セントサイモン

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セントサイモン
Stsimon01.JPG
セントサイモンの写真
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1881年
死没 1908年4月2日
ガロピン (Galopin)
セントアンジェラ (St.Angela)
生国 イギリスの旗 イギリス
生産 バッチャーニ・グスターヴ
馬主 バッチャーニ・グスターヴ
第6代ポートランド公爵
調教師 ジョン・ドーソン
マシュー・ドーソン
厩務員 チャールズ・フォーダム
競走成績
生涯成績 10戦10勝(非公式1戦含む)
獲得賞金 4676ポンド
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セントサイモンあるいはサンシモン (St. Simon) は、19世紀末に活躍したイギリス競走馬である。以後のサラブレッドに絶大な影響を残したで、史上もっとも偉大なサラブレッド種牡馬と言われることもある。異名は「煮えたぎる蒸気機関車」 (Blooming steam-engine) 。

馬名表記は、由来による「サンシモン」、現在の英語による「セントサイモン」の2通りあるが、この記事ではより一般的な「セントサイモン」で統一する(詳細は下記参照)。

概要[編集]

デビュー前は見栄えのしない馬体や血統のため期待されておらず、さらに元の馬主が死亡したため当時のルールによりクラシックを戦う事はできなかった。代わりに下級戦やマッチレース、古馬の上級戦に出走を続け、10戦無敗の成績を残した。殆どのレースが圧勝で、アスコットゴールドカップは20馬身差の勝利だった。

グッドウッドカップを20馬身差で勝利した後、1年の休養を経て1886年から種牡馬入りした。種牡馬として空前の成功を収め、牡馬牝馬で1頭ずつの三冠馬を輩出し、クラシックを全勝した年(1900年)すらあった。その血統はイギリスに留まらず世界中に拡散し、サラブレッドの血統に多大な影響を残した。27歳の時に心臓麻痺で死亡するが、その後半世紀を待たずにセントサイモンの血を持たないサラブレッドはほぼ姿を消した。現在セントサイモンの血を持たないサラブレッドは存在しない。

馬名について[編集]

馬名はバッチャーニが傾倒していたフランス社会主義思想家アンリ・ド・サン=シモンが由来。当時は英語でも「サンシモン」と呼ばれていた。しかしアメリカ英語の影響を受けた現在、イギリスでも「セントサイモン」と訛り、それに従い日本でも「セントサイモン」と呼称される場合が多い、近年元の呼称に従い「サンシモン」と表記する場合も増えている[1]

生い立ち[編集]

出生[編集]

セントサイモンは、1881年にイギリス・東部イングランドサフォーク州にあるニューマーケットの近くでセントアンジェラの8番目の仔として生まれた。父はエプソムダービーガロピン。生産者はハンガリー貴族バッチャーニ・グスターヴである。彼は1838年にイギリスに帰化した後、1843年には自分の牧場を開いた。1859年にはジョッキークラブの一員となり、1875年にはガロピン (Galopin) でエプソムダービーを制したが、この頃から心臓を患うようになっていた。

バッチャーニのお気に入りだった父ガロピンは、負ける姿を見させたくないという側近の配慮によりその年限りで引退し、翌年からウィリアム・バローズの牧場で種牡馬生活へと入っている。だが、血統の悪さや、気性難で知られていたブラックロック (Blacklock) のインブリードを持っていたことにより全く人気がなく、初年度100ギニーだった種付け料が翌年からは50ギニーへと下げられている。交配相手も年に10数頭と少なく、しかもバッチャーニの所有馬ばかりという有様であった[2]

そんな中、バッチャーニよってセントサイモンの母セントアンジェラ (St. Angela) はガロピンと何度か交配された。1879年には後にエクリプスステークスを連覇するオームの母アンジェリカ (Angelica) が生まれ、セントアンジェラが16歳となる1881年にはセントサイモンが生まれている。

セントサイモンが仔馬の頃どのような馬であったかについては殆ど伝えられていない。僅かにドーソンが「厩舎に来たばかりのころはまるでのように鈍重で、のような動きをする目立たない馬だった」と述べている[3]

2歳(デビューまで)[編集]

