ツール・ド・フランス
2011年大会についてはツール・ド・フランス2011を参照
| 概要 | |
|---|---|
| 開催時期 | 7月上旬~7月下旬(23日間) |
| 開催地域 | |
| 英語名 | Tour de France |
| 地域名 | Le Tour de France(仏) |
| 愛称 | ツール(ル・トゥール) |
| 分野 | ロードレース |
| カテゴリー | (グランツール) |
| 形態 | ステージレース |
| 主催者 | アモリ・スポル・オルガニザシオン (ASO) |
| 責任者 | クリスティアン・プリュドム |
| 歴史 | |
| 初回開催年 | 1903年 |
| 開催回数 | 98回(2011年) |
| 初代優勝者 | |
| 最多優勝者 | |
| 直近優勝者 | |
ツール・ド・フランス(仏: Le Tour de France、以下「ツール」)とは毎年7月にフランスおよび周辺国を舞台にして行われる自転車プロロードレースである。1903年から開催されている。主催は傘下にスポーツ新聞レキップや一般紙ル・パリジャンなどを抱えるフランスの大企業・アモリ・スポル・オルガニザシオン (ASO, Amaury Sport Organisation)。
名称はフランス語で「フランス一周」を意味する。フランス語による同様の名称のレースには、スイスで行われるツール・ド・スイスなどがある。単にル・ツール(Le Tour:ル・トゥール)と称されることもある。
目次 |
[編集] 概要
毎年7月に23日間の日程で行われるステージレースで距離にして3300km前後[1]、高低差2000m以上という起伏に富んだコースを走り抜く。フランス国内でのレースが中心だがイギリス、イタリア、スペイン、ベルギー、モナコなど周辺国が舞台になるステージもある。ステージ数は1993年以降「プロローグ」を含めて全21ステージが定着しているが、それ以前はもっと多いステージ数で争われることもあった。平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ(個人、チーム)と多彩なステージ設定がされているが、山岳の比重が大きくなることの多いジロ・デ・イタリアやブエルタ・ア・エスパーニャに比べて平地ステージと山岳ステージのバランスがとれた構成となっている[2]。
スポンサーの名を冠した9人編成(最低6人)のチームが、20~22チーム参加する。出場する選手の国籍はヨーロッパだけに限らずアメリカやオーストラリア、カザフスタン、コロンビアなど多様である。
総合成績1位の選手には黄色のジャージ「マイヨ・ジョーヌ」が与えられるほかスプリント賞、山岳賞、新人賞といった各賞の対象者も特別なジャージを着用する。
賞金総額は2009年の場合で約320万ユーロ、うち総合優勝者に45万ユーロとなっているほか、各ステージ優勝やスプリント賞・山岳賞などに細かく賞金が設定されている。
[編集] 特徴
例年、前半は平坦基調のステージが続き、スピードマンたちの逃げやスプリンターたちによる迫力あるゴールスプリントが見られる。そして中盤に一度山岳を通過し優勝候補が絞り込まれ、その後はまた平坦ステージが続き、今度はポイント賞争いが絞り込まれる。後半にかけてはラルプ・デュエズ、ガリビエ、モン・ヴァントゥなどの峠を舞台にした山岳ステージで総合優勝や山岳賞をかけたオールラウンダーやクライマーたちの戦いが繰り広げられる。
2度の山岳コースはそれぞれ3日ほど繰り広げられ、それぞれピレネー山脈とアルプス山脈を使うことが多いため、ピレネーラウンド、アルプスラウンドと呼ばれる。間の平坦基調ステージは主にこの二つの山脈の間を移動するために設定されているが、この緩急をつけたレイアウトと平坦ステージの多さ、ポイント賞のシステム(後述)などもあり、スプリンターが一番ポイント賞を獲得しやすいグランツールとなっている。
かつては各ステージのゴールと次のステージのスタートが同じ町だったが、スタート・ゴール地点を希望する市町村が多いため現在は一致しないことが多い。第20ステージ(プロローグが組み込まれる場合は第19ステージ)が個人TTとなり、ここで優勝争いに決着がつき、最終ステージはパリ市街を中心に回るクリテリウム形式のコース設定がされ、シャンゼリゼゴールに設定されるのが恒例である(もちろん例外はあり、例えば2009年には第18ステージに個人TT、第19ステージが移動日扱いの平坦コース、第20ステージにモン・ヴァントゥへの超級山岳ゴール決戦。第21ステージシャンゼリゼゴールとなった)。
最終日は選手たちがシャンパンを片手に走る光景もよく見られるなど顔見せの凱旋パレードの色合いが強く、ポイント賞を争うスプリンターや何としても1勝したい選手以外は本気での勝負を行わない。総合優勝を争う選手は集団落車に巻き込まれないようアシスト選手で周囲を固めゴールスプリントが済んだ後にゴールに入るため、実質的な総合優勝争いは最終日の前日までと考えてよい。
もっとも、過去に最終日に個人タイムトライアルに設定されたケースもあるが、総合首位が逆転するケースもしばしば起こっている。1968年、前ステージまで16秒差の総合3位につけていたヤン・ヤンセンがヘルマン・ファンスプリンヘルを、また1989年、同じくローラン・フィニョンに50秒の差をつけられていたグレッグ・レモンが大逆転したケースがある。
しかし1989年のケースにおいて、フィニョンの負け方があまりにも悲劇的だったことから、最終ステージを個人タイムトライアルとすることに対し、とりわけ同胞であるフランス人から批判が殺到した[3]。この影響を受け1990年以降、最終ステージにおける個人タイムトライアルは2011年現在、一度も設定されていない。
[編集] 歴史
[編集] 黎明期
スポーツ新聞社・ロト(L'Auto、現在のレキップ紙)の宣伝のために当時の編集長アンリ・デグランジュが自動車による「ツール・ド・フランス」をヒントに企画したのが始まりで自転車レースを企画するライバル2紙、ル・プティ・ジュルナル (Le Petit Journal) によるパリ・ブレスト・パリ(現在はアマチュアが参加するブルベというイベントに変わっている)、並びにヴェロ紙 (L'Velo) がスポンサーとなるボルドー〜パリ間レースに対抗するためのものであった。
1903年に行われた第1回は、パリ郊外モンジュロン (Montgeron) のカフェ「レヴェイユ・マタン (Au Reveil Matin)」前からヴィル=ダヴレーまで、合計走行距離2428km・6ステージで行われ、1ステージ平均400kmを走るという過酷なレースであった。初期のレースではほとんど休みがない耐久戦であり、眠る際にもライダーは道路脇で眠っていたという。一方で休息日が第1回は1日おき(1ステージ走ったら1日休み)、その後も3~4日ごとに設けられるなど休息日の数は現在よりも多かった。ゴール先の宿泊先も自分で手配し、いかなる場合でも(自転車の故障による修理なども含む)他者の協力を得ることは禁止されていたため、選手は修理用の工具や交換用のタイヤを身につけて走っていた。
第3回からは距離を縮めた分、ステージ数が倍増。さらに山岳ステージが導入された。ただ当時は変速機が無く、登山用の低速ギアが後輪の反対側(ダブルコグ)に取り付けられていた。しかし、上り坂に来るたびに選手は後輪を前後反対に付け直さねばならなかったためレースは相変わらず過酷なものだった。間もなく変速機が開発されるが、デグランジュはこれを禁止した(デグランジュは「変速機は女子供が使うもの」との考えを持っていたといわれる)。
