ダイダラボッチ

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勝川春章勝川春英画『怪談百鬼図会』より「大入道」。ダイダラボッチのイメージに近いものと考えられている[1]

ダイダラボッチは、日本の各地で伝承される巨人。類似の名称が数多く存在するが、以下では便宜的にダイダラボッチと呼称する。山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられている(や大男などの妖怪伝承が巨人伝承になったという説もある。)[2]

概要[編集]

柳田國男が「ダイダラ坊の足跡」(1927年昭和2年〉4月、『中央公論』)[3]で日本各地から集めたダイダラボッチ伝説を考察している[* 1]。江戸後期の柳亭種彦による随筆、『用捨箱』には「大太発意(だいだぼっち)は大男を謗りいひしにて、一寸法師の反対なり」とある[4]南方熊楠は「大太ボッチ」の「大太」を「大太郎」の略であると推測している[5]

名称[編集]

「でいだらぼっち[6]」、「ダイランボウ[7]」、「だいだらぼう[8]」、「でいらんぼう[9]」、「だいらぼう[10]」、「デエダラボッチ[11]」、「デイラボッチ[10]」、「デイラボッチャ[12]」、「デーラボッチャ[12]」、「デエラボッチ[13]」、「デーラボッチ[14]」、「タイタンボウ[2][* 2]」、「デエデエボウ[15]」、「デイデンボメ[15][* 3]」、「ダイトウボウシ[15]」、「レイラボッチ[15]」、「ダダ星[15]」、「おおきいぼちゃぼちゃ」[16]等様々な呼び名がある。大太法師(だいだらぼっち)[17]大太郎坊(だいだらぼう)とも表記し、九州では大人弥五郎(おおひとやごろう)と呼ばれる[2]

文献[編集]

常陸国風土記[編集]

奈良時代に成立した『常陸国風土記』のうち、常陸国の那賀郡(なかのこおり[18] 現在の茨城県那珂郡なかぐん〉)について記された「那賀略記」には、大昔の「大櫛之岡(おおくしのおか)」にいたという長大な人についての記述(平津駅家条)が以下のようにある。[19][20][21][22][23]

 原 文 》 ※縮小文字は原本上の補足。※和字間隔は現代の補足。
平津驛家西一二里 有岡 名曰 大櫛 上古有人 體極長大 身居丘壟之上 手摎海濱之蜃 大蛤也 其所食貝 積聚成岡 時人 取大朽之義 今謂大櫛之岡 其踐跡 長卌餘歩 廣廿餘歩 尿穴徑可廿餘歩許 — 『常陸國風土記』那賀略記
書き下し文》 振り仮名文語体
平津駅家ひらつのうまやの西一二いちにをかあり。名を大櫛おほくしふ。上古いにしへ、人あり。かたちきはめて長大たけたかく、丘壟をかうへながら、手は海浜うみべたうむきくじりぬ。大蛤おほうむき なりらひしかひ積聚つもりてをかなりき。時人ときのひと大朽おほくちこころりて、今は大櫛之岡おほくしのをかふ。そのみしあとは、長さしじふ あしあまり、広さ廿にじふ あしあまり尿穴ゆまりのあなわたり 廿にじふ あしあまり ばかりなり。
口語解釈例》 ※振り仮名は口語体。[ ]内は文意を整えるための補足文。( )内の※に続く記述は注釈。
常陸国ひたちのくに那賀郡なかのこおりにある交通の要衝・]平津駅家ひらつのうまやから西へ一二いちにもしくは1里・2里ほど行った所[* 4]おか)があり、名を「大櫛(おおくし)」という。大昔、[この地に]人がいた。[その人の]からだは極めて長大ちょうだいで、岡の上にいながらにして手は海浜うむきを掘り起こしてしまう。[それほどの巨人であった。][ここでいううむきとは]大蛤おおうむきである(※『うむき(蜃、蛤)』はハマグリ古語[* 5]。その[巨人の]食べた[の]は、積もり積もって岡になった。当時の人(※現代〈すなわち、奈良時代〉の我々から見て大昔の人々)は[“大量の貝が朽ちている”意をもって、この岡を]「大朽(おおくち)」と呼んだが、[それが訛って]今は「大櫛之岡(おおくしのおか)」という(※比定地は大串貝塚おおぐし かいづか。その所在地は、現在の茨城県水戸市塩崎町1064-1[* 6]、かつての東茨城郡常澄村塩崎[20][* 7])。その[巨人の]足跡は、おおよそ、長さ40あまり、幅20あまりで、尿の穴(※立ち小便によって穿たれた穴)は直径20あまりであった。