2歳になるとバッチャーニが傾倒していたフランスの社会主義思想家「アンリ・ド・サン=シモン」から名前をもらい「セントサイモン」と名付けられた。だがその年の5月、生産者そして当時の馬主であるバッチャーニが、自身の持ち馬ガリアードが優勝した2000ギニーの僅か30分前に心臓麻痺で急死する。そのためセントサイモンを含むバッチャーニの持ち馬は7月のジュライセールに上場された。このセールには4年前にポートランド公爵とその財産・牧場を相続したウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクと、その持ち馬を管理していた調教師マシュー・ドーソンがフルメンという名の馬を手に入れるために訪れており、その馬が高くて買えなかったため何か気になるところのあった隣の馬房のセントサイモンを1600ギニーの手ごろな価格で競り落とした。

1600ギニーと手ごろな値段になった理由として、成長後で体高(肩までの高さ)16.1ハンド(約164cm)の雄大な馬格を誇っていたものの、胴が詰まりのろのろと歩くその様は見栄えのいいものではなかったこと、血統の悪さ、さらに既にクラシック登録(正確にはバッチャーニの方針により元々2000ギニーにしか登録がなかった)、及びフュチュリティ等の主要2歳戦の登録が締め切られ、その登録が馬主死亡のため無効(1928年にこの規則は廃止)になり出走権が失われたこと等が災いした。また、バッチャーニの元でセントサイモンを管理していたジョン・ドーソン(マシュー・ドーソンの兄)がこの馬を手放したくなかったためわざと太らせた上で汚くして見栄えを悪くしていたという話もある[4][5]。このセールでは父ガロピンが8000ギニーでヘンリー・チャップリン[6]に売却され、母セントアンジェラが320ギニーでレオポルド・ド・ロスチャイルドに売却されフランスに渡っている。

血統背景[編集]

父ガロピンについては前述(#出生)、詳細についてはガロピンを参照。父系エクリプス系の中でも傍流のキングファーガス (King Fergus) →ハンブルトニアン (Hambletonian) の流れをくんでいる。この系統はセントサイモンが登場するのと同時にガリアード (Galliard) やサンドリッジ (Sundridge) なども種牡馬として成功し隆盛を極めた。

母セントアンジェラはバッチャーニの生産馬、現役時代は8戦して1勝を上げていた。産駒はセントサイモンを含め5頭が勝ち上がっている。血統背景は父が英リーディングサイアーであるキングトム (King Tom) が目立つくらいで、母アデライン (Adeline) も1勝馬、その産駒で勝ち上がった者は4頭と平凡であった。これらが属す牝系は後に11号族のc分枝に分類されたが、1881年時点でこの牝系から生まれた活躍馬は皆無であった。その他血統構成は、父でインブリードされていたブラックロック(強烈な気性難で知られる)がさらに重ねられ、その息子ヴォルテール (Voltaire) と合わせ、父方に向かって近交が行われている。その他サルタン (Sultan) 、サーピーターティーズル (Sir Peter Teazle) 等ヘロド系の影響も強いが、当時流行していたストックウェル (Stockwell) 、ニューミンスター (Newminster) 、ハーミット等の血を殆ど含んでいない。当時としても全く見るべき所のない血統であるが、逆に一旦成功してしまえば殆どの繁殖牝馬とインブリードを気にせず配合できるといった血統上の利点も持っていた。

血統表[編集]

血統表及びその見方については競走馬の血統#血統表を参照

セントサイモン血統(キングファーガス系(エクリプス系) / インブリード:Voltaire4×4=12.5%(父内)、Sultan5x5=6.25%)

Galopin
1872 鹿毛
Vedette
1854 黒鹿毛
Voltigeur Voltaire
Martha Lynn
Mrs.Ridgway Birdcatcher
Nan Darrel
Flying Duchess
1853 鹿毛
The Flying Dutchman Bay Middleton
Barbell
Merope Voltaire
Juniper Mare

St.Angela
1865 鹿毛
King Tom
1851 鹿毛
Harkaway Economist
Fanny Dawson
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Adeline
1851 鹿毛
Ion Cain
Margaret
Little Fairy Hornsea
Lacerta F-No.11-c

競走馬時代[編集]

2歳時[編集]