初期はルールが一定せず、第3~10回は総合優勝がポイント順位制(各ステージ首位の選手とのタイム差をポイントに換算し、点数の最も少ない選手が優勝)とされていた。また第9回からチームによる参加が認められたが、引き続き個人としての参加も可能となっていた(1936年まで)。
以後も徐々にステージ数は増えそれに伴いレースは大規模化していくが、第一次世界大戦によって1915年から1918年までは中断。1919年から再開されたがこの頃は再び走行距離も伸び1ステージ平均350kmを走るのが当たり前で、総距離は5000kmを超える傾向が1930年代まで続いた。
[編集] ナショナルチーム時代
1930年からは商業スポンサーによるチーム(いわゆる「トレードチーム」)の参加を禁止し、チームは全て同一国籍の選手によるナショナルチームでの参加を義務付けることとなった。しかしチーム数が不足したため、ナショナルチーム以外にも地域選抜チームの参加も認められた。チームから商業スポンサーを排除した結果、主催者は選手への機材の供給を一手に引き受けなければならなくなった。主催者は運営費用を調達するため、レースの前に宣伝カーを走らせてそのスポンサー料を運営費用に充てることを思いつく。この結果、現在のツールでも見られる「キャラバン隊」がこの年に誕生した。
1930年代以降はステージ数20前後、走行距離は4500km程度の規模になりほぼ現在の開催スタイルとなる。1937年にデグランジュが代表の座を退くとツールでは変速機の使用が認められるようになったほか、個人参加が禁止されチームカーが導入されるなど「チームによる戦い」としてのツールが確立される。総合優勝以外の各賞が制定されたのもこの頃で、チーム賞は1930年、山岳賞は1933年(ただしジャージ制定は1975年)、ポイント賞は1953年に制定されている。
しかし第二次世界大戦によって1940年から1946年まで再び中断を余儀なくされた。この戦争を挟んだ時代に参加した選手の中にイタリアのファウスト・コッピ、ジーノ・バルタリがいる。この時代からツールはチームを編成した集団競技へと移行し、チーム編成の規定も試行錯誤が続けられた。1947年から再開され、以後1950年代にルイゾン・ボベが3連覇を達成した。
[編集] トレードチームによる戦いへ
1960年代に入ると自転車レース人気の高まりからスポンサーが増え、ナショナルチーム制を取る当時のツールに対する不満が高まってきた。これに加えフランスナショナルチーム内においてジャック・アンクティルとレイモン・プリドールが対立、ナショナルチームとして両者を同じレースに出場させることができない状態となった。当時のフランス自転車界の二大スター選手の片方を欠くことはレースの盛り上がりをそぐことになるため、主催者はこの問題を回避すべく1962年からトレードチームによるエントリーを認めることとなった。その後1967年・1968年には一時的にナショナルチーム制が復活するものの、現在に至るトレードチームによる戦いがここにスタートした。
1960年代にはアンクティル、1970年代前半にエディ・メルクスが4連覇を達成。1973年には独立した運営企業として「ソシエテ・ド・ツール・ド・フランス」が設立された(同社は1993年にASO傘下となる)。1975年には今や恒例となっているシャンゼリゼ通り周回コースによる最終ステージがスタートした。1970年代後半からはベルナール・イノーやローラン・フィニョンらフランス人が活躍。1980年代後半は後半はヨーロッパ出身以外の選手の台頭も目立つようになり、アメリカ人のグレッグ・レモンが活躍した。
1990年代前半にはミゲル・インドゥラインが史上初の5連覇を達成。2000年代にはランス・アームストロングが7連覇を達成している。
[編集] 知名度と露出度
他に3週間程度にわたり行われる大規模なステージレースとしてはジロ・デ・イタリア(イタリア一周)とブエルタ・ア・エスパーニャ(スペイン一周)があり、これにツール・ド・フランスを加えて俗にグランツール(三大ツール)と呼ばれる。その中でもツール・ド・フランスの知名度・露出度は突出しており、日本でも「世界最大の自転車レース」として認識されている。
世界中で他の自転車レースには興味がなくてもツールだけは熱狂的に応援するファンが多数存在しており開催規模や放映される国の多さ、参加する選手の国籍の多彩さなどから見ても世界屈指のスポーツ競技大会である。2010年現在、186の国と地域でテレビ放送され、うち60か国は生中継を実施している。
そのため総合優勝をはじめとした各賞のステータスが非常に高いことはもとより、各ステージの優勝もクラシックなどのビッグレースでの優勝に匹敵する価値があるとされ、1回のステージ優勝であっても生涯の勲章になる。さらに超級山岳ポイントの峠を1位で通過するだけでもステージ優勝と同じくらいの価値があるとされ、次回以降通過する際、歴代の峠の制覇者としてオフィシャルガイドに名前が掲載される。それゆえプロロード選手にとっては一度は出場してみたい大会の筆頭である。
[編集] 運営
レースが非常に大規模、かつメディア露出度が高いために専門の本部が置かれ、およそ500人のスタッフが運営に関わる。交通規制やレース中の警備、極端な不正行為の取締りはジャンダルマリ(フランス国家憲兵隊)とポリスナシオナル(フランス国家警察)の2系統の警察が担当しており、これに動員される人数が約2万5000人。さらにボランティアで警備などを担当する人は数十万人にのぼると推察されている。
またレース中は情報・補給食・飲料水を供給したり、機材のトラブルをサポートするメカニックが乗り込んだ「サービスカー」と呼ばれる車やオートバイが、選手と共におよそ1500台走る。このサービスカーはチーム専属の車両のほか、中立の立場で水や機材を提供するニュートラルカー(ツールでは主にマヴィックが提供するため「マヴィックカー」として知られる)も参加している。
このほかにも選手が通過するおよそ1~2時間前に各スポンサーが出す山車のような宣伝カーが連なったキャラバン隊が沿道の観客に菓子、応援グッズ、キーホルダーなどのグッズをばら撒いていく。配られる数は1000万を超え車の台数はおよそ200台にもなり、全て見るのに40分以上かかるほどである。2000年と2002年にはこのキャラバンカーに観客の子どもがはねられ死亡する事件が起きている。
キャラバン隊は現地にいる観客へのPRだけなく山岳地帯などレースのスピードが落ちる区間でチームジャージと同じ吸湿性に優れた素材で出来たTシャツを配布し、沿道に即席の応援団を作り出すことでスポンサーのロゴが中継で長く映るようにする(2008年のケス・デパーニュ)など巧妙な宣伝を行っている。
運営費は主にテレビ放映権とスポンサー収入でまかなわれるほかレースの舞台となる市町村から主催者に支払われる開催料も充てられているもようだが、正確な収入および運営費用は非公開となっている。
[編集] 各賞とリーダージャージについて
数種の賞が設定されており、各賞に応じた色別のジャージ(リーダージャージ)、または特別なゼッケンがある。前日のステージ終了時点で各賞の成績第1位の選手およびチームは、翌ステージでそのジャージまたはゼッケンを着用しなければならない。
[編集] マイヨ・ジョーヌ(個人総合時間賞)
