テッサロニキ

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テッサロニキ

  • ギリシャ第二の都市、中央マケドニア地方の首府。ギリシャの北部にある。この項目で記述。
  • 上記テッサロニキ市を県都とするギリシャ共和国の県。

テッサロニキ
ギリシャの旗
Θεσσαλονίκη
テッサロニキ市街
位置
テッサロニキの位置の位置図
テッサロニキの位置
座標: 40°38′N, 22°57′E
歴史
{{{成立区分1}}} {{{成立日1}}}
{{{成立区分2}}} {{{成立日2}}}
旧名 {{{旧名}}}
創設者 {{{創設者}}}
行政
ギリシャ
 地方 中央マケドニア
  テッサロニキ県
テッサロニキ
ギリシャの旗
Θεσσαλονίκη
地理
面積  
  市域 17.8 km²
    陸上
    水面   {{{水面面積(平方キロ)}}} km²
      水面面積比率
  市街地
  都市圏
標高 20 m
人口動態
人口 (2001年現在)
  市域 363,987 人
    人口密度   20,449 人/km²
  市街地
    市街地人口密度
  都市圏 1,057,825 人
    都市圏人口密度   9,787km²
  備考
その他
等時帯 EETUTC+2
  夏時間 EEST (UTC+3
{{{郵便番号の区分}}} {{{郵便番号}}}
市外局番 {{{市外局番}}}
ナンバープレート {{{ナンバープレート}}}
ISO 3166-2 {{{ISOコード}}}
公式ウェブサイト: [1]
テッサロニキのアギア・ソフィア聖堂。貴重なイコンや壁画が多く残されている。ギリシャ正教会。
テッサロニキのアギア・ソフィア聖堂。貴重なイコンや壁画が多く残されている。ギリシャ正教会

テッサロニキΘεσσαλονίκη、ラテン文字転写:Thessaloniki)はギリシャの第二の都市。中央マケドニア地方の首府である。古代においてはテサロニケと呼ばれ日本語でも表記されることが多い。またテサロニカ(Thessalonica)、サロニカ(Salonica)とも呼ばれる。人口は363,987人、郊外まで含む大都市圏では809,457人である。

目次

[編集] 概要

東ローマ帝国時代の教会や城壁が多数残されており、アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街だと言われている。アトス山の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。

[編集] 歴史

テッサロニキは紀元前315年前後にマケドニアアレクサンドロス大王によって創建。アレクサンドロスの王統より王位を奪ったカッサンドロスは王妃テッサロニカ(アレクサンドロスの腹違いの姉妹)の名を取りテッサロニケーと名付けた。紀元前168年にマケドニア王国が滅びてから、共和制ローマ領の都市となる。ローマとビザンチウム(後のローマ帝国の首都コンスタンティノポリス、現在のイスタンブル)を結ぶエグナティア街道沿いの重要拠点となり、東西交易の場所として栄えた。ローマが東西に分割されたあとは、東ローマ帝国の権力下に置かれ、コンスタンティノポリスに次ぐ、帝国第二の都市として栄え、多くの教会が建設された。テッサロニキの人々は聖像破壊運動の時代にもイコンを隠して守ったため、他の旧東ローマ帝国領内では失われてしまった聖像破壊運動以前の貴重なイコンやモザイク画が数多く残っている。

1430年オスマン帝国によって占領され、以後オスマン帝国の都市となる。トルコ人からはセラーニク(Selânik)と、また近在のスラヴ人からはソルン(Солун, Solun)と呼ばれた。この期間、イスラム教徒とユダヤ教徒の人口が増え、社会基盤が整備されていった。バルカン半島の中心都市として、東西貿易の拠点としてオスマン帝国でも最も重要な都市の一つとなっていた。1888年に鉄道が敷設され、1896年から1904年の間には港湾が整備された。現代トルコ建国の父ケマル・アタテュルク1881年にこの町で生まれた。青年トルコ人革命はここが本部となっていた。

1912年バルカン戦争でギリシャ軍がテッサロニキに攻め込み、オスマン帝国領から奪還した。1913年にギリシャの国王ゲオルギオス1世がテッサロニキ訪問中に暗殺されるという事件が起こった。1915年には第一次世界大戦の最中、連合国軍がテッサロニキに集結し、ドイツ・ブルガリア連合軍と対峙した。ギリシャの当時の首相エレフテリオス・ヴェニゼロスは当時の国王の反対を押し切りここに臨時政府を建てた。1917年8月17日の大火災で町のほとんどが消失し、エレフテリオス・ヴェニゼロス首相の命でフランス人設計による都市計画による欧州的な近代都市が建設された。その後希土戦争が勃発し、小アジア地方からの多くの難民を受け入れた。

第二次世界大戦時には、1941年4月から1944年10月までナチス・ドイツの支配下に入り、連合国軍側からの空爆で町は被害を受けた。

1978年6月20日マグニチュード6.5の大地震に見舞われた。 1988年には町のビザンティン様式の建築群が、ユネスコ世界遺産に登録された(テッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群)。

[編集] 交通

[編集] 姉妹都市

[編集] スポーツ

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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