チャールズ・エルミー・フランカテリ

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チャールズ・エルミー・
フランカテリ
生誕 1805年
大英帝国ロンドン
死没 1876年8月10日
大英帝国イーストボーン
職業 料理人
フランカテリのフランス料理の師匠、アントナン・カレーム
ヴィクトリア女王の居城、ウィンザー城
フランカテリと共に当時イギリス最高のシェフだったアレクシス・ソィエ(1849年)
1840年代のリフォーム・クラブ(中央大広間を囲む2階回廊)
イングリッシュ・ブレックファストのバブルアンドスクイーク(左)
『料理人の手引と家政婦・執事の案内』の前菜挿絵

チャールズ・エルミー・フランカテリ(Charles Elmé Francatelli 1805年 - 1876年)は 、ヴィクトリア朝イングランドの著名な料理人である。

生涯[編集]

出生から料理人になるまで[編集]

1805年にロンドンイタリア系イングランド人の家系に生まれたフランカテリは、フランスで教育を受け、パリ料理カレッジで料理を学んだ。彼はフランスでオートキュイジーヌ(高級フランス料理)の大家のアントナン・カレーム (Marie-Antoine Carême) らの下で働きシェフパティシエとしての技能を身につけた。

貴族の料理人から高級社交クラブのシェフへ[編集]

イングランドに戻ると、フランカテリはチェスターフィールド伯(Earl of Chesterfield)、ダドリー伯 (Earl of Dudley)、エロール伯(Earl of Errol)、パースシャーのキナード卿 (Lord Kinnaird) など様々な貴族の料理人を務めた後、1839年にロンドンのセントジェームズ通りにあった上流階級社交クラブ「クロックフォード・クラブ」 (Crockford's Club) のシェフ兼支配人となった。そのポストは、当時ヨーロッパ最高のシェフの一人であるとの評判だったルイ・ウスターシュ・ユード(Louis Eustache Ude)[1] が報酬問題でもめて辞任したために空いたポストだった[2]

女王陛下の料理長時代[編集]

クロックフォード・クラブでフランカテリは間もなくイギリス王室執事の目にとまり、1841年ヴィクトリア女王直属の料理長兼給仕長として抜擢されウィンザーで働くこととなった。しかし、彼はわずか1年間しか王室に仕えなかった。その理由としては、ヴィクトリア女王がフランス料理を好まなかったとも、アルバート王配が贅を尽くした料理を好まなかったともいわれているが、実際にどうだったのかは明らかにされていない[3]。いずれの理由にせよ、1842年にフランカテリはわずか1年間仕えただけで王室料理長の職を辞した。

高級社交クラブのシェフ時代[編集]

王室料理長の職を辞した後、フランカテリはロンドンのピカデリー通りの高級社交クラブ「コベントリーハウス・クラブ」 (Coventry House Club) のシェフ兼支配人となる。なお、この社交クラブはその後1869年に「セントジェームズ・クラブ」 (St James's Club)[4] に改称し、ロンドンの最高級紳士クラブの一つとして社交界にその名を知られる存在になる[5]

1854年にフランカテリは当時ロンドン最高のシェフと評判されていたアレクシス・ソィエ (Alexis Soyer) が辞任した後任としてロンドンのペルメルにある高級社交クラブ「リフォーム・クラブ」 (Reform Club)[6] の料理長に起用される。ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンのイングランド人社会学者のスティーヴン・メネル (Stephen Mennell) は、中世から現代までの英仏の食文化を考察した著書の中で、「19世紀半ば頃にイングランドで最も名声が高かった料理人は、アレクシス・ソィエとチャールズ・エルミー・フランカテリの2人である」と述べている。また、当時リフォーム・クラブの会員で彼らと交流があったスコットランド人作家ジャーナリストチャールズ・マッケイは、自らの回顧録の中で、ソィエを「活気に溢れるが神経質、上品ではないが頭が良い、芸術家肌のフランス人」、フランカテリを「料理人としてソィエより上だとは言い切れないが、社会的地位が高く教養があり、礼儀正しく紳士的なイタリア人」とある意味で対照的な人物評を残している。ユードやソィエのように腕はピカイチだが使いにくいシェフに懲りた社交クラブ経営者には、フランカテリは後釜として最適な人材に見える紳士だったようである。 しかし、フランカテリはリフォーム・クラブで7年間料理長を務めた後に解雇される。マッケイによると、彼がリフォーム・クラブを解雇された原因は、彼の料理人としての腕ではなく取締役への態度にあり、「店のオーナーであるかのようにふるまうようになったフランカテリを取締役会が追い出したが、名声が高い彼は直ぐに次の良い仕事を見つけた」ということで、既に名声を確立し料理人として引く手数多のフランカテリは、彼を煙たがるオーナーに解雇されても金銭的に困るような状況では全くなかったようである。