黄色のジャージ「マイヨ・ジョーヌ (maillot jaune)」は個人総合成績1位の選手に与えられる。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手が「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利を得る。最終ステージの終了時点で「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利をもっている選手がツールの総合優勝者となる。
詳細は「マイヨ・ジョーヌ」を参照
[編集] マイヨ・ヴェール(ポイント賞)
緑色のジャージ「マイヨ・ヴェール (maillot vert)」は「ポイント賞」に対して与えられる。各ステージのゴール、およびステージ途中の中間スプリント地点の通過順位に応じてスプリントポイントが加算され、スプリントポイント1位の選手が「マイヨ・ヴェール」着用の権利を得る。
詳細は「マイヨ・ヴェール」を参照
[編集] マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ(山岳賞)
白地に赤い水玉ジャージ「マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ (maillot blanc à pois rouges)」は「山岳賞」に対して与えられる。山岳ポイント地点の通過順位に応じて山岳ポイントが加算され、山岳ポイント1位の選手が「マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ」着用の権利を得る。1975年に初登場。略して「マイヨ・ア・ポワ」あるいは「マイヨ・グランペール」とも呼ばれる。
詳細は「マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ」を参照
[編集] マイヨ・ブラン(新人賞)
白色のジャージ「マイヨ・ブラン (maillot blanc)」は開催年に25歳以下の誕生日を迎える選手の中で総合成績が最も上位の選手に与えられる(大会期間中に25歳であっても開催年中に26歳になる選手は対象外)。「新人賞」と訳されることが多いが、該当の年齢であれば複数回受賞できるため正確には「最優秀若手選手賞」と呼ぶのがふさわしい[4]。色の由来は不明。
詳細は「マイヨ・ブラン」を参照
[編集] ドサール・ルージュ(敢闘賞)
タイムトライアルを除く各ステージで特に果敢に動いたと認められた選手には「敢闘賞」として、通常白地に黒文字のゼッケンの代わりに赤地に白抜き数字のゼッケンが与えられる(ただし2004年はスポンサーの関係から青地に白数字のものが使われていた)。「敢闘賞」は他の賞と異なり審査員の主観によって選ばれる賞で、各ステージ終了直後に受賞選手1人が主催者から発表され、表彰が行われる。審査員の中には逃げ屋でおなじみとなっていたジャッキー・デュランも含まれていることもあり、逃げ集団が吸収された際は最後まで逃げていた選手、逃げ集団が逃げ切りでゴールした際は2位の選手、単独逃げ切りに成功した場合はその選手が敢闘賞となる確率が高い。2009年の第21ステージでは、別府史之が日本人初の敢闘賞を獲得した[5]。また最終日には大会全体で最も果敢な走りをしたと認められた選手1人に「スーパー敢闘賞」が送られる。
[編集] ドサール・ジョーヌ(チーム総合時間賞)
各ステージの終了後、チームごとに先頭から3人の所要時間の合計が加算され(各チームの総合時間成績の上位3人ではないことに注意)、最も少ない時間のチームが表彰される。リタイアなどによりチームが3人未満になったチームは順位から除外となる。2006年からは黄色地に黒文字のゼッケンがチーム総合首位の選手全員に与えられている。
[編集] そのほかの賞
その年の最大標高の山岳をトップで通過した選手にアンリ・デグランジュ記念賞が与えられる。特にジャージやゼッケンなどは設定されていないが、数千ユーロの賞金が授与される。ジロ・デ・イタリアにおけるチマ・コッピと同じもの。
[編集] 各種規則
- ゴール争い時の危険防止のため集団でゴールした場合、集団内(前車との差が一秒以内)のすべての選手は集団先頭と同タイムとみなされる。同様の目的でゴール手前3km以内(2004年までは1km以内)で落車に巻き込まれたり、メカトラブルなどが発生し遅れた場合は、原則として元々その選手が加わっていた集団と同じタイムが与えられる[6]。
- 各ステージには制限時間があり、基本的には「そのステージの優勝選手のタイムに対し何パーセントオーバー以内」という形で定められる(具体的な割合は優勝選手の平均速度やステージ形態などにより変化する)。基本的に制限時間以内にゴールできなかった選手はタイムオーバーによるリタイア扱いとなるが、タイムオーバーした選手が出走選手数の20%以上に及ぶ場合は主催者による救済措置が取られる場合がある(詳細はグルペットを参照)。タイムトライアルではステージ優勝者のタイムに対し、25%以上でタイムオーバーとなる。
- スプリントポイントについては与えられるポイント数がステージの形状により変わる。ゴールでのスプリントポイントは平坦ステージの場合が最も高く以下、中位のステージ、山岳ステージ、タイムトライアルの順にポイントが少なくなる。また各ステージにはおおむね2箇所の中間スプリント地点が設定されており、そこを3位までに通過した選手にポイントが与えられる。総合成績と異なり1cmでも先に通過した選手が高いポイントを得られるためポイント設定箇所、特にゴール前ではスプリンター同士の熾烈な争いが繰り広げられることとなる。
| 通過順位 | 1 位 |
2 位 |
3 位 |
4 位 |
5 位 |
6 位 |
7 位 |
8 位 |
9 位 |
10 位 |
11 位 |
12 位 |
13 位 |
14 位 |
15 位 |
16 位 |
17 位 |
18 位 |
19 位 |
20 位 |
21 位 |
22 位 |
23 位 |
24 位 |
25 位 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 平坦ステージ | 35 | 30 | 26 | 24 | 22 | 20 | 19 | 18 | 17 | 16 | 15 | 14 | 13 | 12 | 11 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 |
| 中位山岳 | 25 | 22 | 20 | 18 | 16 | 15 | 14 | 13 | 12 | 11 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | |||||
| 上級山岳 | 20 | 17 | 15 | 13 | 12 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | ||||||||||
| プロローグ&TT | 15 | 12 | 10 | 8 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | |||||||||||||||
| 中間スプリントポイント | 6 | 4 | 2 |
| 通過順位 | 1 位 |
2 位 |
3 位 |
4 位 |
5 位 |
6 位 |
7 位 |
8 位 |
9 位 |
10 位 |
11 位 |
12 位 |
13 位 |
14 位 |
