トマス・ウルジー

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トマス・ウルジー

トマス・ウルジー: Thomas Wolsey, 1475年 - 1530年11月28日または29日)は、イングランドの聖職者、政治家。ウルジー枢機卿( –すうきけい、英: Cardinal Wolsey)の名で知られる。ヘンリー8世治世の初期に信任を得て内政・外交に辣腕を振るった。なお Wolsey の原語での発音はウォーズィーに近い。

生涯[編集]

イングランド東部イプスウィッチに生まれた。父親は肉屋をしていたという説もあるが確かではない。オックスフォード大学のモードリン・カレッジで学び、ヘンリー7世の時代に宮廷付司祭となり、ヘンリー8世に認められ、36歳の若さで枢密院議員となった。1514年ヨーク大司教英語版1515年枢機卿1518年に教皇特使となる。

1515年から、リチャード・フォックス英語版の後任としてヘンリー8世治下の大法官となり、野心的外交政策、国内では独裁的な政策を断行。当時彼が執務した、ヨーク大司教ロンドン公邸には、常時500人の使用人がいたといわれる。さらに、ロンドン西部ハンプトンに建てた彼個人の館は、今もハンプトン・コート宮殿として残る。財力と権力で名をとどろかす彼のもとには、多くの貴族・高官がご機嫌伺いに殺到したという。

その一方で、貧しい平民対象に無料の法律相談、あらゆる相談陳情に応じたといわれ、これら平民を相手とするロンドンの法律屋たちは、商売にならなかったという逸話がある。この時期、後にヘンリー8世統治下のイングランド政治を支えたトマス・クロムウェルを抜擢した。

しかし、王と王妃キャサリン・オブ・アラゴンの離婚問題に対するローマ教皇の拒否返答により、王の激怒を受け、その絶大な信頼にかげりが出てきたのを見て取った彼は、1525年、惜しげもなく巨大なハンプトンの館を王に献上。王は既にアン・ブーリンと同棲を始めており、1527年の教皇クレメンス7世への最終的な陳情も失敗した。1529年、教皇特使カンペジオ枢機卿を迎えての離婚審問も不首尾のまま終わった。

王の離婚が遅々として進まないのに業を煮やしていたのはアン・ブーリンも同じで、彼女はウルジーが悪意で妨害していると思いこみ、彼を「私腹を肥やしている」と裁判所に告発した。1529年11月3日、彼は大法官を罷免され、追い打ちをかけるように、全ての官位剥奪、全財産の没収の命令が下った。なかには、彼個人の所有でない、ヨーク大司教ロンドン公邸も含まれており、その過酷さに批判の声が一部に上がったほどだった。(後にこの公邸はホワイトホール宮殿となる。)

ヘンリー8世の、重臣に対する断罪がほとんど死罪であったなかにあって、彼は死罪を逃れ、さらに大赦で、ヨーク大司教の地位だけは認められ、1530年、ヨーク南部のケイウッドに引退した。さらに、シェフィールド南のスクルービー城へ引きこもった。ところが、一旦は大赦としたウルジーを、王は再び反逆の理由で逮捕した。ロンドンへ護送される途中、レスター・アベイで病死した。

参考文献[編集]

  • 森護 『英国王室史話』 大修館書店