考古学等の諸分野においても、係る「大櫛之岡の巨人伝説」とその比定地・大串貝塚は相当に重要で、縄文時代貝塚遺跡文献に記されている最古の例[24][25]、もっと言えば、石器時代遺跡の記録された日本最古の例[26][27]として知られている。

播磨国風土記[編集]

奈良時代に成立した『播磨国風土記』ののうち、播磨国の託賀郡(たかのこおり)(現在の兵庫県多可郡たかぐん〉)について記された「託賀略記」には、天が高いから楽に立って歩けると言ってこの地を好み、沼と化す数多の足跡を残した、大人(おおひと)の伝説が記されており、先述した『常陸国風土記』に所収されている“大櫛之岡の巨人伝説”(大櫛之岡の長大な人の伝説)の類型と考えられている。

 原 文 》 ※縮小文字は原本上の補足。※和字間隔は現代の補足。
此當為上 所以名 託賀者 昔 在大人 常勾行也 自南海到北海 自東巡行之時 到來此土云 他土卑者 常勾伏而行之 此土高者 申而行之 高哉 故曰 託賀郡 此云 高也 申 伸也 其踰跡處 數數成沼 — 『播磨國風土記』託賀略記 [28]
《 大 意 》 
昔、[播磨国はりまのくにの]託賀郡たかのこおりには大人おおひと(※巨人)がいた。[大人は]常に屈んで歩いた。[大人は]南海から北海へ到り、東を巡ってこの地にやってきた時、「他の地は[天が]低くて常に屈んで歩いていたが、この地は[天が]高くてまっすぐ立って歩ける」と言った。それゆえに、この地を「タカ(高)」の意をもって「託賀郡」という。[大人の]足跡は数々の沼になった。

各地の伝承[編集]

山を作る・運ぶ[編集]

  • 富士山を作るため、甲州の土を取って土盛りした。そのため甲州は盆地になった[29]
  • 富士山を作るため近江の土を掘り、その掘った跡地が琵琶湖となった[17]。この伝説の縁で1968年富士宮市近江八幡市は夫婦都市となっている[17]
  • 上州の榛名富士を土盛りして作り、掘った後は榛名湖となった。榛名富士が富士山より低いのは、もう少し土を運ぼうとしたが夜が明け、途中でやめたためである[30]
  • 浅間山が、自分より背の高い妹の富士山に嫉妬し、土を自分にわけろといった。富士山は了解し、だいだらぼっちが自分の前掛けで土を運んだ。しかし浅間山は土の量が足りないと怒り、彼を叩いた。その際にこぼれた土が前掛山となった。怒りだした浅間山はついに噴火してしまった。
  • 西の富士、東の筑波と呼ばれる関東の名山の重さを量ろうとし天秤棒に2つの山を結わえつけ持ち上げると、筑波山のほうは持ち上がったが富士山は持ち上がらない。そのうちに結わえていたつるが切れ、筑波山が地上に落ちてしまった。その衝撃でもともと1つの峰だった筑波山は、2峰になってしまったという。
  • 信州佐久郡を運んでいた時、もっこが切れ、平尾山と糠塚山ができた[31]
  • 富士山と八ヶ岳が背比べをして、八ヶ岳が勝ったが、それを妬ましく思った富士山に蹴られ、山が八つに割れた。それを治そうとデエダラボッチが茅で出来たもっこで土を運び、線香を杖にしたら折れてしまい、暫く置いておいたら大泉山と小泉山が出来た(諏訪地方茅野市)。
  • 信州安曇郡で西側の飛騨山脈から削り取った土を東側の山地に運んでいた時、もっこの綱が切れ、室山ができた。

足あと・手のあとを残す[編集]