15 位 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 難易度1ステージ | 45 | 35 | 30 | 26 | 22 | 20 | 18 | 16 | 14 | 12 | 10 | 8 | 6 | 4 | 2 |
| 難易度2ステージ | 30 | 25 | 22 | 19 | 17 | 15 | 13 | 11 | 9 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 |
| 難易度3,4,5ステージ | 20 | 17 | 15 | 13 | 11 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 |
| 中間スプリントポイント | 20 | 17 | 15 | 13 | 11 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 |
- 山岳ポイントについては上り坂の勾配と長さに応じてカテゴリー超級からカテゴリー4級までの5段階に区分されており、通過順にカテゴリーに応じた山岳ポイントが与えられる。カテゴリー超級の坂はいずれも過酷な登りでありツールマレー峠、モン・ヴァントゥ、ガリビエ峠、ラルプ・デュエズ等が有名である。近年はポイント稼ぎの目的でコース前半の山岳でアタックし、最後の上りとなる山頂ゴールでは大きく後退する作戦で山岳賞を狙うケースが目立ったことから2004年からルールが改正され、最後の上り坂がカテゴリー2級以上の場合は与えられるポイントが2倍となった。このため最後まで上位集団に食らいついてゴールした方が総合優勝争いだけでなく山岳賞争いでも有利になったため、戦略にも大きな影響が出ている。
| 通過順位 | 1 位 |
2 位 |
3 位 |
4 位 |
5 位 |
6 位 |
7 位 |
8 位 |
9 位 |
10 位 |
11 位 |
12 位 |
13 位 |
14 位 |
15 位 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| カテゴリー超級 | 40 | 35 | 30 | 26 | 22 | 18 | 16 | 14 | 12 | 10 | 8 | 6 | 4 | 2 | 1 |
| カテゴリー1級 | 30 | 26 | 22 | 18 | 14 | 12 | 10 | 8 | 6 | 4 | 2 | 1 | |||
| カテゴリー2級 | 20 | 15 | 12 | 10 | 8 | 6 | 4 | 3 | 2 | 1 | |||||
| カテゴリー3級 | 10 | 7 | 5 | 3 | 1 | ||||||||||
| カテゴリー4級 | 5 | 3 | 1 |
| 通過順位 | 1 位 |
2 位 |
3 位 |
4 位 |
5 位 |
6 位 |
7 位 |
8 位 |
9 位 |
10 位 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| カテゴリー超級 | 20 | 18 | 16 | 14 | 12 | 10 | 8 | 7 | 6 | 5 |
| カテゴリー1級 | 15 | 13 | 11 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | ||
| カテゴリー2級 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | ||||
| カテゴリー3級 | 4 | 3 | 2 | 1 | ||||||
| カテゴリー4級 | 3 | 2 | 1 |
| 通過順位 | 1 位 |
2 位 |
3 位 |
4 位 |
5 位 |
6 位 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| カテゴリー超級ゴール | 40 | 32 | 24 | 16 | 8 | 4 |
| カテゴリー超級 | 20 | 16 | 12 | 8 | 4 | 2 |
| カテゴリー1級 | 10 | 8 | 6 | 4 | 2 | 1 |
| カテゴリー2級 | 5 | 3 | 2 | 1 | ||
| カテゴリー3級 | 2 | 1 | ||||
| カテゴリー4級 | 1 |
[編集] 歴代総合優勝者
なお、主要部門賞受賞者については
「ツール・ド・フランス各部門賞受賞者一覧」を参照
| 回 | 開催期間 | 総合優勝者(所属チーム) | ステージ数 | 総距離 | 平均時速 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1903年7月1日~19日 | モリス・ガラン |
6 | 2,428km | 25.679km/h |
| 2 | 1904年7月2日~24日 | アンリ・コルネ |
6 | 2,429km | 26.081km/h |
| 3 | 1905年7月9日~30日 | ルイ・トゥルスリエ |
11 | 2,994km | 27.107km/h |
| 4 | 1906年7月4日~29日 | ルネ・ポティエ |
13 | 4,545km | 24.463km/h |
| 5 | 1907年7月8日~8月4日 | ルシアン・プティブルトン |
14 | 4,488km | 28.470km/h |
| 6 | 1908年7月13日~8月9日 | ルシアン・プティブルトン |
14 | 4,488km | 28.740km/h |
| 7 | 1909年7月5日~8月1日 | フランソワ・ファベール |
14 | 4,488km | 28.658km/h |
| 8 | 1910年7月3日~31日 | オクタブ・ラピーズ |
15 | 4,737km | 28.680km/h |
| 9 | 1911年7月2日~30日 | ギュスタヴ・ガリグー |
15 | 5,344km | 27.322km/h |
| 10 | 1912年6月30日~7月28日 | オディル・ドフレイエ |
15 | 5,319km | 27.894km/h |
| 11 | 1913年6月29日~7月27日 | フィリップ・ティス |
15 | 5,388km | 26.715km/h |
| 12 | 1914年6月28日~7月26日 | フィリップ・ティス |
15 | 5,405km | 27.028km/h |
| 13 | 1919年6月29日~7月27日 | フィルマン・ランボー |
15 | 5,560km | 24.054km/h |
| 14 | 1920年6月27日~7月25日 | フィリップ・ティス |
15 | 5,519km | 24.132km/h |
| 15 | 1921年6月26日~7月24日 | レオン・シウール |
15 | 5,484km | 24.720km/h |
| 16 | 1922年6月25日~7月23日 | フィルマン・ランボー |
15 | 5,372km | 24.202km/h |
| 17 | 1923年6月24日~7月22日 | アンリ・ペリシエ |
15 | 5,386km | 24.428km/h |
| 18 | 1924年6月22日~7月20日 | オッタビオ・ボテッキア |
15 | 5,425km | 24.250km/h |
| 19 | 1925年6月21日~7月19日 | オッタビオ・ボテッキア |
15 | 5,430km | 24.820km/h |
| 20 | 1926年6月20日~7月18日 | ルシアン・ビュイス |
