ティプー・スルタン

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ティプー・スルタン

ティプー・スルタン英語:Tipu Sultan, 1749年あるいは1753年 - 1799年5月4日)は、南インドマイソール王国の王(在位1782年 - 1799年)。18世紀イギリスインドを侵略する中、反英闘争にその一生を費やし、「マイソールの虎(Tiger of Mysore)」と畏怖された。

目次

生涯 [編集]

即位以前とその活躍 [編集]

ハイダル・アリー
ティプー・スルタン

1749年または1753年(あるいはその間)、マイソール王国ムスリム軍人ハイダル・アリーの息子として生まれた。

1760年、父ハイダル・アリーは、主家でありヒンドゥー王家のウォディヤール家の王を廃し、新たにムスリム王朝をマイソール王国に樹立した。

当時18世紀後半、ベンガル周辺には、イギリスの勢力が確立されており、インド全土の植民地化を図り、デカン南インドにも手を伸ばすようになってきた。

ハイダル・アリーはマイソールの実権を握ると、周囲への領土拡大や積極的な近代化政策を取って、イギリスへの対抗姿勢を示すことになっていった。

第1次マイソール戦争、第2次マイソール戦争が勃発すると、ティプー・スルタンは父の片腕として、イギリス軍に対し数々の勝利を収めるなど、その活躍は目覚ましくその武勇から「マイソールの虎」とも呼ばれ、その名をとどろかせた。

第2次マイソール戦争中、1782年12月6日にハイダル・アリーは死亡し、その息子であるティプー・スルタンが新たな王(在位1782 - 1799)となった。

ティプー・スルタンもまた父同様に有能な君主であり、第2次マイソール戦争をイギリス相手に有利に戦い、1784年3月11日マンガロール条約を結んで戦争を終わらせた。

ティプー・スルタンの統治 [編集]

ティプー・スルタン
ティプー・スルタンの使節団と面会するルイ16世1788年
ティプー・スルタンの時代に鋳造された貨幣

新王ティプー・スルタンは父同様に広い国際視野を持ち、イギリスと対立していたフランスはもとより、トルコオスマン帝国アフガニスタンドゥッラーニー朝アラビア半島オマーンなどに使者を送り、イギリスに対しての同盟を持ちかけた。

また、フランスをもとに軍の近代化、行政機構の中央集権化を進め、土地制度や司法制度、幣制の改革を行い、新たに併合したカルナータカ地方の領土の統治に力を入れ、マイソール王国の国力の向上を目指した。

土地制度では、ティプー・スルタンはジャーギールを与える慣行を廃止し、父同様にザミーンダールなどによる直説徴税を廃し、国家の税収を上げようとした。しかし、耕作民に課した地租は同時代のムガル帝国マラーター同盟などと変わらず、その額は生産物の3分の1に及んだが、ザミーンダールの不法な付加税の徴収はなくなった。

軍政面では、ティプー・スルタンは当時のインドでは最高水準の軍を保持していたとされ、ムガル帝国やマラーター同盟の軍では無規律が横行していたが、マイソール王国の軍はきちんと統制がとれ、ヒンドゥー、ムスリムともに彼に忠実だった。

個人的には、ほかの堕落した支配者とは違って、贅沢な生活を嫌い、極めて質素な生活をしており、彼自身はこう言い残している。

として一生を送るよりも、ライオンとして1日を生きるほうがまし。

しかし、1785年以降、デカンのマラーター同盟やニザーム王国と再び争うようになり(前戦争ではこれらは中立を保っていた)、イギリスも南インドの植民地計画を進めるようになり、マイソール王国の領土分割をねらう勢力はイギリスに加担した。

第3次マイソール戦争 [編集]

シュリーランガパッタナ攻防戦(1792年)

1790年初頭、イギリスは、1789年12月にティプー・スルタンがケーララ地方を侵略したことを口実に宣戦し、マラーター同盟、ニザーム王国、トラヴァンコール王国はイギリスに加担した。

一方、フランスは前年のフランス革命により兵を出せず、オスマン帝国はロシアとの戦争によりイギリスと結んでおり、マイソール王国は不利を強いられた。

チャールズ・コーンウォリスが二人の息子をあずかろうとしている。

さらに、1792年2月5日から3月18日にかけて、マイソール王国はイギリス、マラーター同盟、ニザーム王国の軍にシュリーランガパッタナを包囲され、マイソール王国軍は一連の戦いで20000人の死者を出した。

そして、同月19日ティプー・スルタンは敗北を認め、シュリーランガパッタナ条約を結び、トラヴァンコール王国、コーチン王国などを除くケーララ地方全域をはじめとするマイール王国の約半分の領土と、多額の賠償金の支払いを約束し、その保証に二人の息子を差し出さなければならなかった。

