チロ・テラノヴァ

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チロ・テラノヴァ(1930年、ニューヨーク市警察によるマグショット

チロ・テラノヴァ(Ciro Terranova, 1889年7月20日 - 1938年2月20日)は、ニューヨークマフィアモレロ一家のリーダーの1人。アーティチョーク・キングと呼ばれた。

来歴[編集]

初期[編集]

シチリア島コルレオーネ生まれ。地元マフィアのベルナルド・テラノヴァの3人兄弟の次男(長男ヴィンセント、三男ニコラス)。ジュゼッペ・モレロは異父兄にあたる。1892年一家で渡米し、ニューヨークからルイジアナテキサスを転々としたが、1896年頃、ニューヨークに戻り、イースト・ハーレム地区に定住して学校に通いながら家族の左官業を手伝った。のちジュゼッペ・モレロのイタリアンレストランのウエイターなどをやったが、ほどなくモレロ組織(116丁目ギャング)に入った。1903年にはイニャツィオ・ルポが姉のサルヴァトリーチェ(1880年-1968年)と結婚して親族関係となる。1909年、テッシエ・カターニアと結婚。1910年、ジュゼッペ・モレロが紙幣偽造で監獄送りになると、ニコラスやヴィンセントと共にモレロ一家のリーダーの一人となり、モレロの左官業を受け継ぎ、ナポリ系のジョシュ・ガルッチの雇われ用心棒グループに加わった[1][2][注釈 1]

アーティチョーク・キング[編集]

イタリア移民の食卓に不可欠なアーティチョーク(アザミ)の市場に目をつけ、貨物列車でニューヨークに運ばれるカリフォルニア産アーティチョークを買い占め、30%-40%のプレミアムを付けて業者に売りさばいた[注釈 2]。従わない業者に制裁を加え、大儲けした。モレロの紙幣偽造と異なり合法で、長らく一家の収入源の1つになり、アーティチョーク・キングと呼ばれた[1][4][注釈 3]

モレロが暴力や殺人に訴えたのに対し、チロは役人や政治家に取り入り、賄賂漬けにして警察の追及を遮断することを本領とした。ライバルギャングを当局に内通して罠にはめた。ジュセッペ・モレロの収監後の一家は派閥争いに突入するが、ビジネス自体は堅調で、車を何台も所有し、イーストハーレムを支配した。1916年、ブルックリン区のナポリ系ギャング、ペリグリーノ・モラノらにニコラスを殺されると、兄ヴィンセントと共に一家を率いて全面戦争に突入し、何度も命を狙われた(マフィア-カモッラ戦争)。一時カモッラ勢に押されてハーレムの縄張りを奪われたが、1917年カモッラが一斉検挙で組織崩壊すると、奪い返した。1918年、ジョー・ディマルコ殺害共謀容疑で起訴されたが無罪となった[1][2][5]

禁酒法時代[編集]

1920年代初め、モレロが出所して勢いを取り返そうとしたとき、パレルモ系マフィアのサルヴァトーレ・ダキーラに阻まれたが、チロは一説にダキーラの死の宣告リストに載っていた12人の1人とされる[6]。アルコール密輸の縄張り争いが絡んだコルレオーネ派閥とパレルモ派閥の対立は激化し、1922年5月、兄ヴィンセントが敵の凶弾に倒れた。同年8月、酒の密輸で勢いを得たジョー・マッセリアがモレロをアドバイザーに迎えて自らボスとなった。チロはその後塵を拝し、主従関係は逆転した。1923年から1924年に、チロ率いるギャング団が地元ハーレムのアイルランド系ギャングと抗争に発展したが、程なく和解した[注釈 4]禁酒法時代、チロも酒の密輸ビジネスで大儲けしたが、ハーレムの賭博利権やアーティチョークの利権も保持した。家族をウエストチェスター郡ペルハム・マナーの豪邸に住まわせ、武装したリムジンを乗り回した[4]