7月中にはドーソンのヒースハウス(ニューマーケット)へと移り調教を受け始めた。最初の頃はさえない動きしか見せなかったが、徐々に能力の片鱗を見せ始め、7月31日グッドウッド競馬場のハイネイカーステークスでデビューすると、フランスの実績馬リシェリュー (Richelieu) を6馬身差で下し初戦を楽に逃げ切った。登録後に勝利したため翌日の未勝利戦では60.3kgのハンデをペナルティとして課せられるが、危なげなく勝った。続くデヴォンシャーナーサリーステークス、プリンスオブウェールズナーサリーステークスも楽勝し、この時翌年2000ギニーで2着になるセントメダル (St. Medard) を下している。さらに、当時セントサイモンと同じ厩舎にいたビジイボディ(Busybody、翌年の二冠牝馬、同年の2歳チャンピオン)、ハーヴェスター(Harvester、翌年のエプソムダービー勝ち馬)と走らせてみたところセントサイモンはこれらを全く相手にしなかった[7]

10月には出走できるレースがないのでセントサイモンと同期で既にリッチモンドステークス等に勝ち頭角を現していたデュークオブリッチモンド (Duke of Richmond) との500ギニーを賭けたマッチレースが行われた。この時にデュークオブリッチモンドを管理していた調教師ジョン・ポーターは、セントサイモンの様な血統も悪く実績も無い馬と対等に扱われたことが気に入らなかったらしく、「スタートしたらすぐに飛び出して、あの乞食野郎の喉を掻き切ってしまえ!」と言い、さらにドーソンも「奴らにその台詞をそのままお返ししてやれ」と怒鳴った。レースはセントサイモンの一方的な展開になり、スタート後瞬く間に差を広げると2ハロン(約400 m)通過時点で20馬身(約50 m)もの差をつけた。主戦騎手を務めるフレッド・アーチャーはその時点で手綱を引き、対戦相手に実力差を見せつける様にデュークオブリッチモンドが追いつくのを待ってから正確に3/4馬身差を保ちつつゴールした。レース後にドーソンは「セントサイモンは私が調教した最強の2歳馬だ、おそらく史上最高の競走馬になるはずだ」とコメントしている。

3歳時[編集]

翌3歳になると、クラシックには出走できなかったためセントサイモンは古馬に挑んでいる。まず、当時イギリスで大レースを勝ちまくり、最強とされていたトリスタン (Tristan) とのマッチレース(無賞金の非公式戦、ペースメーカーが各1頭)が組まれ、これを易々と下した。次に出走したアスコットゴールドカップ(Ascot Gold Cup、芝20ハロン)はこの時代イギリスで権威の高い競走であったが、セントサイモンは破天荒なレースぶりで圧勝している。この時は体重調整がうまくいかなかったためアーチャーは乗れず、代わりにアーチャーには及ばないものの、この年のエプソムダービーでハーヴェスターを勝利に導いた名手チャールズ・ウッドが騎乗していた。スタート直後は後方を進んでいたものの、残り6ハロンで手綱を緩めるとよほどストレスがたまっていたのか制御が不可能になり、全馬一気に抜き去るとそのまま前年の勝ち馬トリスタンに20馬身の大差をつけて勝利した。さらに、セントサイモンはゴール後も騎手の制止命令を振り切り暴走を初め、1マイルも疾走し続けた。

また、アスコットゴールドカップに次いで当時権威のあったグッドウッドカップ(Goodwood Cup、芝20ハロン)でも、前年のセントレジャーステークス馬オシアン (Ossian) を相手に20馬身差で勝利している。このレースを最後に引退、奇しくもデビュー戦と同じ7月31日であり、僅か1年の現役生活に終止符を打った。

競走成績[編集]

年月日 競馬場 レース名 着順 騎手 距離 着差 1着馬/(2着馬)
1883年7月31日 グッドウッド ハルネイカーステークス 1着 F.アーチャー 5f 6馬身 (リシェリュー)
8月1日 グッドウッド メイドン 1着 F.アーチャー 芝5f 1馬身 (バルフェコルト)
9月1日 エプソム デヴォンシャーナーサリープレートハンデ 1着 F.アーチャー 芝5f 2馬身 (トリオンフィ)
9月14日 ドンカスター プリンスオブウェールズナーサリープレート 1着 F.アーチャー 芝7f 8馬身 (イアンビク)
10月24日 ニューマーケット マッチレース 1着 F.アーチャー 芝6f 3/4馬身 (デュークオブリッチモンド)
1884年5月15日 ニューマーケット 非公式トライアルマッチ 1着 C.ウッド 芝12f 6馬身 (トリスタン)
5月30日 エプソム エプソムゴールドカップ 1着 F.アーチャー 芝12f 単走
6月12日 アスコット アスコットゴールドカップ 1着 C.ウッド 芝20f 20馬身 (トリスタン)
6月26日 ニューカッスル
&ゴスフォース
ニューカッスル&ゴスフォースゴールドカップ 1着 C.ウッド 芝8f 不明 (キャッスルハースト)
7月31日 グッドウッド グッドウッドカップ 1着 C.ウッド 芝20f 20馬身 (オシアン)
  • メイドン - 未勝利戦。133ポンド(約60.3kg)の酷量、2頭立て。
  • 非公式トライアルマッチ - 非公式な競走だがレーシングカレンダーに記載されている。

