セヴァストポリの戦い (第二次世界大戦)

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セヴァストポリの戦い
Eastern Front 1941-12 to 1942-05.png
セヴァストポリ侵攻時の戦線
戦争第二次世界大戦東部戦線
年月日:1941年9月から1942年7月
場所クリミア半島ソビエト連邦
結果:枢軸国軍の勝利
交戦勢力
Flag of the NSDAP (1920–1945).svg ドイツ
Flag of Romania.svg ルーマニア王国
Flag of Italy (1861-1946).svg イタリア王国
Flag of the Soviet Union (1923-1955).svg ソビエト連邦
指揮官
Flag of the NSDAP (1920–1945).svg エーリッヒ・フォン・マンシュタイン
Flag of Romania.svg ゲオルゲ・アヴラメスク
Flag of Italy (1861-1946).svg フランチェスコ・ミンベッリ
Flag of the Soviet Union (1923-1955).svg ドミトリー・コズロフ
Flag of the Soviet Union (1923-1955).svg イワン・ペトロフ
Flag of the Soviet Union (1923-1955).svg ゴーディ・レフチェンコ
Flag of the Soviet Union (1923-1955).svg フィリップ・オクチャーブリスキー
戦力
350,000以上 106,000
損害
100,000 以上戦死、負傷および捕虜 11,000 戦死、95,000 捕虜
独ソ戦

セヴァストポリの戦い(セヴァストポリのたたかい、ロシア語: Битва за Севастополя)は、1942年6月からのナチス・ドイツソビエト連邦カフカース地方への攻勢(ブラウ作戦)の準備として行われた、1941年9月から1942年7月にかけての、クリミア半島セヴァストポリ要塞でのドイツ軍とソ連軍の戦闘である。

戦いの背景[編集]

クリミア半島黒海に面し、東方のケルチ半島が黒海とアゾフ海を分かつ、戦略上の要衝である。ソ連黒海艦隊の基地と、ソ連随一の要塞セヴァストポリ要塞があり、ケルチ海峡を挟んで隣接するソ連南部のカフカス地方制圧のために、絶対に占領しておく必要があったが、陸路の侵攻ルートは地峡が多く、制圧は難航した。

戦いの経過[編集]

ペレコプ地峡突破[編集]

クリミア半島の制圧を任されたマンシュタイン第11軍は、1941年9月24日幅わずか7kmのペレコープ地峡に攻撃を開始。狭い地峡に奥深く敷かれたソ連軍陣地に苦しめられ、3日間激戦が続いたが、何とか突破、クリミア半島東部ではケルチ半島を、南部ではヤルタを制圧し、セヴァストポリ要塞を一時包囲した。

ソ連黒海艦隊の反撃[編集]

しかし、黒海艦隊は健在で、12月、海軍歩兵隊をケルチ半島に上陸させた。セヴァストポリにほとんどの部隊を集結させていたドイツ軍に対し完全に奇襲となり、東端のケルチにいた弱体な歩兵師団が包囲されてしまった。ドイツ軍はセヴァストポリの包囲を解いて反撃に出たが(トラッペンヤクト作戦)、ケルチ半島は東西に長く南北の幅は狭い地峡で、歩兵師団しか配属されていなかった第11軍はソ連の何重もの防衛線の突破に手間取り、翌年6月まで続く長期戦となったが、ブラウ作戦には何とか間に合った。

セヴァストポリ要塞攻囲戦[編集]

ドイツ陸軍に撃破されたセヴァストポリ要塞の30.5cm二連装砲塔。(戦後復元され三連装砲塔に改修されている。)

6月7日、セヴァストポリを再度包囲したドイツ軍であったが、ケルチ半島での戦闘の間に、要塞北面の地峡に多数の要塞砲を配置し、中でもガングート級戦艦の二連装主砲塔を流用して陸上に設置した砲台が特徴的であった(地下に旋回装置・弾薬庫・自動装填装置・兵員の居住区が設けられていた)とトーチカ群が設けられており、工兵が爆破処理するのは不可能であった。

そこで、マンシュタインは、新旧・大小問わず1,300門もの大砲をかき集め猛砲撃を加えた。その際、ドイツから80cm列車砲「グスタフ」を分解して持ち込んだ。グスタフは、鉄道のレールの上に設置する80cm40口径の大砲で、最大射程47km、弾薬も普通の榴弾の他に、徹甲弾の先端に大量の爆薬を詰めた砲弾(徹甲榴弾)も使用された。列車砲ゆえに旋回できないのが難点だったが、ゆるいカーブの付いたレールを敷くことで射角を確保した。なお、同砲は列車砲ではあるが設置するのに複線が必要な上、設置用のクレーンで更に外側に二本、合わせて四本もの鉄道路線が必要であり、他の列車砲のように線路の上を走らせて戦場に持ち込むような事はできなかった。

グスタフを始めとする重砲が開けた突破口から、短射程の砲が突入し、しらみつぶしに敵陣地を破壊していった。特に命中精度は低いものの大量の爆薬をばら撒けるロケット砲は、密集したトーチカ制圧に有効であった。当然のことながら急降下爆撃機による支援も行われている。

5日間の猛砲撃・爆撃で、要塞北面の陣地は全て破壊され、セヴァストポリ市街と軍港の包囲が始まった。要塞東面・南面にも防御陣地と砲兵隊が配置されていたが、北面ほど強力ではなく、次々と突破され、7月3日セヴァストポリは陥落した。

その後、第11軍をケルチ海峡を渡ってカフカース地方へ進撃させる案もあったが、ヒトラーはこれを却下し他の戦線へ転属となった。

戦闘後のセヴァストポリ[編集]

1944年1月に、ソ連軍の前進により、ペレコプ地峡での陸路による連絡が断たれると、海路による補給が必要なクリミア半島の保持は、ドイツ軍にとって大きな負担になり始めた。しかし、ヒトラーは、トルコへの政治的影響とルーマニアの油田地帯防衛の為、死守を命じた。1944年4月に、ソ連軍がクリミア攻略を始めると、ドイツ軍は、1941年にソ連軍が行ったようにセヴァストポリでの要塞防衛戦を行おうとしたが、防衛準備不足の為、わずか1ヶ月でセヴァストポリは陥落し、ドイツ第17軍のほとんどは失われた。