チャールズ・ビーチャー・ウォーレン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
チャールズ・ビーチャー・ウォーレン

チャールズ・ビーチャー・ウォーレン(Charles Beecher Warren, 1870年4月10日 - 1936年2月3日)は、アメリカ合衆国外交官政治家

目次

生い立ちと第一次世界大戦 [編集]

ウォーレンは1870年4月10日ミシガン州ベイシティにおいて誕生した。第一次世界大戦中はアメリカ陸軍に所属し、法務総監部のスタッフとして勤務した。終戦時には中佐の地位に就いており、陸軍殊勲章を授与された[1]

ウォーレンは1908年1912年1916年にミシガン州の代表代理として共和党全国大会に出席した。また1924年1928年1932年には正規の代表として同大会に出席した。

駐日大使 [編集]

ウォーレンは1921年から1922年まで駐日大使を務めた。ワシントン会議を間近に控えていたこともあり、極東地域における軍事秩序の問題から、ウォーレンの日本派遣はアメリカにとって大きな期待であった[2]

ウォーレンの大使信任に際しては、日米協会会長の金子堅太郎が晩餐会を主宰した。ウォーレンはこの晩餐会の席でワシントン会議について言及し、認識の不一致を解消する絶好の機会であると述べた。また日本に対する敬意を率直に表明した[3]

駐日大使時代、ウォーレンは大使館のある東京以外でも活動を行った。1922年感謝祭の後、ウォーレンは息子2人とともに朝鮮、満州、北京を訪問した[4]

1923年1月末、ウォーレンは東京を離れるにあたり、皇后への面会を行った。加えてウォーレンは、内田外相徳川公爵、および駐米大使に指名されたばかりの埴原正直前外務次官らとともに、宮中晩餐会に出席した[5]

駐墨大使 [編集]

1924年、ウォーレンは駐メキシコ大使を務めた。退任後、カルビン・クーリッジ大統領はウォーレンを2度にわたって司法長官に指名したが、いずれも上院において僅差で棄却された[6]

1936年2月3日、ウォーレンはミシガン州グロースポイントにおいて死去した。ウォーレンの遺体はデトロイトエルムウッド墓地に埋葬された。

脚注 [編集]


外部リンク [編集]

外交職
先代:
ローランド・モリス
在日本アメリカ合衆国特命全権公使
1921年9月24日 - 1922年1月28日
次代:
サイラス・ウッズ
先代:
ヘンリー・プレイザー・フレッチャー
在メキシコアメリカ合衆国特命全権大使
1924年3月31日 - 1924年7月22日
次代:
ジェイムズ・シェフィールド