チャールズ・マナーズ (第6代ラトランド公爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第6代ラトランド公爵
チャールズ・マナーズ
Charles Manners
6th Duke of Rutland
生年月日 1815年5月16日
出生地 イギリスの旗 イギリス イングランドロンドン
没年月日 (1888-03-03) 1888年3月3日(72歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス イングランドレスターシャービーバー城英語版
出身校 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
所属政党 トーリー党保守党
称号 第6代ラトランド公爵ガーター勲章士(KG)
親族 第5代ラトランド公ジョン(父)
第7代ラトランド公ジョン(弟)

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 スタンフォード選挙区英語版
ノース・レスターシャー選挙区英語版[1]
在任期間 1837年7月24日 - 1852年7月7日
1852年7月7日 - 1857年1月20日[1]

イギリスの旗 貴族院議員
在任期間 1857年1月20日 - 1888年3月3日[1]
テンプレートを表示

第6代ラトランド公爵チャールズ・セシル・ジョン・マナーズ: Charles Cecil John Manners, 6th Duke of Rutland, KG1815年5月16日 - 1888年3月3日)は、イギリス政治家貴族

爵位を継承する1857年までグランビー侯爵(Marquess of Granby)の儀礼称号を使用した[2]

経歴[編集]

1815年5月16日に第5代ラトランド公爵ジョン・マナーズの三男としてロンドン・アーリントン通り(Arlington Street)に生まれた[2][3]。母はその夫人で第5代カーライル伯爵フレデリック・ハワードの娘エリザベス。兄二人は早世している。また弟に後にラトランド公爵位を継承するジョンがいる[4]

イートン校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学[2]

1837年から1852年にかけてスタンフォード選挙区英語版、ついで1852年から襲爵して貴族院へ移籍する1857年までノース・レスターシャー選挙区英語版から選出されて庶民院議員を務める[1]

1843年から1846年にかけては王配アルバート寝室侍従長英語版となる[2]

1847年に保守党が保護貿易派と自由貿易のピール派に分裂した際には、保護貿易派の指導者となった[2]

ジョージ・ベンティンク卿が保守党庶民院院内総務を辞職した後の1848年2月10日、保守党首スタンリー卿の指名によりその地位を継承した。しかしグランビー卿はすぐにも自らがその器ではないと自覚するようになり、同年3月4日をもって辞職した。以降、保守党庶民院院内総務の座はしばらく空席となった[5]

1849年1月になってグランビー卿はベンジャミン・ディズレーリジョン・チャールズ・ハリス英語版とともに三人の委員会を創設して保守党庶民院を指導するようになった。しかし庶民院保守党の実質的な指導者はすでにディズレーリとなっていた。そのためピール派のアバディーン伯爵は庶民院保守党の三人委員会を「シエイエスロジャー・デュコフランス語版ナポレオン」(フランスの総裁政府)に例えている[6]。グランビー卿は1851年にその職位から辞職した。これを機に委員会は解散することになり、ディズレーリが名実ともに保守党庶民院院内総務に就任した[6]

1857年1月20日に父から第6代ラトランド公爵位を継承する[2]。1852年から1857年にかけてはリンカンシャー州総督英語版、ついで1857年から1888年までレスターシャー州総督英語版を務めた[2]

1867年ガーター勲章を受勲した[2]

1888年3月4日、ラトランド公爵家の居城であるレスターシャービーバー城英語版で死去[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d UK Parliament. “Marquess of Granby” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年1月7日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i "Granby, Charles Cecil John, Marquess of. (GRNY832CC)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  3. ^ Lundy, Darryl. “Charles Cecil John Manners, 6th Duke of Rutland” (英語). thepeerage.com. 2014年1月7日閲覧。
  4. ^ Lundy, Darryl. “John Henry Manners, 5th Duke of Rutland” (英語). thepeerage.com. 2014年7月31日閲覧。
  5. ^ ブレイク(1993) p.303
  6. ^ a b ブレイク(1993) p.310

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
トーマス・チャップリン英語版
ジョージ・フィンチ英語版
スタンフォード選挙区英語版選出庶民院議員
1837年英語版1852年英語版
同一選挙区当選者
トーマス・チャップリン英語版1837年-1838年
サー・ジョージ・クリーク准男爵英語版1838年-1847年
ジョン・チャールズ・ハリス英語版1847年-1852年
次代
ジョン・チャールズ・ハリス英語版
サー・フレデリック・セシジャー英語版
先代
チャールズ・マナーズ卿英語版
エドワード・ファーナム英語版
ノース・レスターシャー選挙区英語版選出庶民院議員
1852年英語版1857年英語版
同一選挙区当選者
エドワード・ファーナム英語版(1852年–1857年)
次代
エドワード・ファーナム英語版
ジョン・マナーズ卿
名誉職
先代
初代ブラウンロー伯爵英語版
リンカンシャー州総督英語版
1852年1857年
次代
第2代ヤーボロー伯爵英語版
先代
第5代ラトランド公爵
レスターシャー州総督英語版
1857年1888年
次代
第3代ハウ伯爵英語版
党職
先代
ジョージ・ベンティンク卿
保守党庶民院院内総務英語版
1848年
次代
空席
先代
空席
保守党庶民院院内総務
ディズレーリ及びJ.C.ハリス英語版とともに

1849年1851年
次代
ベンジャミン・ディズレーリ
イングランドの爵位
先代
ジョン・マナーズ
第6代ラトランド公爵
1857年1888年
次代
ジョン・マナーズ