  • 上州の赤城山に腰掛けて踏ん張ったときに窪んで出来た足跡が水たまりになった。木部の赤沼がそれである[29]
  • 長野県大町市北部の青木湖中綱湖木崎湖からなる仁科三湖はいずれもダイダラボッチの足あとである。
  • 遠州の山奥に住んでいたダイダラボッチが子供たちを手にのせて歩いている時に、腰くらいの高さの山をまたいだ拍子に子供たちを手から投げ出してしまった。びっくりした子供たちとダイダラボッチは泣き出してしまい、手をついてできた窪みに涙が流れ込んで浜名湖となった。
  • 東京都武蔵村山市には大多羅法師が藤づるで丸山を背負い歩いた足跡が井戸になったという伝説があり、「でびいしゃら井戸」の名で現在も井戸が残っているほか[32]、毎年秋に「デエダラボッチ」の山車が登場するデエダラまつりが開催されている[33]
世田谷代田駅前広場
  • 現在、東京都世田谷区にある地名「代田」(だいた)や[2]さいたま市の「太田窪」(だいたくぼ)は、ダイタ坊(ダイダラボッチ、ダーダラボッチ)の足跡に由来すると言われている[34]。なお、代田のダイダラボッチについては2021.3.28日に小田急小田原線世田谷代田駅前にダイダラボッチをかたどった駅前広場が完成した。これを記念して当日づけで『巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ』(著作:きむらけん、発行:世田谷代田駅 駅前広場記念事業委員会)が発行された。「代田ダイダラボッチ音頭」も作曲された。[35]
大座法師池
  • 長野県戸隠山大座法師池三重県志摩郡大王町はダイダラボッチに由来する地名である[15]
  • 静岡市ダイラボウ山頂には全長150mほどの窪みがあるが、ダイダラボッチが左足を置いた跡と伝えられている。琵琶湖から富士山へ土を運ぶ途中に遺したものであるという。
  • 相模原市の伝説では「でいらぼっち」と呼ばれている。巨人が富士山を背負って運ぶ途中、大山に腰かけて一休みした。再度持ち上げようとしたが持ち上がらず、悔しがった挙句あきらめた。その際、踏ん張った左足の跡がJR淵野辺駅の南口側の鹿沼公園内の白鳥池であり、北口側のかつて菖蒲沼と呼ばれていた場所(2022年現在のエスポット淵野辺店前に碑が残る)が右足を踏ん張った跡だと言われている。また神奈川県道・東京都道57号相模原大蔵町線の鹿沼台2丁目24番付近には「じんだら沼」の標識看板があり、これはでいらぼっちが「地団駄」を踏んだという伝説の名残といわれている。相模原市南区に「大沼・小沼」の地名が残るが、かつて実在したこの二つの沼はデイラボッチが尻餅をついた跡であり、その間に「ふんどし窪」という溝状のくぼ地があったという伝承もある[36][37][38]。相模原市では「でいらぼっち伝説伝承地」として2001年に鹿沼公園内の一部を市登録史跡としている[39]
  • 小便をしようと飯野山香川県中部)に足をかけた際に山頂付近に足跡が付いた(現在もその跡であるという伝説の足跡が残っているが非常に小さい)。なお、その小便の際に出来たのが大束川といわれる。
  • 愛知県東海市の南側に加木屋町陀々法師(だだぼうし)という地名があり、ダイダラボッチが歩いて移動する際に出来た足跡が池になったとして伝説が残っている。この「足跡池」(「陀々法師池」ともいう)は名古屋鉄道八幡新田駅の南方100m辺りにあったが、1986~1987年(昭和61~62年)頃に埋め立てられ(ゼンリン住宅地図「東海市」1986年発行の1986年版、1987年発行の1988年版による)、2000年(平成12年)頃にモータースが出来て、現在その形跡はない(「ものがたり通信」の「18.ダイダラボッチの足跡」参照)。
  • 長野県佐久市安原にある二つの丸い水田は、デーラン坊の足跡だと言われる[40]
  • 比叡山につまづいて怒って蹴っ飛ばした地面に空いた穴が琵琶湖、飛んで行った土塊が淡路島になった[41]

休む・洗う・食べる[編集]

  • 赤城山に腰掛けて、利根川で足を洗った[42]
  • 羽黒山には人間がまだ誕生しない大昔、でいだらぼっちが羽黒山に腰掛けて鬼怒川を洗ったという言い伝えがある。
  • 長野県塩尻市高ボッチ高原はダイダラボッチが腰を下ろして一休みした場所であるという(諸説あり)。
  • 常陸国風土記」によると、茨城県水戸市東部にある大串貝塚は、ダイダラボッチが貝を食べて、その貝殻を捨てた場所だと言われている。その言い伝えから、近くにダイダラボッチの巨大な石像が創られている[43]
  • 碓氷峠で休んでいる時に、妙義山まで届き、その足のを猪が芋と間違えかじったので、猪を握り潰して浅間山猪鍋を煮た。なお、鍋をこぼした場所から塩気のある温泉が湧いたという[44]

人間を助ける[編集]

