テオドール・デーラー

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テオドール・デーラー
Theodor Döhler
Sophus Williams作
基本情報
生誕 1814年4月20日
イタリアの旗 イタリア ナポリ
死没 (1856-02-21) 1856年2月21日(41歳没)
イタリアの旗 イタリア フィレンツェ
ジャンル クラシック
職業 ピアニスト作曲家

テオドール・デーラー(Theodor Döhler, 1814年4月20日 - 1856年2月21日)は、ドイツピアニスト作曲家

ジュリアス・ベネディクトカール・チェルニージーモン・ゼヒターに師事し、ロマン派ヴィルトゥオーゾピアニストとして名をはせた[1]

生涯[編集]

デーラーはナポリで生まれた。彼の父(1843年ルッカで没)がそこに住み、カペルマイスターを務めていたからである。神童であったデーラーはこの地で指揮者のジュリアス・ベネディクトから最初の音楽教育を受けた。デーラーがナポリで公開演奏会をするようになったのは13歳の時である。

1827年、デーラーは父がルッカで働くことになったため、共にそこへ移り住んだ。1829年から1834年にはウィーンに居を構え、チェルニーの下でピアノを学び、同時期にジーモン・ゼヒターから作曲の指導を受けていた。次に彼の足取りが分かるのは1838年リストがウィーンに、タールベルクが再びパリにいた時である[2]1832年に、デーラーはルッカ公国の援助を受けることができるようになった。1834年から1845年にはコンサートピアニストとしてヨーロッパを旅して周り、イタリアフランスオランダデンマークポーランド、ロシアで演奏を行った。彼はピアニストとして非常に成功し、人気を博したヴィルトゥオーゾであったと考えられている[3]

1846年、デーラーを援助していたルッカ公国が彼に男爵の地位を与えた。貴族の一員となったデーラーは、その年にロシアの王女であるエリーゼ・シェレメテフ(Elise Sheremeteff)婦人と結婚することができた。これにともなって、デーラーは公開演奏から引退してしばらくの間モスクワに落ち着く。1848年にはナポリへと戻り、そこでピアノ小品やオペラ「Tancreda」を作曲した。このオペラが初演されたのは、1856年フィレンツェでの彼の死から24年後の、1880年のことであった。

主要作品[編集]

  • ノクターン Op. 24
  • ノクターン第1番 ハ長調 Op. 25
  • タランテラ Op. 39
  • ピアノ左手のためのアンダンテ第33番 Op. 42
  • 歌詞のないロマンス

出典[編集]

  1. ^ Henri Bertini (1798-1876) & Theodore Dohler (1814-1856), by Jeffrey Kallberg, 1993. Routledge. ISBN 978-0-8153-0855-3
  2. ^ Gooley, Dana Andrew (2004). The Virtuoso Liszt (New Perspectives in Music History and Criticism). Cambridge University Press. pp. 57. ISBN 0-521-83443-0. https://books.google.cz/books?id=koSQAjlxeOIC&pg=PA57&dq=Theodor+D%C3%B6hler+virtuoso&hl=cs&ei=j5jaTsP0D8rS4QSA1IGaBw&sa=X&oi=book_result&ct=book-preview-link&resnum=1&ved=0CDQQuwUwAA#v=onepage&q&f=false 
  3. ^ Brofeldt. “Theodor Döhler - Austrian pianist and composer”. Left Hand Brofeldt.dk. 2011年12月3日閲覧。

外部リンク[編集]