ホテル・レストランのシェフ時代[編集]

その後フランカテリは1863年から1870年までロンドン、ピカデリーのバークレー通りにあった高級ホテルの「セントジェームズ・ホテル」 (St James's Hotel)[4] のシェフ兼支配人を務めた後、ロンドンのグレートクイーン通りにあった高級レストラン「フリーメーソンズ・タヴァーン」 (Freemasons' Tavern)[7] のシェフ兼支配人を1876年まで務め、同年8月10日にイーストボーンで亡くなった。当時、彼の死を悼んでイギリスの新聞タイムズは「傑出したシェフ」の表題の死亡記事を掲載した。

なお、フランカテリ没後に生まれた彼の従妹のローラ・メーベル・フランカテリ(1880年 - 1967年)は豪華客船タイタニックの沈没事故の生存者の一人である。彼女は有名なファッションデザイナーのダフ-ゴードン夫人 (Lady Duff-Gordon) の秘書としてタイタニックに同行していた。当時、ダフ-ゴードン夫人はローラの妹のフィリス・フランカテリもモデルとして雇っていた。

料理文化の伝道[編集]

フランカテリは口の肥えた王侯貴族を料理で楽しませるに足るだけの華やかな経験や洗練された技術を持っていたが、簡素な料理をこよなく愛しその普及に尽くした。彼の最初の著書『現代の料理人』 (The Modern Cook) は、評判の高い彼の贅沢な料理のレシピの一部を一般の手の届くように工夫、簡素化したものを盛り込んだ本である。ただし、全般的な内容は本質的には彼がフランスで学んだオートキュイジーヌの様式に基礎を置く高級フランス料理であり、例えば冒頭は104種類のソースのレシピの体系的な紹介から説き起こされている。本書は1845年にイギリス、翌1846年アメリカ合衆国で出版されると大西洋の両岸で大いに世間の好評を博し、29版を重ねる定番書となった。

フランカテリはイギリスの有名な貴族や郷紳たちに豪華で手の込んだ料理を日々提供する一方で、料理においては倹約家としても知られていた。彼が述べた「毎日ロンドンで捨てられる食べ物だけで千軒の家族が食べていける」という言葉は、彼の倹約家振りを象徴する言葉としてよく引き合いに出される。このような倹約主義的な考え方に沿って、フランカテリは労働者階級にとって実用的価値がある情報を収載した『労働者階級のための気取らない料理の本』 (A Plain Cookery Book for the Working Classes) を1852年に出版した。彼はその中で牛足のスープ、バブルアンドスクイーク(牛肉キャベツなどの残り物野菜の炒め物、bubble and squeak)、もつ、鳥のプディングなどの経済的で気が利いた料理をいくつも紹介した。

その後、1861年にフランカテリが出版したのが、イギリス内外の料理に関する実践的な手引書である『料理人の手引と家政婦・執事の案内』 (The Cook's Guide and Housekeeper's & Butler's Assistant) である。本書は多数のレシピのほか、ワインの出し方、病人食の調理法、食通向けのサラダ、健康飲料、を含むアメリカの飲み物などについても紹介しており、英米の多くの家庭で座右の書として重宝されることとなった。

フランカテリの4冊目にして最後の料理書は、菓子製造の技法について書いた『大英帝国と海外の菓子の本』 (Royal English and Foreign Confectionery Book) である。彼は1862年に出版した本書で、凝った芸術的な菓子の作り方、果物果肉果汁の保存法、ジャムゼリーシロップの作り方、酒・飲み物の作り方、デザートケーキパンキャンディーボンボン、コンフィット(ドライフルーツナッツ入りの糖菓)、エッセンスコーディアル(ノンアルコール果汁飲料)の作り方、そして流行のデザートの経済的な作り方などを紹介している。

このように、フランカテリはフランスで身につけた料理に関する高度な技能を、卓越した料理人として王侯貴族など富裕な上流階級に豪華な料理を供するためだけに活用するにとどめず、一般市民に利用しやすいよう創意工夫した著作を出版して広く知識を共有し、洗練された料理文化の英米の中産階級および労働者階級への普及に大きな影響を与えた人物としても歴史にその名を残した[8]

著作リスト[編集]