第4次マイソール戦争と死 [編集]

ティプー・スルタン
ティプー・スルタンの治世のコイン

この戦争によりマイソール王国は莫大な損害を被ったが、ティプー・スルタンはそれでも諦めず、国内の近代化を続けると共に、マラーター同盟などに対英同盟を呼びかけるが、イギリスの巧みな利益供与・分断外交とイギリスより、マイソールを警戒する他の支配者達の猜疑心に阻まれ、その効果は上がらなかった。

ティプー・スルタンは、フランス革命で実権を握ったジャコバン派に注目し、ジャコバン・クラブのメンバーにもなり、ジャコバン派も彼にとても関心を示し、多大な関心を持ったものの、革命の混乱もあり、実質的な援助には結びつかなかった。

1794年7月にジャコバン派がテルミドールのクーデターで瓦解したのち、ナポレオンが台頭すると、ティプー・スルタンは彼と結ぼうとした。

シュリーランガパッタナ攻防戦(1799年)

だが、イギリスはこれを条約違反とし、1799年3月8日に第4次マイソール戦争が勃発した。

マイソール王国は交戦したものの、イギリス軍に敗北し続け、同年4月5日イギリスとニザーム王国の軍50,000により、首都シュリーランガパッタナを包囲された(シュリーランガパッタナ攻防戦)。

包囲する以前、イギリスはティプー・スルタンに降伏を迫ったが、彼の答えはこうだった。

年金受給者のラージャナワーブの名簿に名を連ねて、不信心者のお情けで惨めに生きるよりも、軍人として死んだほうがましである。

ティプー・スルタンの最期

つまり、イギリスのもとにおいて、完全に従属する藩王国の藩王として生きる道は、彼にとってはあり得ないということであった。

ティプー・スルタン率いるマイソール王国軍30,000は、1ヵ月にわたり交戦したものの、5月4日の総攻撃でティプー・スルタンは壮絶な戦死を遂げ、シュリーランガパッタナは陥落、占領された。

ティプー・スルタンの死

ティプー・スルタンとシュリーランガパッタナ攻防戦で運命を共にしたものは、軍人だけで6,000人に及び、のちにティプー・スルタンとその主な武将の墓が、シュリーランガパッタナの宮殿に作られた。

これにより、30年以上にわたるマイソール戦争は終結し、イギリスの南インドにおける覇権が決まり、インドの植民地化がまた一段と進む結果となった(とはいえ、ティプー・スルタンの戦死後、同年にはカッタボンマンタミル地方で反乱を起こしている。)

また、マイソール王国が制圧されたことにより、19世紀イギリスは内紛の多かったマラーター同盟に介入し、第2次、第3次マラーター戦争へとつながっていった。

人物・評価 [編集]

「ティプー・スルタンの死体発見」。この題名で絵が何枚も描かれるほど、彼の死の影響は大きかった。
ティプー・スルタンの遺体が見つかった場所
ティプー・スルタンの墓(シュリーランガパッタナ)

ティプー・スルタンは、当時のインドにあってほぼ唯一イギリスに正面から戦いを挑んで、一定の成果を収めた人物であった。

また、ティプー・スルタンは、多数の言語に堪能な教養豊かな人物でもあり、イギリスに対抗するため、世界の各国と使者を交わすなど、当時のインドの支配者とは違った視野を持っていた、稀有な人物だったと言える。

ティプー・スルタンは、イギリスにとっては最大の敵と言っても過言ではなく、そのため、イギリス人は彼の死を歓喜し、同時にこれ以降、イギリスのインド植民地化は加速度的に進んでいくこととなる。

政戦両面に長じるだけでなく、宗教的にも寛容で、1791年シュンゲーリの寺院がマラーターに略奪されたときは、債権の援助資金を出しているし、首都シュリーランガパッタナのシュリーランガナート寺院など、ヒンドゥー寺院に対しては定期的に貢納を行っていた。

このように、ティプー・スルタンはとても優れた王であったが、それでいて、ムガル帝国の名目的主権は認めており、1788年に帝国の皇帝シャー・アーラム2世が、アフガン系ロヒラ族グラーム・カーディルに盲目にされたとき、彼はその切なさに涙したという。

半世紀余の後のインド大反乱で、勇戦の末に戦死したジャーンシー藩王妃ラクシュミー・バーイーなどと並び、現在のインドでは民族的な英雄として尊敬を集め、彼の終焉の地となったシュリーランガパッタナの宮殿は今でも有名な観光地となっている。

また、ジュール・ベルヌ海底二万里神秘の島に登場するネモ船長のモデルは、ティプー・スルタンと推定され、設定上も「ティッポー・サーヒブ」なるインド大貴族の甥とされている(集英社文庫ベルヌ・シリーズ等より)。

