハイラックスをベースに、AA型をモチーフにしたトヨタ・クラシックが限定発売される事になる。

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]