  • 秋田県横手盆地が湖であったので干拓事業を行った際、ダイダラボッチが現れて水をかき、泥を掬ったため工事がはかどった(鳥の海の干拓伝説)[45]。このダイダラボッチは秋田市太平山三吉神社の化身と考えられている[45]太平山及び山麓の太平地区の名は現在「たいへい」と読まれるが、明治期までは「おいだら」と読まれており、由来を巨人「オイダラボッチ」であるとする説(秋田の今と昔)がある。
  • 昔、東信濃の底だったが、デイラボッチは「岩鼻」という山を砕き水を排出し、平地を作った。それから後、その土地を、大佐久(南北佐久)と小佐久(小県)と言うようになった[46][* 8]
  • 茨城県水戸市大足(おおだら)は、土地の西南にあった山のおかげで村は一日の半分は日陰になり、日が早く暮れてしまい困っていた。そこでダイダラボッチ(この地方ではダイダラボウと呼称)は村人のために山をどけてあげた。しかし、山をどけた跡の土地がえぐれてしまい、雨が溜まるようになったので、川をつくり沼底をさらって水が流れるようにした。どけた山は水戸市・笠間市東茨城郡城里町に跨がる朝房山、作った川と沼は桜川、千波湖である[47]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ (柳田 1977)の「じんだら沼記事」(『妖怪談義』所収)にて相模原市大沼に調査に行ったとの記述あり。その地ではダイダラボッチの伝説は無かったと落胆しているが、ダイダラボッチ伝説があるのは北に5キロメートルほどずれた鹿沼であった。
  2. ^ 藤澤衛彦「巨人伝説考」、『日本伝説研究第三巻』所収。ただし、石川県立図書館の調査によれば、能登地方に「たいたん坊」という呼称は見つかっておらず、藤澤の創作の可能性がある。
  3. ^ 高木敏雄『日本伝説集』より。柳田国男の「ダイダラ坊の足跡」には「デンデンボメ」とあるが、元の出典である『日本伝説集』には「デイデンボメ」とあり、誤記である。『定本柳田国男集5』311頁参照。
  4. ^ 「一二(いちに)」は「わずか」の意。従って「一二里」は「里の単位でわずかな距離」の意。しかし「一二里」を「1・2里」の意で捉えれば、具体的距離を示すものとなり、古代日本の1里は約5.3km、2里は約10.7kmと、数値を割り出すことができる。
  5. ^ 市井の娯楽本やインターネット上の記述で、本文中の「蜃」を妖怪の「(しん)」と関連付けるものが見られるが、ここで語られている「蜃(うむき、うむぎ)」は実体があって食用にされる貝類の「蛤(うむき、うむぎ)」、すなわち「蛤(はまぐり)」のことであって、妖怪ではない。
  6. ^ 水戸市塩崎町1064-1(地図 - Google マップ
  7. ^ 江戸時代における常陸国茨城郡塩ヶ崎村、幕藩体制下の常州水戸藩知行等塩ヶ崎村。
  8. ^ 大鼠が岩鼻を食い破ったことで湖水が排水されたとする伝説もある(『日本伝説叢書 信濃の巻』157 - 159ページ)。

出典[編集]