近代ロケット兵器の父 [編集]

ロケット部隊の活躍(第2次マイソール戦争)
ティプー・スルタンの時代に鋳造された大砲

ティプー・スルタンはイギリスに対抗するため、軍の近代化を押し進めたが、そのひとつがロケット砲部隊で、この当時、既にロケット兵器自体は欧州やアジアにも存在したが、紙や、金属を素材としていても簡素なものがほとんどだった。

王子時代から新技術に対する関心の高かったティプー・スルタンは、鍛冶屋と花火職人に命じて、飛翔体を本格的な鋼製とした物を製作させた。射程は3,000m前後であり、この当時のロケット兵器の水準を遥かに凌ぐ物であった。

ロケット自体も強力であったが、ティプー・スルタンの先見の明は、移動を容易にする為、台車に装荷して機動力を与え、更にそれを大規模に運用し、その運用のために5,000人規模のが編成された。

このロケット砲部隊が実戦に導入されたのは、第2次マイソール戦争で、イギリス軍はこのマイソールのロケット砲部隊により大損害を被った(特に騎兵隊に対しては絶大な威力を誇ったとされる)。

シュリーランガパッタナ攻略戦では、後のワーテルローの英雄アーサー・ウェルズリー大佐率いる攻略側・イギリス軍部隊に対して、ロケットの集中射撃を浴びせ、犠牲を強いるとともにパニックを起こさせ、撃退した(ウェルズリー自身は辛くも難を逃れたが、側近数名が戦死している)。

また、ティプー・スルタンは、大砲の量産に励み、砲口に虎の吼口を刻んだ砲を量産したが、実戦では砲兵隊の扱いに慎重過ぎて活用に失敗した

なお、この大砲の一部は、シュリーランガパッタナのほかに、ポルトガル陸軍博物館に保存されている。

家族 [編集]

ティプー・スルタンの息子
降伏する2人の息子
死を悲しむ家族

ティプー・スルタンには、4人の妃、16人の息子、8人の娘がいた。

シュリーランガパッタナ陥落後、彼らはイギリスに保護を受け、ヴェールールの城で年金を受給されて生活したが、1806年7月10日にヴェールールでシパーヒーが蜂起すると、彼らも参加させられた。

反乱鎮圧後、反乱に参加した彼らは捕えられ、ヴェールールからベンガル管区カルカッタへ強制送還され、同地で余生を終えた。

  • ティプー・スルタンの息子たちの一覧
  1. ハイダル・アリー・スルタン(Haidar Ali Sultan, 1771年 - 1815年7月30日)
  2. アブドゥル・ハリク・スルタン(Abdul Khaliq Sultan, 1782年 - 1806年9月12日)
  3. ムヒー・ウッディーン・スルタン(Muhi-ud-din Sultan, 1782年 - 1811年9月30日)
  4. ムイズッディーン・スルタン(Mu'izz-ud-din Sultan, 1783年 - 1818年3月30日)
  5. ミーラージュッディーン・スルタン(Mi'raj-ud-din Sultan, 1784年? - 没年不詳)
  6. ムイーヌッディーン・スルタン(Mu'in-ud-din Sultan, 1784年? - 没年不詳)
  7. ムハンマド・ヤシーン・スルタン(Muhammad Yasin Sultan, 1784年 - 1849年3月15日)
  8. ムハンマド・スブハーン・スルタン(Muhammad Subhan Sultan, 1785年 - 1845年9月27日)
  9. ムハンマド・シュクルッラー・スルタン(Muhammad Shukrullah Sultan, 1785 年 - 1837月9月25日)
  10. サルワールッディーン・スルタン(Sarwar-ud-din Sultan, 1790年 - 1833年10月20日)
  11. ムハンマド・ニザームッディーン・スルタン(Muhammad Nizam-ud-din Sultan, 1791年 - 1791年10月20日)
  12. ムハンマド・ジャマールッディーン・スルタン(Muhammad Jamal-ud-din Sultan ,1795年 - 1842年11月13日)
  13. ムニールッディーン・スルタン(Munir-ud-din Sultan, 1795年 - 1837年12月1日)
  14. グラーム・ムハンマド・スルタン(Ghulam Muhammad Sultan, 1795年3月 - 1872年8月11日)
  15. グラーム・アフマド・スルタン(Ghulam Ahmad Sultan, 1796年 - 1824年4月11日)
  16. 名称不明(生後すぐに死亡)(1797年)

参考文献 [編集]

  • 「新版 世界各国史7 南アジア史」山川出版社 辛島 昇
  • 「世界歴史の旅 南インド」山川出版社 辛島昇・坂田貞二
  • 「近代インドの歴史」山川出版社 ビパン・チャンドラ

関連項目 [編集]