17 | 5,745km | 24.063km/h |
| 21 | 1927年6月19日~7月17日 | ニコラ・フランツ |
24 | 5,321km | 27.224km/h |
| 22 | 1928年6月17日~7月15日 | ニコラ・フランツ |
22 | 5,375km | 27.876km/h |
| 23 | 1929年6月30日~7月28日 | モリス・デワール |
22 | 5,276km | 28.320km/h |
| 24 | 1930年7月2日~27日 | アンドレ・ルデュック |
21 | 4,818km | 27.978km/h |
| 25 | 1931年6月30日~7月26日 | アントナン・マーニュ |
24 | 5,095km | 28.758km/h |
| 26 | 1932年7月6日~31日 | アンドレ・ルデュック |
21 | 4,520km | 29.313km/h |
| 27 | 1933年6月27日~7月23日 | ジョルジュ・スペシェ |
23 | 4,396km | 29.730km/h |
| 28 | 1934年7月3日~27日 | アントナン・マーニュ |
23 | 4,363km | 31.233km/h |
| 29 | 1935年7月4日~28日 | ロマン・マース |
21 | 4,338km | 30.650km/h |
| 30 | 1936年7月7日~8月2日 | シルベール・マース |
21 | 4,414km | 30.912km/h |
| 31 | 1937年6月30日~7月25日 | ロジェ・ラペビー |
20 | 4,415km | 31.768km/h |
| 32 | 1938年7月5日~31日 | ジーノ・バルタリ |
21 | 4,680km | 31.565km/h |
| 33 | 1939年7月10日~30日 | シルベール・マース |
18 | 4,225km | 31.994km/h |
| 34 | 1947年6月25日~7月25日 | ジャン・ロビック |
21 | 4,642km | 31.412km/h |
| 35 | 1948年6月30日~7月25日 | ジーノ・バルタリ |
21 | 4,922km | 33.404km/h |
| 36 | 1949年6月30日~7月21日 | ファウスト・コッピ |
21 | 4,808km | 32.119km/h |
| 37 | 1950年7月13日~8月7日 | フェルディ・キュプラー |
22 | 4,775km | 32.778km/h |
| 38 | 1951年7月4日~29日 | ユーゴ・コブレ |
24 | 4,697km | 32.979km/h |
| 39 | 1952年6月25日~7月19日 | ファウスト・コッピ |
23 | 4,827km | 31.871km/h |
| 40 | 1953年7月3日~26日 | ルイゾン・ボベ |
22 | 4,476km | 34.593km/h |
| 41 | 1954年7月8日~8月1日 | ルイゾン・ボベ |
23 | 4,865km | 34.639km/h |
| 42 | 1955年7月7日~30日 | ルイゾン・ボベ |
22 | 4,476km | 34.639km/h |
| 43 | 1956年7月5日~28日 | ロジェ・ワルコビャック |
22 | 4,527km | 36.268km/h |
| 44 | 1957年6月27日~7月20日 | ジャック・アンクティル |
23 | 4,664km | 34.520km/h |
| 45 | 1958年6月26日~7月19日 | シャルリー・ゴール |
24 | 4,319km | 36.905km/h |
| 46 | 1959年6月26日~7月19日 | フェデリコ・バーモンテス |
22 | 4,358km | 35.474km/h |
| 47 | 1960年6月26日~7月17日 | ガストネ・ネンチーニ |
21 | 4,173km | 37.210km/h |
| 48 | 1961年6月25日~7月16日 | ジャック・アンクティル |
21 | 4,397km | 36.033km/h |
| 49 | 1962年6月24日~7月15日 | ジャック・アンクティル |
22 | 4,274km | 37.317km/h |
| 50 | 1963年6月23日~7月14日 | ジャック・アンクティル |
21 | 4,138km | 36.456km/h |
| 51 | 1964年6月22日~7月14日 | ジャック・アンクティル |
22 | 4,505km | 35.419km/h |
| 52 | 1965年7月8日~8月1日 | フェリーチェ・ジモンディ |
22 | 4,188km | 35.882km/h |
| 53 | 1966年6月21日~7月14日 | ルシアン・エマール |
22 | 4,329km | 36.819km/h |
| 54 | 1967年6月29日~7月13日 | ロジェ・パンジョン |
22 | 4,779km | 35.882 km/h |
| 55 | 1968年6月27日~7月21日 | ヤン・ヤンセン |
22 | 4,492km | 34.894 km/h |
| 56 | 1969年6月28日~7月20日 | エディ・メルクス |
22 | 4,117km | 35.296km/h |
| 57 | 1970年6月27日~7月19日 | エディ・メルクス |
22 | 4,492km | 34.894km/h |
| 58 | 1971年6月26日~7月18日 | エディ・メルクス |
20 | 3,585km | 37.290km/h |
| 59 | 1972年7月1日~23日 | エディ・メルクス |
20 | 3,846km | 35.514km/h |
| 60 | 1973年6月30日~7月22日 | ルイス・オカーニャ |
20 | 4,150km | 33.407km/h |
| 61 | 1974年6月27日~7月21日 | エディ・メルクス |
22 | 4,098km | 35.661km/h |
| 62 | 1975年6月26日~7月20日 | ベルナール・テヴネ |
22 | 4,000km | 34.906km/h |
| 63 | 1976年6月24日~7月18日 | ルシアン・ファンインプ |
22 | 4,098km | 34.518km/h |
| 64 | 1977年6月30日~7月24日 | ベルナール・テヴネ |
22 | 4,096km | 35.393km/h |
| 65 | 1978年6月29日~7月23日 | ベルナール・イノー |
22 | 3,908km | 36.084km/h |
| 66 | 1979年6月27日~7月22日 | ベルナール・イノー |
24 | 3,765km | 36.512km/h |
| 67 | 1980年6月26日~7月21日 | ヨープ・ズートメルク |
22 | 3,842km | 35.068km/h |
| 68 | 1981年6月25日~7月19日 | ベルナール・イノー |
24 | 3,758km | 37.844km/h |
| 69 | 1982年7月2日~25日 | ベルナール・イノー |
21 | 3,507km | 37.458km/h |
