チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国

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チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国
Чечено-Ингушская Автономная Советская Социалистическая Республика  (ロシア語)
Нохч-Гӏалгӏайн Автономни Совецки Социалистически Республика  (チェチェン語)
Нохч-Гӏалгӏай Автономни Советски Социалистически Республика  (イングーシ語)
チェチェン自治州
イングーシ自治州
1934年 - 1944年
1957年 - 1993年
北オセチア自治ソビエト社会主義共和国
ロシア
チェチェン・イチケリア共和国
イングーシ共和国
チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国の国旗 チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国の国章
1978年-1992年までの国旗(国章)
チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国の位置
1957年のカフカース地方の地図
首都 グロズヌイ
議長
1934年 - 1937年 アリ・ゴルチュハノフロシア語版
1990年 - 1991年ドク・ザヴガエフロシア語版
面積
1957年19,300km²
人口
1939年国勢調査[1]697,009人
1959年国勢調査[2]710,424人
1970年国勢調査[3]1,064,471人
1979年国勢調査[4]1,155,805人
1989年国勢調査[5]1,270,429人
変遷
チェチェン・イングーシ自治州の発足[6] 1934年1月15日
自治共和国に昇格1936年12月5日
廃止1944年3月7日
再設置1957年1月9日
チェチェン分離独立派による分割宣言1991年10月1日
ロシア政府の分割承認1991年11月
正式に分割1993年1月9日
現在ロシアの旗 ロシア
- チェチェン共和国の旗 チェチェン共和国
- イングーシ共和国の旗 イングーシ共和国
1934年時点のチェチェン・イングーシ自治州の地図
現在のカフカス。チェチェン+イングーシが、1957年から1992年までのチェチェン・イングーシ

チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国(チェチェン・イングーシじちソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、ロシア語: Чечено-Ингушская Автономная Советская Социалистическая Республикаチェチェン語: Нохч-Гӏалгӏайн Автономни Совецки Социалистически Республикаイングーシ語: Нохч-Гӏалгӏай Автономни Советски Социалистически Республика)またはチェチェン・イングーシASSRは、ソビエト連邦ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国およびロシア連邦に、1934年から1944年までと1957年から1992年まで存在した自治共和国である。チェチェノ・イングーシとも呼ぶ。

現在のチェチェン共和国イングーシ共和国および、1944年までは現在の北オセチア共和国の一部を領域とした。1957年以降の面積は1万9300平方キロ首都グロズヌイで、現在はチェチェン共和国の首都となっている。

歴史[編集]

チェチェン人とイングーシ人は元来同じ民族だったが、ロシア帝国の民族分断政策により、1859年、2つの民族に分けられた。1860年には、チェチェン州とイングーシ州が置かれた。

ロシア革命後の1921年、チェチェンとイングーシを含む一帯に山岳自治ソビエト社会主義共和国が設置された。1922年11月30日にはチェチェン自治州が、1924年7月7日にはイングーシ自治州英語版が分離された。1934年、2自治州が合併し、チェチェン・イングーシ自治州となり、1936年にはチェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国に昇格した。

第二次世界大戦中の1942年、チェチェン・イングーシの一部はナチス・ドイツ占領下となり、3万以上のチェチェン人が赤軍側で戦った。ソ連が支配権を回復した1944年ヨシフ・スターリンの命により、チェチェン人とイングーシ人は全員が中央アジアシベリア強制移住させられ、多くが死亡した。共和国は廃止となり、領域は北オセチア自治ソビエト社会主義共和国ダゲスタン自治ソビエト社会主義共和国グルジア・ソビエト社会主義共和国に分割された。

1957年ニキータ・フルシチョフスターリン批判により、チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国は再建され、住民も生存者は帰還した。ただし、北オセチア領となった領域の一部は復帰せず、北オセチア領のままとなった。この領域をめぐって、ソ連崩壊後、イングーシ共和国が領有を主張してオセチア・イングーシ紛争が起こっている。

1990年11月、独立宣言1991年5月にはチェチェン・イングーシ共和国に改名した。10月1日、チェチェン分離独立派はソ連からの独立を一方的に宣言し、イングーシ人居住地はイングーシ共和国として分割を宣言した。11月には共和国とロシア連邦との間で、独立を認めない代わりに共和国をチェチェン共和国イングーシ共和国に分割することを合意したが、チェチェン・イングーシ共和国はその後も形式上存続した。1992年6月4日にイングーシ共和国の設置を認める大統領令が成立し、1993年1月9日に発効したことで、チェチェン・イングーシ共和国は正式にチェチェン共和国とイングーシ共和国に分割された[7]

住民[編集]

主な住民はチェチェン人イングーシ人ロシア人だった。1989年の統計では、民族構成は以下のとおり。

  • チェチェン人 - 95万6879人
  • ロシア人 - 26万9000人
  • イングーシ人 - 23万7438人

ただし、現在のこの地域では、チェチェン紛争などの政情不安によりロシア人の多くが域外へ脱出している。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Всесоюзная перепись населения 1939 года. Чечено-Ингушская АССР”. Демоскоп Weekly. 2022年10月28日閲覧。
  2. ^ Всесоюзная перепись населения 1959 года. Чечено-Ингушская АССР”. Демоскоп Weekly. 2022年10月28日閲覧。
  3. ^ Всесоюзная перепись населения 1970 года. Чечено-Ингушская АССР”. Демоскоп Weekly. 2022年10月28日閲覧。
  4. ^ Всесоюзная перепись населения 1979 года. Чечено-Ингушская АССР”. Демоскоп Weekly. 2022年10月28日閲覧。
  5. ^ Всесоюзная перепись населения 1989 года. Чечено-Ингушская АССР”. Демоскоп Weekly. 2022年10月28日閲覧。
  6. ^ Checheno-Ingush”. Worldstatemen.org. 2022年10月28日閲覧。
  7. ^ Ingushetia (Ingushetiya)”. Worldstatemen.org. 2022年10月28日閲覧。