1929年6月、ブロードウェイギャングと呼ばれたフランク・マーロウが殺害され、チロが首謀者と報じられたが、いかなる訴追もなかった。それから半年後の1929年12月、市政の要人が多数参加したニューヨーク治安判事アルバート・ヴィターレの政治祝賀会が武装強盗団に襲われ金品を奪われたが、チロ以下複数のギャングが祝賀会の出席者だったことが明るみに出て、政治スキャンダル化した[4][注釈 5]。警察関係者には名が知られていたが、ヴィターレ事件で世間の注目を浴び、以後、新聞にニューヨークを牛耳る暗黒街の大物と度々紹介された。

1930年、ダッチ・シュルツと提携し、ハーレムのナンバーズ賭博の一部(一説に25%)をシェアした[2][4]。シュルツと共有したハーレムギャングの部下に、マイク・コッポラ、フランク・リヴォーシ、ジョゼフ・ラオ、ジョゼフ・ストラーチ、フランク・アマト、カターニア兄弟(ジョゼフ、カロゲロ)などがおり、ほとんどはナポリなど非シチリア系イタリア人だった[6]

後期キャリア[編集]

カステランマレーゼ戦争では、チロ配下のハーレムギャングがマッセリアの戦闘部隊の中核となり、多くの暗殺の実行に関わった。1931年2月、マッセリアの強力な戦闘員でチロの妻の親族だったジョゼフ・カターニアがマランツァーノ派に殺害された時、棺の上に手を置き復讐を誓ったという。1931年4月、マッセリアの殺害に協力したと一部では言われたが、マッセリアファミリーの跡取り問題では主導権を握ることができなかった。ハーレムのナンバーズ賭博の利権は保持したが、仲間の多くを殺され、権威は失墜した。同年、五大ファミリーが再編されると、マッセリアを継いだラッキー・ルチアーノの一家に属したが、アーティチョークの利権を部下に奪われた。1935年10月、シュルツが暗殺されたのを機にナンバーズ賭博の利権を奪ったが、ルチアーノはテラノヴァに引退勧告して配下のマイク・コッポラに縄張りを継がせたため、賭博の取り分も失った。従っていた部下もコッポラに鞍替えした。同年、未納税金500数ドルを払えず破産を宣言し、ペルハム・マナーの豪邸が差し押さえられた。破産管財人に豪邸を明け渡すと少年時代住んでいたハーレムのアパートに引越した。1936年、テラノヴァを長年敵視したニューヨーク市長ラガーディアの意向のもと警察の嫌がらせで何度も微罪で捕まった[注釈 6]。1938年2月、2度の心臓発作で左半身が不随になり、担ぎ込まれた病院で死去した。4兄弟で唯一ベッドの上で死んだ。死んだとき手持ち資産が現金200ドルと株券2枚だったと報じられた[1][4][注釈 7]

エピソード[編集]