  • 『現代の料理人』 (The Modern Cook) 、1846年
  • 『労働者階級のための気取らない料理の本』 (A Plain Cookery Book for the Working Classes) 、1852年
  • 『料理人の手引と家政婦・執事の案内』 (The Cook's Guide and Housekeeper's & Butler's Assistant)、1861年
  • 『大英帝国と海外の菓子の本』 (Royal English and Foreign Confectionery Book)、1862年

脚注[編集]

  1. ^ ユードはフランス国王ルイ16世の料理人だった父の下で、ブルボン朝の王室厨房で見習いとしてフランス料理を学んだフランス人シェフである。フランスでナポレオン・ボナパルトの母のマリア・レティツィア・ボナパルトの料理人として働いた後にイギリスに渡り、以後生涯をイギリスでフランス料理のシェフとして過ごした。ユードは渡英後リバプールでセフトン伯ウィリアム・フィリップ・モリニューの料理人を20年間近く務めた後、ヨーク公フレデリック・オーガスタスの料理人を経て1827年にクロックフォード・クラブの初代シェフとして抜擢された。フランカテリがユードから引き継いだクロックフォード・クラブの厨房は、ユードが同クラブの創業時に高級フランス料理のための厨房として特別に設計したものだった。ユードはクロックフォード・クラブを辞職した後、ロンドン、メイフェアのアルバマール通りの高級社交クラブ「ユナイテッド・サービス・クラブハウス」(United Service Club-House) でシェフとして働いた。
  2. ^ 当時のイギリスでは最高の料理人を雇い最高級の料理を提供していた飲食店は会員制の高級社交クラブや高級ホテルなどに限られており、それを利用できるのは王侯貴族など上流階級だけで、一般庶民には全くの高嶺の花だった。
  3. ^ Charles Elme Francatelli, www.thecooksguide.com (英語)より。
  4. ^ a b これは現在ロンドンのパークプレースにある5ツ星ホテルのセントジェームズ・クラブアンドホテル (St James's Club and Hotel) と名前がほとんど同じだが経営上無関係である。
  5. ^ セントジェームズ・クラブは、小説家のイーヴリン・ウォーが会員だったほか、「ジェームズ・ボンド」シリーズで有名な小説家イアン・フレミング第二次世界大戦中に一時住んでいたことでも知られている。
  6. ^ リフォーム・クラブはトラベラーズ・クラブ(Travellers Club)と並んでイギリスの最高級社交クラブのひとつであり、会員には、政治家では元首相のローズベリー伯アーチボルド・プリムローズ、パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルウィリアム・グラッドストンハーバート・ヘンリー・アスキスデビッド・ロイド・ジョージウィンストン・チャーチルや、元欧州委員会委員長のロイ・ジェンキンスがいた。小説家では、アーサー・コナン・ドイルE・M・フォースターヘンリー・ジェイムズウィリアム・メイクピース・サッカレーハーバート・ジョージ・ウェルズ経済学者ではフリードリヒ・ハイエクも会員だった。また、映画では「007 ダイ・アナザー・デイ」や「ミス・ポター」などに登場する。
  7. ^ この施設は高級レストラン兼宴会場で、フリーメーソンの会員以外も利用することができた。
  8. ^ ただし、メネルはフランカテリを忠実な「カレームの弟子」であると位置づけ、彼が『現代の料理人』で提示したレシピは保守的でオートキュイジーヌからの革新が最小限であり、当時イギリスでは一般には手に入りにくかった非常に高価な食材を使うレシピが依然として大半で、イギリスの一般市民にはほとんど手の届かないものだったと批判している。もっとも、メネルは当時レシピの革新性を高く評価されていたソィエすら「イギリス的要素の受容は限定的」と厳しく評価している。フランカテリやソィエの努力である程度の進歩があったとはいえ、最高の料理人のレシピで作った洗練された料理の多くにイギリス一般市民の手が届くまでには、次世代以降のイギリスの料理人によってさらなるレシピの「現地化」が進むのを待たねばならなかった。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • Charles Elme Francatelli, www.thecooksguide.com
  • Charles Elme Francatelli, Practically Edible
  • Stephen Mennell (1996) All Manners of Food - Eating and Taste in England and France from the Middle Ages to the Present (Second Edition), pp.151-157, University of Illinois Press, Champaign, Illinois.
  • Charles Mackay (1887) Through the Long Day - Memorials of a Literary Life During Half a Century, pp.105-109, W.H. Allen & co., Pall Mall, London.
  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed (1911). Encyclopædia Britannica (11 ed.). Cambridge University Press.