  1. ^ 宮本幸枝・熊谷あづさ『日本の妖怪の謎と不思議』学習研究社〈GAKKEN MOOK〉、2007年、89頁。ISBN 978-4-05-604760-8NCID BA81963861 
  2. ^ a b c d 『妖怪の本』学習研究社、1999年、92,98頁。92頁の挿絵(加賀国河北郡木越の光林寺跡で大太法師の足跡を見物する人々)は『北越奇談』のものと書かれているが、正確には『古今角偉談』巻之二の「大足跡と大足跡との角偉」である。
  3. ^ 「ダイダラ坊の足跡」
  4. ^ 「大太法師」 - 精選版 日本国語大辞典、小学館。
  5. ^ 南方熊楠『ダイダラボウシの足跡』(東洋學藝雜誌 25(319)、東京社 [編]、東京社、1908-04、pp.182-185)
  6. ^ でいだらぼっち”. さがみはら百選. シニアネット相模原. 2011年2月13日閲覧。
  7. ^ 井ノ口章次他編「静岡県庵原郡両河内村」『民俗採訪』昭和29年度号、國學院大學民俗学研究会、1955年、109頁、NCID BN13889905 
  8. ^ 村上健司編著『日本妖怪大事典』角川書店〈Kwai books〉、2005年、195-196頁。ISBN 978-4-04-883926-6 
  9. ^ 和田孝弌. “「信濃でぃらんぼう音舞」普及保存会ホームページ”. 信濃でぃらんぼう音舞普及保存. 2011年2月13日閲覧。
  10. ^ a b 宮田登 著「諸国の富士と巨人伝説」、斉藤滋与史他 編『静岡県史24民俗2』静岡県、1993年、957-964頁。 
  11. ^ 竹川義徳「節分の行事」『民間伝承』5巻6号、民間伝承の会、1940年3月、5頁。 
  12. ^ a b 高木直子他 著「その他の伝説」、塚田正朋他 編『長野県史民俗編』 3巻3号、長野県、1990年、483-484頁。 
  13. ^ 中村成文「大太法師伝説四種」『郷土研究』4巻7号、郷土研究社、1916年10月、50-51頁。 
  14. ^ 井田安雄 著「群馬の伝説の代表例」、志村彦衛他 編『群馬県史資料編27民俗3』群馬県、1982年、773頁。 
  15. ^ a b c d e f 村上健司 『妖怪事典』 毎日新聞社、2000年、206,207,226頁。
  16. ^ 『佐久口碑伝説集南佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会、全332頁中105~7頁、昭和53年9月20日発行
  17. ^ a b c “富士山へ注ぐ琵琶湖の水くむ 滋賀・近江八幡、伝説が結ぶ”. 京都新聞. (2014年7月24日). http://kyoto-np.jp/shiga/article/20140724000050 2014年7月25日閲覧。 
  18. ^ 衣袖漬常陸國風土記 香島郡/那賀郡
  19. ^ 那珂川沿岸農業水利事業所. “さらに詳しく 大串貝塚と巨人伝説”. 公式ウェブサイト. 関東農政局. 2019年5月20日閲覧。
  20. ^ a b 大串貝塚”. コトバンク. 2019年5月20日閲覧。
  21. ^ 鷹野光行(博物館学者、東北歴史博物館館長). “第3回館長講座『縄紋時代の研究史 明治時代以前と大森貝塚』” (PDF). 公式ウェブサイト. 東北歴史博物館宮城県. p. 1. 2019年5月20日閲覧。
  22. ^ 廣岡義隆「古典のテキストについて:文学研究におけるテキスト論」『三重大学日本語学文学』第17号、三重大学日本語学文学研究室、2006年6月、13-21頁、ISSN 09184449NAID 120000947942 
  23. ^ 小田勝『日本語史要講』2008年 - Google "上古有人"
  24. ^ 大串貝塚”. 小学館日本大百科全書:ニッポニカ』. コトバンク. 2019年5月20日閲覧。
  25. ^ 大串貝塚”. 講談社『国指定史跡ガイド』. コトバンク. 2019年5月20日閲覧。
  26. ^ 大串貝塚”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』. コトバンク. 2019年5月20日閲覧。
  27. ^ 大串貝塚”. 小学館『精選版 日本国語大辞典』. コトバンク. 2019年5月20日閲覧。
  28. ^ 衣袖漬常陸國風土記 託賀郡/賀毛郡/美嚢郡 針間播磨國風土記 託賀郡
  29. ^ a b 安部晃司他 著、人文社編集部 編『日本の謎と不思議大全 東日本編』人文社〈ものしりミニシリーズ〉、2006年、122頁。ISBN 978-4-7959-1986-0 
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  37. ^ 山主敏子『さがみはらのふるさと絵本』相模原市教育委員会、1999年11月、52頁。 
  38. ^ 巨人の足跡がある!?相模原市に残る巨人伝説「でいらぼっち」とは? - かなっぺ相模版|出かけよう!かながわの地域ポータルサイト for Smartphone”. kanape-sagami.com. 2022年8月28日閲覧。
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  40. ^ 『佐久口碑伝説集北佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会、全434頁中 218頁、昭和53年11月15日発行。
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  42. ^ 草野巧『幻想動物事典』新紀元社、1997年、190頁。
  43. ^ 大串貝塚ふれあい公園(埋蔵文化財センター)”. 水戸市 (2013年4月2日). 2017年4月17日閲覧。
  44. ^ 『佐久口碑伝説集北佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会、全434頁中、216頁、昭和53年11月15日発行。
  45. ^ a b 秋田の昔話・伝説・世間話 口承文芸検索システム 鳥の海の干拓
  46. ^ 『佐久口碑伝説集南佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会、全332頁中 105頁、昭和53年9月20日発行。
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参考文献[編集]

関連項目[編集]