ソウ (玉器)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
本来の表記は「」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
良渚文化の玉琮。
成都市金沙遺址博物館中国語版が所蔵する十節玉琮。長大かつ硬い玉を上下から穿孔し、真っ直ぐの円孔に仕上げるには高度に熟練した技術が必要だったはずである。(岡村 (2008) p.63)

(そう、)は古代中国で祭祀用に使われた玉器。多くは軟玉から作られた[1][2]。外形は方柱状で[3]、長軸方向に円形の穴が貫通し、上下端は丸く円筒状になる[4]。方柱部の四隅には浮彫りや細線で、幾何学文様、神面、獣面、巨眼などが彫刻された[1][4]。円筒形の穴は天を、方形の外周は大地を象徴しており[5]、琮は天地の結合のシンボルであると一般に考えられている[6][7]

琮の起源は良渚文化まで遡り[1][4]、はじめ司祭者の腕輪だったものが、ほどなく据え置きの祭器に転じたと見られる[8]。良渚文化ではと共に神権の象徴として祭祀で中心的役割を担い[4][7]、その獣面神崇拝にもとづいて、とりわけ精巧な神人獣面文が施されていた[7]。副葬された状況より、長軸が長いほど所持した者の地位が高かったこと、製作と分配が支配者層によって一元的に管理されていたことが伺える[9]

良渚文化が衰えたのちも、琮は主に中原龍山文化へ伝播し、さらに西の斉家文化へと伝わっていった。西へと時代が下るにつれ、模倣を繰り返し方柱部の文様が簡略化・無地化されてゆく傾向が見られる[10]。中原では二里頭文化[11]もしくは二里岡文化[12]の時期に琮はいったん姿を消すが、代に再び現れる[12][13]代に至り、琮は礼法で地をまつる玉器として規定された[1][14]。また『周禮』は、諸侯が朝ずる際に天子の后へ献上するものとして琮を記している[12]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d 飯島 (2003) p.43
  2. ^ 松丸ら (2003) p.210
  3. ^ 二里頭文化や殷墟文化の玉琮には環形のものも多い。(飯島 (2003) p.136)
  4. ^ a b c d 松丸ら (2003) p.54
  5. ^ この象徴論は、例えば『淮南子』天文訓の「天道を円と曰い、地道を方と曰う」に見ることができる。(安田 (2000) p.123)
  6. ^ 安田 (2000) p.123
  7. ^ a b c 趙ら (2006) p.169
  8. ^ 岡村 (2008) p.60
  9. ^ 岡村 (2008) p.61
  10. ^ 岡村 (2008) p.74
  11. ^ 松丸ら (2003) p.56
  12. ^ a b c 飯島 (2003) p.136
  13. ^ 松丸ら (2003) p.54-56
  14. ^ 尹 (2007) p.222

参考文献[編集]

  • 安田喜憲 『大河文明の誕生(長江文明の探求)』 角川書店、2000年ISBN 978-4045229022
  • 『中国史 1 -先史〜後漢-』 松丸道雄(編)、池田温(編)、斯波義信(編)、神田信夫(編)、濱下武志(編)、山川出版社〈世界歴史大系〉、2003年(日本語)。ISBN 978-4634461505
  • 飯島武次 『中国考古学概論』 同成社、2003年(日本語)。ISBN 978-4886212665
  • 趙春青、秦文生 『先史―文明への胎動』 稲畑耕一郎(監)、後藤健(訳)、創元社〈図説 中国文明史 1〉、2006年ISBN 978-4422202525
  • 尹盛平 『殷周―文明の原点』 稲畑耕一郎(監)、荻野友範(訳)、崎川隆(訳)、創元社〈図説 中国文明史 2〉、2007年ISBN 978-4422202532
  • 岡村秀典 『中国文明農業と礼制の考古学』 京都大学学術出版会〈学術選書 36、シリーズ:諸文明の起源 6〉、2008年ISBN 978-4876988365

関連項目[編集]