| 70 | 1983年7月1日~24日 | ローラン・フィニョン |
22 | 3,860km | 36.230km/h |
| 71 | 1984年6月29日~7月22日 | ローラン・フィニョン |
23 | 4,021km | 34.906km/h |
| 72 | 1985年6月28日~7月21日 | ベルナール・イノー |
22 | 4,109km | 36.232km/h |
| 73 | 1986年7月4日~27日 | グレッグ・レモン |
23 | 4,084km | 37.020km/h |
| 74 | 1987年7月1日~26日 | ステファン・ロシュ |
25 | 4,331km | 36.644km/h |
| 75 | 1988年7月4日~24日 | ペドロ・デルガド |
22 | 3,286km | 38.909km/h |
| 76 | 1989年7月1日~23日 | グレッグ・レモン |
21 | 3,285km | 37.487km/h |
| 77 | 1990年6月30日~7月22日 | グレッグ・レモン |
21 | 3,286km | 38.621km/h |
| 78 | 1991年7月6日~28日 | ミゲル・インドゥライン |
22 | 3,914km | 38.747km/h |
| 79 | 1992年7月4日~26日 | ミゲル・インドゥライン |
21 | 3,983km | 39.504km/h |
| 80 | 1993年7月2日~25日 | ミゲル・インドゥライン |
20 | 3,714km | 38.709km/h |
| 81 | 1994年7月2日~24日 | ミゲル・インドゥライン |
21 | 3,978km | 38.381km/h |
| 82 | 1995年7月1日~23日 | ミゲル・インドゥライン |
20 | 3,635km | 39.191km/h |
| 83 | 1996年6月29日~7月21日 | ビャルヌ・リース |
21 | 3,765km | 39.235km/h |
| 84 | 1997年7月5日~27日 | ヤン・ウルリッヒ |
21 | 3,950km | 39.237km/h |
| 85 | 1998年7月11日~8月2日 | マルコ・パンターニ |
21 | 3,875km | 39.983km/h |
| 86 | 1999年7月3日~25日 | ランス・アームストロング |
20 | 3,687km | 40.276km/h |
| 87 | 2000年7月1日~23日 | ランス・アームストロング |
21 | 3,662km | 39.545km/h |
| 88 | 2001年7月7日~29日 | ランス・アームストロング |
20 | 3,453km | 40.070km/h |
| 89 | 2002年7月6日~28日 | ランス・アームストロング |
20 | 3,276km | 39.909km/h |
| 90 | 2003年7月5日~27日 | ランス・アームストロング |
20 | 3,426km | 40.956km/h |
| 91 | 2004年7月3日~25日 | ランス・アームストロング |
20 | 3,391km | 40.563km/h |
| 92 | 2005年7月2日~24日 | ランス・アームストロング |
21 | 3,608km | 41.654km/h |
| 93 | 2006年7月1日~23日 | オスカル・ペレイロ[7] |
21 | 3,654km | 40.784km/h |
| 94 | 2007年7月7日~29日 | アルベルト・コンタドール |
20 | 3,554km | 39.226km/h |
| 95 | 2008年7月5日~27日 | カルロス・サストレ |
21 | 3,523km | 40.093km/h |
| 96 | 2009年7月4日~26日 | アルベルト・コンタドール |
21 | 3,459 km | 40.31 km/h |
| 97 | 2010年7月3日~25日 | アルベルト・コンタドール |
20 | 3,642km | 39.596km/h |
| 98 | 2011年7月2日~24日 | カデル・エヴァンス |
21 | 3,471km | 39.788 km/h |
[編集] 国別優勝回数
2011年まで国籍別ではフランスが36勝、次いでベルギーが18勝、スペインが13勝、アメリカ合衆国が10勝、イタリアが9勝、ルクセンブルクが4勝、スイスとオランダがそれぞれ2勝、アイルランドとデンマークとドイツとオーストラリアが各1勝となっている。
[編集] 5勝クラブ
ツールで総合優勝を5回達成した選手達を俗に「5勝クラブ」と呼んでいる。「5勝クラブ」に名を連ねている5人はいずれも歴史に残る名選手である。2005年ツールにてランス・アームストロングは史上初の7回の総合優勝を達成した。
- ジャック・アンクティル(
フランス) - 優勝年……1957年、1961年、1962年、1963年、1964年
- タイムトライアルのスペシャリストである。1957年に初出場にもかかわらず、圧倒的な強さで初優勝を飾った。その後、肺炎等のため勝利から見放されていたが1961年にカムバックを遂げ勝利を重ねた。1964年のレースでは消化不良に苦しんだが(休養日に振る舞われた羊料理のためとされる)それを隠し通し、ライバルの追撃を振り切り5度目の栄冠を摑んでいる。
- エディ・メルクス(
ベルギー) - 優勝年……1969年、1970年、1971年、1972年、1974年
- ツール・ド・フランス5勝に加えジロ・デ・イタリアでも5勝、世界選手権でも3回優勝している。クラシックレースでの強さも圧倒的で、勝利に対するあまりの貪欲さから「食人鬼」の異名をとった。トータル525勝、勝率28.12%は、史上最も偉大な選手としてふさわしい記録である。
- 初出場の1969年には総合優勝に加えてポイント賞と山岳賞も併せて受賞し主要3部門独占を果たしており、この記録を達成した選手は今もなおメルクスただ一人だけある。
- ベルナール・イノー(
フランス) - 優勝年……1978年、1979年、1981年、1982年、1985年
- アンクティル、メルクスに続いて初出場で初優勝を飾った。「ブルターニュの穴熊」の異名で呼ばれた。
- 1985年のレースでは山岳ステージの落車で鼻を骨折し呼吸が困難になるアクシデントに見舞われチームメートだったグレッグ・レモンに優勝のチャンスが舞い込んだが、翌年はイノーがレモンのアシストに徹することを条件に優勝を譲らせたという逸話が残っている。しかし翌年、6勝目を挙げるべくレモンに立ちはだかったため2人の間に確執が生じることとなった(結局この年はレモンが総合優勝をしている)。かねて公言していた通り、1986年に32歳の若さで引退した。
- ミゲル・インドゥライン(
スペイン) - 優勝年……1991年、1992年、1993年、1994年、1995年
- ツール・ド・フランス史上初となる5年連続優勝を達成した。80kgを超す巨体ながら山岳ステージや個人タイムトライアルで絶対的な強さを発揮した。1992・1993年にはジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスの両方で総合優勝する「ダブルツール」を2年連続で達成するという、空前絶後の偉業を成し遂げている。
