ダーウィン (オーストラリア)
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ダーウィン(Darwin)はオーストラリア連邦ノーザンテリトリー準州の首府である。人口は約11万人(2003年)。オーストラリア大陸北側のチモール海沿いに位置する。オーストラリアではアジアに最も近い位置にあることから、非常に多文化的な都市となっている。75の民族が見受けられ、人口の約4分の1がアボリジニなどの原住民である。また、ノーザンテリトリーで唯一の大学であるチャールズ・ダーウィン大学の所在地でもある。
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[編集] 歴史
- 主要記事:History of Darwin
現在のダーウィン市の近郊には、1824年から1860年代末までイギリスが入植と撤退を繰り返し、市街は安定しなかった。その間の1839年にイギリス海軍の軍艦ビーグル号のジョン・ロート・ストークスによって港に好適な入り江が発見された。船長のジョン・クレメンス・ウィッカムはイギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィンにちなんで、この入り江をポート・ダーウィン(ダーウィン港)と名づけた。チャールズ・ダーウィンとウィッカム、ストークスらはビーグル号の前回の探検航海で同船仲間であった。ただしこの時点ではポートダーウィンは非公式な名称であった。時にダーウィンがこの地を訪れたことに由来する、と説明されるが[1]、ダーウィンが乗船した航海ではビーグル号はシドニーからオーストラリア南岸を通過しており、当地には立ち寄っていない。
ノーザンテリトリーは当初南オーストラリア州に属していた。1869年、イギリス政府の主任監督者G.W. Goyderによって、135人の男女がポートダーウィンに小さな入植地を建設した。Goyderはこの入植地に、イギリスの首相パーマストン卿にちなんでパーマストンと命名した。1870年に大陸間電信のための最初の電柱が建てられた。1880年代にはパイン・クリークで金が発見され、パーマストン入植地は大きく発展した。オーストラリア連邦政府は1911年にノーザンテリトリーを直轄地とし、同時にダーウィンが当市の公式な名称になった。
太平洋戦争中の1942年2月19日に、ダーウィンは二度にわたり、242機の日本軍艦載機を主力とする部隊に爆撃を受けた。この爆撃で使用された爆弾の数はおそらく真珠湾の時よりも多かったと考えられ、ダーウィンの歴史を考える上で欠かせない事件である(日本のオーストラリア空襲)。この攻撃によって少なくとも243人が死亡し、街は大きな損害を被るなど、当時のオーストラリアにとって最も深刻な事件であった。以降ダーウィンは1943年まで断続的に空襲を受けた。
1974年12月25日にはサイクロンにより50人が死亡し、街の建物の70パーセントが破壊された。これにより約3万人が航空機により避難した。街は1970年代後半に新しい建材や技術により再建された。衛星都市であるパーマストンは、1980年代前半にダーウィンの南20 kmの位置に建設された。
2003年9月17日、オーストラリア大陸縦断鉄道が開通し、鉄路でアデレードと結ばれた。
[編集] 気候
ダーウィンは乾季と雨季を持つ熱帯気候帯にある。5月から9月までが乾季である。6月と7月が最も涼しい時期であり、気温は19℃から30℃である。雨季はサイクロンと季節風による雨を伴う。降水量の最も多い時期である12月から3月には激しい雷雨がよく発生し、湿度は70パーセントを超える。
[編集] 経済
ダーウィンの経済は政府支出にやや依存している。オーストラリア軍の東ティモール安定化への継続的な参加により、ダーウィンの軍関係の人口は増加した。ダーウィンの重要性は、チモール海の石油開発やアジアとの貿易の拡大によって、今後も増大すると予測されている。
近年鉄道が開通したが、物流の主流はトラックであり、中でもロードトレインと呼ばれる長大トラックが走る。
[編集] その他
[編集] 姉妹都市
- Milikapiti、Tiwi Islands
- ディリ(東ティモール民主共和国)
- ホノルル(アメリカ合衆国)
[編集] 脚注
- ^ JTBパブリッシング 『ワールドガイド オーストラリア'07』、実業之日本社『ブルーガイドわがまま歩き16 オーストラリア』ほか