  • 1923年頃のイーストハーレムは、「帝王」チロの天下で、当時ギャングのアジトだったハーレムの116丁目のレストラン"ヴェネチア"にはイタリア系ギャングの他にレプケ・バカルター、ダイアモンド兄弟(レッグス・ダイアモンド)、リトル・オーゲンなどユダヤ系・アイルランド系の強面ギャングが出入りしていたが、チロに比べればまるで小物だったとジョゼフ・ヴァラキは回想している[10]
  • 1935年、娘のアンの豪奢な結婚式を催し、記者が裕福な暮らしを伝えた。1916年にニコラス、1922年にヴィンセント、それぞれの子供を養子に引き取ったため、自分の子と合わせて総勢10人の子を抱えた[1][9]
  • 生涯を通じて多くの殺人や強盗で告発されたが、1929年の銃の不法所持以外、有罪にならず、監獄も無縁だった[9]
  • チロのハーレム116丁目のアパートには、1910年代にかけてポール・ケリーが一時期住んでいた[11]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 移住した当初の生活をチロが後年回想している。その頃のモレロや家族のことを語ったのは家族でチロのみである[3]
  2. ^ アーティチョークは、ミネストローネスープなどイタリア料理に使われる野菜で、当時イタリア移民にのみ需要があった。The Artichoke King of New York アーティチョークビジネスの解説。
  3. ^ 年間3万~4万ドル(現在価値で数百万ドル)を稼いでいたとされる。The Artichoke King of New York
  4. ^ 同じハーレム出身で、のちジェノヴェーゼ一家に入るウィリー・モレッティが両者の抗争を仲裁したとの説がある[6]
  5. ^ 7人の武装グループが祝賀パーティに乱入し、出口を封鎖して客に銃口を向けた。ヴィターレ含む全員から現金や宝石を奪い、車で逃走した。ギャングとの繋がりが明るみに出たニューヨーク市政の幹部と共に、会場にいた市警の刑事が銃を取り上げられていたことが判明し、ニューヨーク市警も面目丸つぶれとなった。強盗団を捕まえられなかった市警はアーティチョーク・キングが仕組んだ自作自演の強盗劇だとしてチロに汚名を着せた。市警の主張では、チロがあるギャングにフランキー・イェールとフランク・マーロウの2人の殺害を託し、殺人契約を結んだが、その報奨金で揉めて、契約書を取り戻すために相手方ギャングを祝賀パーティに呼んで自作自演の強盗劇でその書面を奪い返したという。この狂言じみた警察の主張にチロはインタビューで、「ニューヨーク市政の政争に巻き込まれ、そのスケープゴート(生贄のヤギ)にされた、ただそれだけ」と返した。ついでにニューヨーク市長ジミー・ウォーカーや元州知事アル・スミスら民主党系政治家のゴタゴタぶりを非難した。ウォーカーはすぐに反応し、「テラノヴァはゴート(ヤギ)ではない、ロバ(Jackass、間抜け・のろま)だ」と応酬した。ギャングと一緒だったことで非難されたヴィターレ判事は1930年3月辞任に追い込まれた[4][7]
  6. ^ 1936年1月3日、街中で路上駐車しているところを連行され、浮浪罪で逮捕された[8]
  7. ^ 死後彼の金欠問題が取りざたされ、裏社会の大物が転落していくストーリーに脚色されたが、残された家族は、「無一文になった」という風評は嘘で、パン屋を経営していたしアパートも資産として持っていたと説明した。また晩年浮浪罪などで検挙されたが裁判で巻き返し、放免されている。チロは裁判で、自らの身の上について今は借金で生計を立てていると証言したが、1936年末までスポーツで日焼けした肌を見せびらかし武装車で出かけるところや、ダイヤモンドの指輪をはめていたのを目撃された[4][9]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e The First Family: Terror, Extortion and the Birth of the American Mafia by Mike Dash, P. 364
  2. ^ a b c Ciro Terranova La Cosa Nostra Database
  3. ^ Mike Dash, P. 82
  4. ^ a b c d e f g Ciro Terranova: Tales of the Artichoke King Allan May, 1999
  5. ^ Ciro Terranova Gang Rule
  6. ^ a b c Genovese Family bios. of early members. TERRANOVA,CIRO, Mafiamembership Charts
  7. ^ Prohibition Gangsters: The Rise and Fall of a Bad Generation Marc Mappen, 2013, P. 53
  8. ^ Artichoke King, To face Vaglancy Count in Court The Daily Argus, 1936.1.6
  9. ^ a b c Eighty years ago, Ciro ‘The Artichoke King’ Terranova ‘ died of a broken heart’ MOB MUSEUM
  10. ^ Guns and Garlic: Myths and Realities of Organized Crime: Frederic D. Homer、David A. Caputo, P. 32
  11. ^ East Harlem Map The American Mafia

外部リンク[編集]