- 圧倒的な強さに加え、どの選手からも尊敬され愛される穏やかな人柄から「ロワ・ソレイユ(太陽王)」とまで呼ばれた。また日本では「相手選手が引き離してもすぐ背後に貼りついている」様子から「ターミネーター」と呼ばれていた。
- ランス・アームストロング(
アメリカ合衆国) - 優勝年……1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年
- 1996年に精巣腫瘍に侵されるが1998年に奇跡のカムバックを果たし、1999年の優勝を皮切りに史上初の7連覇を達成。上りで極端に軽いギアにして高ケイデンスで走るという独特の走法で山岳で圧倒的強さを示したほかタイムトライアルも得意とした。
- ツール・ド・フランスにおける彼の圧倒的な強さの背景には実力もさることながら、これまでの名選手がほかのビッグレースでも勝利を目指したのとは違い、ツール・ド・フランスに勝つことのみに照準を合わせ、他のレースは全て調整と割り切っていたという事情もある。
[編集] ツールをめぐる問題
[編集] ドーピング問題
- 1924年の大会で途中棄権したアンリ・ペリシエらのペリシエ3兄弟が、親しい新聞記者にストリキニーネ、コカインなどを常用していた事実を告白したことで浮上した形となり、その後深刻さを深めていった。当時は競技力向上よりも苦痛を和らげるための鎮痛剤(覚醒剤)が主に用いられていたとされる。ファウスト・コッピやジャック・アンクティルもそれを示唆する発言をしている。
- 1955年の大会で任意に選んだ選手中20%が覚醒剤陽性となり依存症となっていることが判明。
- 1960年第14ステージ、中央高地にあるエグア山で、崖下から転落するアクシデントにより途中棄権となったばかりか、この事故が原因で、後に現役引退を余儀なくされたロジェ・リヴィエールが、事故以前からアンフェタミンなどの薬物を常用していたことが判明。
- 1967年の第13ステージでトム・シンプソンがモン・ヴァントゥの上りで倒れ死亡する出来事が起きた。このときシンプソンの体内からアンフェタミン、アルコールや利尿薬が検出され問題となった。ただしこの年のモン・ヴァントゥ周辺のプロヴァンス地方は猛烈な暑さだったこともあり、またチームとの契約問題で精神的に追い詰められていたとの証言もあり薬物はあったものの熱中症の作用によるものという意見も多い。実際、シンプソンの死は熱中症として扱われている。
- 1977年、ヨープ・ズートメルクが第15 (b) ステージ、ジョアキン・アゴスティーニョが第18ステージでそれぞれ禁止薬物使用により、区間記録を剝奪され、両選手にはそれぞれ、所定総合時間プラス10分のペナルティが科せられる。
- 1978年、ラルプ・デュエズを1位で入線したミシェル・ポランティエールが、禁止薬物使用を隠蔽するため、尿をコンドームにしまいこんで隠していたことが発覚。悪質な行為とみなされ、順位剝奪はもとより、即座に帰郷を命じられる。
- 1979年最終ステージ終了後、ヨープ・ズートメルクにドーピング違反が判明し、同ステージの区間記録が剝奪され、所定総合時間プラス10分のペナルティが科せられる。
- 1988年
- 当初総合4位を記録していたヘルト=ヤン・テュニスに、テストステロンの陽性反応が出たため、所定総合時間プラス10分のペナルティが科せられた。これによりテュニスは、総合11位に降格。
- 同年の山岳賞獲得者、スティーヴン・ロークスが、EPO常用の事実を2009年に認める。
- 総合優勝を果たすことになるペドロ・デルガドの体内から、当時既に国際オリンピック委員会では禁止薬物として指定されていたプロベニシド (Probenecid) が検出されたが、当時国際自転車競技連合がそのことを認識していなかったため、制裁等の処置は行われなかった。
- 1991年に出場していたPDMチームが第10ステージ後、突然の体調不良を訴え選手全員が棄権した。チームの声明が二転三転したこともあり薬物摂取による副作用ではないかとされている。
- 1996年の大会で、ポイント賞獲得のエリック・ツァベルがエリスロポエチン (EPO) を使用していたことを2007年に告白。また同年大会の総合優勝者、ビャルヌ・リースが同年前後にわたり、EPO常用の事実を2007年に告白。
- 1998年にチームフェスティナの車から禁止薬物が発見されたことに端を発し逮捕者8人を出す一大スキャンダルに発展、第6ステージ終了後、チームフェスティナはツールから除名された。さらにツールにジャンダルマリが介入したことに抗議して、第17ステージを選手全員がボイコット。次の第18ステージではスペインから参加した全チームおよびイタリアから参加した1チームが棄権した。この結果完走者は96人という1983年以来の2桁を記録することとなった。
- 2002年総合3位のライモンダス・ルムシャスの夫人が、同年大会終了後、大量の禁止薬物所持により、警察当局に身柄を拘束される事件が発生。
- 2006年にはオペラシオン・プエルトの余波を受けてヤン・ウルリッヒやイヴァン・バッソ、アレクサンドル・ヴィノクロフなどの優勝候補が軒並み出場停止となったほか総合優勝したフロイド・ランディスも後にドーピング違反により、タイトルの剝奪が決定した。
- 2007年にもドーピング問題は再び猛威を振るい、優勝の大本命とされていたアレクサンドル・ヴィノクロフが第15ステージ終了後にドーピング検査で陽性反応が出たことで棄権。さらに第16ステージ終了後にコフィディスのクリスティアン・モレーニがドーピング疑惑で連行された上、総合優勝をほぼ確実にしていたラボバンクのミカエル・ラスムッセンも検査に際して虚偽の居場所を報告したことでドーピングを疑われチームを解雇される形で棄権。この影響でアスタナ・チーム、コフィディスはチーム全体が棄権することになった。
- 2008年には第6ステージと第9ステージの上りで驚異的な走りを見せてステージ優勝を果たし総合優勝争いにも加わっていたサウニエル・ドゥバル・スコットのリカルド・リッコが第11ステージ終了後にドーピング検査での陽性が発覚し、これによりチーム監督の判断でサウニエル・ドゥバル・スコットチームはツールから撤退するこになった。この年の大会でドーピングの陽性反応が現れた選手はリカルド・リッコのほか、ベルンハルト・コール、シュテファン・シューマッハー、レオナルド・ピエポリ、マヌエル・ベルトラン、ドミトリー・フォフォノフなどを含め7人だった。一時的にドーピング違反とされたジミー・カスペールは喘息治療薬の摂取量が基準値を超えたというものであったが、元々喘息持ちであり後に無罪とされている[8]。フォフォノフはドクターの処方ミスだったことが証明されたため、3か月間の出場停止処分で現在は復帰している。
- 『ツール・ド・ドーピング』とまで言われるようになってしまったことを受け、UCIが2009年6月に、「バイオロジカル・パスポート」(生体パスポート)と呼ばれるドーピング検査を導入。これにより、当時サイレンス・ロットに在籍していたトーマス・デッケルにEPO陽性反応が出たため、既にスタートリストに名前があったデッケルは、同年大会直前にメンバーから外される。
- 2010年、サーヴェロ・テストチームのシャビエル・フロレンシオが、メディカルスタッフの事前許可なしに、覚醒剤のエフェドリンを含む薬物を使用していたとして、プロローグ開始直前にメンバーから除外。よって、同チームは最初から8人での戦いを余儀なくされた。
