テオドール・ディスターベルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ドイツ国家人民党党首アルフレート・フーゲンベルク(手前)と鉄兜団団長テオドール・ディスターベルク(奥)。1932年3月ベルリン

テオドール・ディスターベルク(Theodor Duesterberg、1875年10月19日1950年11月4日)は、ヴァイマール共和国期のドイツの保守・右派政治家。退役軍人を中心とした準軍事組織「鉄兜団」の団長をつとめた。

略歴[編集]

軍医の息子としてダルムシュタットに生まれる。1893年にプロイセン王国陸軍に入隊。1900年には東アジア探検団に参加して義和団の乱で揺れる大清帝国を訪れた。1914年に開戦した第一次世界大戦の際にはプロイセン王国陸軍省に勤務していた。大戦中に中佐まで昇進する。ディスターベルクはドイツにとって不当なヴェルサイユ条約に激しい怒りを感じて陸軍内で抗議活動を行った。

戦後は警察官に転職し、1919年には保守的なブルジョア政党ドイツ国家人民党(Deutschnationale Volkspartei, DNVP)に入党した。しかし意見の相違があり、1923年に同党を去り、ヴァイマール憲法と共和政体に不満を感じる保守的な退役軍人で組織された鉄兜団、前線兵士同盟en:Stahlhelm, Bund der Frontsoldaten、以下鉄兜団)に参加し、フランツ・ゼルテen:Franz Seldte)とともに同組織を代表する人物となった。デュスターベルクの指導のもと、鉄兜団はドイツ最大の義勇軍(フライコール)となった。1929年には国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)や他の保守・右翼勢力とも連携してヤング案に反対する大抗議運動を起こした。さらに1931年にはナチス党や国家人民党、その他の保守・右翼勢力とともに「ハルツブルク戦線」を組織してハインリヒ・ブリューニング首相とヴァイマール共和制への批判運動を行うようになった。しかしナチス党首アドルフ・ヒトラーはナチス党が巨大な保守・右翼連合体の一下部組織にされることを好まず、距離を取ろうとするようになった。また伝統的なプロイセン退役軍人が多かった鉄兜団の方でもナチス党の過剰な反ユダヤ主義思想や社会主義に近い経済思想(集産主義大きな政府)に対しては嫌悪感を示すようになっていった(鉄兜団は、ゲルマン民族・アーリア人種のみを受益対象として限定させているとはいえ社会主義的傾向の強いナチス党左派グレゴール・シュトラッサーを特に嫌悪していた)。そのためナチスとの同盟関係はすぐに溶解した。その後、ディスターベルクと鉄兜団は国家人民党とのみ同盟関係を維持した。

1932年には鉄兜団と国家人民党の代表としてドイツ大統領選挙に出馬した。この大統領選挙には他にも現役大統領のパウル・フォン・ヒンデンブルク、ナチス党のヒトラー、ドイツ共産党エルンスト・テールマンらが出馬した。しかし保守派の票はほとんどヒンデンブルクかヒトラーへ流れ、ディスターベルクは得票率6.8%の泡沫候補におわり、第一次選挙で早々に落選した。一方のヒトラーはこの選挙で30.12%の得票率を得ている。

1933年にヒトラー内閣が誕生するとヒトラーはディスターベルクに入閣を求めたが、ディスターベルクはこれを拒否した。代わりに同じ鉄兜団の幹部フランツ・ゼルテが労働相、国家人民党党首のアルフレート・フーゲンベルクが経済相・食糧相としてヒトラー内閣に入閣している。ディスターベルクは同年のうちに鉄兜団の代表の地位を辞した。1934年の長いナイフの夜事件の際に逮捕され、しばらくの間ダッハウ強制収容所で拘禁された。間もなく釈放されたが、ドイツ社会からその存在を忘れ去られ、失意の状態が続いた。1943年頃からは反ナチ主義者カール・ゲルデラーと接近したが、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件への関与は拒否した。

第二次世界大戦にドイツが敗戦した後の1949年には「Der Stahlhelm und Hitler」(鉄兜団とヒトラー)を著した。この中で鉄兜団の運動はヒトラーやナチスとは無縁のものと定義した。1950年にニーダーザクセン州ハーメルンにおいて死去。