- 2011年7月11日、第5ステージ終了後に採取されたアレクサンドル・コロブネフの尿の中から、利尿薬であるヒドロクロロチアジドの陽性反応が確認された。当初コロブネフは意図的に行ったものではないと主張していたが、同月20日、Bサンプルでも陽性が確認された。
[編集] UCIプロツアーを巡る確執
主催者であるASOとUCIとの間で、参加チームの選定など、管理・運営に関する溝がUCIプロツアー制定初年度の2005年から生じた。さらにその溝は、年を追うごとに深刻さを増し、ジロ・デ・イタリアの主催者であるRCSスポルト、ブエルタ・ア・エスパーニャの主催者であるウニプブリクをも巻き込こんだ。そしてついに2008年、ASO、RCS、ウニプブリクが、UCIプロツアーからの離脱を決定。この決定に対し、看過できないという強硬姿勢をとったUCIとの確執がさらに続き、2008年の大会開催時に、ASOから参加を拒まれたアスタナ・チームを除く当時の17のUCIプロチームが、翌2009年シーズンのUCIプロツアーライセンスを更新しないという事態にまで発展したが、同年8月、UCIがASOの親会社であるEPAとの話し合いの末、UCIプロツアーを包含した新制度UCIワールドカレンダーを2009年シーズンから開始することで和解。ツールは2年ぶりに、ロードレースの年間シリーズに復帰することになった。
[編集] そのほか
ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアを同一人物が同年に優勝することを指して「ダブルツール」と呼び、加えて世界選手権自転車競技大会を制すると「トリプルクラウン」と呼び「カンピオニッシモ(伊:campionissimo、「チャンピオン」の最上級)」として称えられる。
参加者の中で最も総合タイムの遅い選手は「ランタンルージュ (Lanterne rouge)」=「赤ランプ」と呼ばれる。これは以前は貨物列車の最後尾に目印として赤ランタンが掛けられていたことに引っ掛けて(尾灯が赤であるべきことは世界共通。前照灯参照)「一番後ろを走る存在」すなわち「最下位の選手」を意味しており、総合優勝などとは別の意味で非常に注目される存在である。
[編集] 日本人選手
- 川室競 第20回(1926年)、第21回(1927年)
- 大正15年と翌昭和2年の2大会に出場。いずれも第1ステージでリタイアに終わっている。
- 今中大介 第83回(1996年)
- 日本人として近代ツール初出場。第14ステージでタイムオーバーによりリタイア扱い。
- 新城幸也 第96回(2009年)、第97回(2010年)
- 2009年は第2ステージ5位、129位完走。2010年は第11ステージ6位、112位完走。
- 別府史之 第96回(2009年)
- 第3ステージ8位、第19ステージ7位、第21ステージ敢闘賞、112位完走。
[編集] 日本でのテレビ放送
現在日本での放送はスポーツ専門チャンネル「J SPORTS」で全ステージ生中継されている。
1985年から1991年にかけてはNHKが放映権を持ち、主にBS1で中継を行っていたほか、地上波でも数回「世界最大の自転車レース」と題して単発特番を放送していたこともある(現在この間の放送をDVD化したものがNHKエンタープライズから発売されている[9])。2007年からはBS1で後日ダイジェストながら放送を再開している。
1992年にフジテレビが放映権を取得し、同系列で「英雄たちの夏物語」というダイジェスト番組を2~3回にわたり放送していた。またJ SPORTSが生中継を始める前はフジテレビが衛星録画、山岳ステージの衛星中継を独占で行っていた。
1998年には当時の「SKY Sports」(J SPORTSの前身)がフジテレビからサブライセンスを受ける形で生中継を開始(その関係から、青嶋達也などフジテレビのアナウンサーが実況を担当することが多かった)。2005年にはフジテレビが放送権を放棄し、代わってJ SPORTSが5年間の独占放送の権利を取得した。2009年に契約を更新し2013年までの延長が発表された。
なおJ SPORTSの生中継では、非常に長時間(最大で7時間強)に及ぶことから放送中に実況・解説者に補給食(レース中に選手が補給食を受け取るための袋にちなんで「サコッシュ」と呼ばれている)が配られそれを食べながら放送を行うという、他のスポーツ中継にはない特色がある。2007年にはJ SPORTSの携帯サイトにおいて視聴者が中継を見ながら食べているものを撮影しメールで送ってもらう「今日のサコッシュ」というコーナーが展開されるなど、ツール中継における名物となっている。2000年から2004年まで開催中に「裏ツール」サイトが公式サイト内に設置され、視聴者からの質問などをフォローしていた。川柳の投稿や放送内に行われるプレゼントクイズへの珍回答などを題材に毒舌の担当者の独断と偏見でプレゼントが贈られた。いまは終了している。
関西テレビ制作のテレビドラマ『僕の歩く道』では、主人公が自閉症の男性で、このレースの歴代優勝者を落ち着かなくなったときにつぶやくというシーンがある。
[編集] 脚注
- ^ UCIの規定で「グランツールに関しては、日程は23日以内で内2日間を休息日に充てること、総走行距離は3500km以内であること」と定められている。
- ^ 2008年の場合は平坦10ステージ、山岳5ステージ、中級山岳4ステージ、個人タイムトライアル2ステージという構成。
- ^ サイクルスポーツ1989年10月号
- ^ 実際にマルコ・パンターニは1994年・1995年の2回、ヤン・ウルリッヒは1996年から1998年まで、アンディ・シュレクは2008年から2010年の連続3回獲得している。
- ^ この場合、逃げ集団を作り出したアタックを成功させた+逃げは吸収されたが最後まで逃げていたが受賞理由。
- ^ ただし個人タイムトライアル及び山岳ステージの山頂ゴールの場合には、この救済が行われない。2008年の第6ステージでは総合首位を走っていたステファン・シューマッハーが残り500mで落車したがゴールが山頂だったため救済の対象とはならず、マイヨ・ジョーヌを失った。
- ^ 全レース終了後に行われたドーピング検査において総合1位となったフロイド・ランディスの体内から多数の禁止薬物が検出された。これを受けランディスの総合優勝は保留とされ、その後公聴会などの調査が続けられた。1年以上に亘る調査の結果、2007年9月20日に「アメリカ合衆国反ドーピング機関」 (USADA) が後日ランディスの総合1位記録を取り消し失格とする告知を出したことからオスカル・ペレイロの繰り上げ優勝はこの時点で決定的となった。21日には、UCIが正式にランディスの失格とペレイロの優勝を認定し優勝が決定。そして同年10月15日に総合ディレクターのクリスティアン・プリュドムから優勝ジャージ(マイヨ・ジョーヌ)が授与された。
- ^ CYCLINGTIME.com 2008年10月7日のニュース
- ^ ツール・ド・フランス 1985~1991 7YEARS BOX 【NHKエンタープライズ】
[編集] 関連項目
- YELLOW JACKET
- ツール・ド・フランス (アルバム) - クラフトワークのアルバム及び楽曲。
[編集] 外部リンク
- ツール・ド・フランス公式サイト (フランス語)(英語)
- J SPORTS - cycle road race (日本語)
- ツール・ド・フランス歴代優勝者名鑑 (日本語)
- ツール・ド・フランス速報 (日本語)
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