引退後[編集]

引退後は1年の休養をはさんで1886年から種牡馬生活を開始した。急に環境を変えないよう配慮されたため、まずはニューマーケットにあるドーソンのヒースファームで供用され、翌年からはポートランド公のウェルベックアベースタッドに移った。

その後は毎日元気に運動をこなし、種牡馬としての仕事もこなしていたが、1908年4月2日彼の朝の運動のすぐ後に、心臓発作で倒れ死亡した。27歳であった。

骨格はロンドン自然史博物館、蹄はジョッキークラブとヨーク競馬博物館にひと組ずつ展示されている。墓標はウェルベックアベースタッドにある。

その他、イギリスのニューベリー競馬場では、秋にセントサイモンを記念するセントサイモンステークス(芝12f5y)が行われている。

種牡馬成績[編集]

種牡馬となったセントサイモンは初め50ギニーの種付け料で供用され、翌年100ギニーに引き上げられた[8]。初年度の産駒が2歳になった1889年に種牡馬ランキング3位につけると、翌年はメモワール、セモリナの2頭がクラシック競走を制し、2世代のみでリーディングサイアーの座に着いた。1892年にはラフレッシュ牝馬三冠を制覇し、その後もパーシモンセントフラスキン等の活躍により7年連続リーディングを維持した。1897-1899年の3年間は2位(1位ケンダル)、5位(1位ガロピン)、3位(1位オーム)と低迷するも、1900年1901年には再びリーディングを奪取した。この間種付け料も徐々に上がり、1899年に500ギニー、1901年には600ギニーすら付けた。ポートランド公がセントサイモンから得た収入は24万ポンドを超えたとされている。

1901年の種付け料600ギニーは前年の活躍による。この年は勝利数こそ27勝と低調に終わったが、史上唯一の五大クラシック全勝、その他の主要3歳戦であるプリンスオブウェールズステークス、ニューマーケットステークス、コロネーションステークスをも勝利し、ダービーの2着もセントサイモン産駒だった。加えて古馬の高賞金レースエクリプスステークスまでも獲得し、この年の産駒獲得賞金総額は58,625ポンドに達した[9]

産駒には、能力の高さ(ステークス優勝馬:25%)に加え、気性難も伝えた。ダイヤモンドジュビリーは三冠を制した名馬だったが、世話をする者の手をかみちぎる等手に負えず、騎乗できる者は限られていた。また、セントサイモンは鹿毛遺伝子をホモ(EE, AA)で持っていたようで、産駒は1頭の芦毛馬(ポステュマス Posthumus)を除いて全て鹿毛か黒鹿毛であった。なおセントサイモンの父ガロピンもホモ鹿毛で、気性難、多汗癖を持っていた事で知られている。

パーシモン(ダービー勝利時)

以下はセントサイモンが残した主な記録である。

  • 1890-1896,1900-1901年の計9回イギリスチャンピオンサイアー(歴代4位)
  • 1903-1907,1916年の計6回イギリスチャンピオンブルードメアサイアー(歴代1位)
  • 産駒イギリスチャンピオンサイアー頭数 - 3頭(歴代1位)
  • 産駒数/種付け数 - 423/775頭
  • ステークス優勝馬 - 107頭(25%)
  • 総勝利数571勝
  • イギリスクラシック勝利数 - 17勝(歴代1位)
  • 総獲得賞金 - 553,158ポンド(当時歴代1位)
  • 最高年間獲得賞金 - 58,625ポンド(1900年、当時歴代2位)
  • イギリス種牡馬成績の順位
1889 1890 1891 1892 1893 1894 1895 1896 1897 1898 1899 1900 1901 1902 1903 1904
3位 1位 1位 1位 1位 1位 1位 1位 2位 5位 3位 1位 1位 2位 3位 3位

直系子孫の急激な拡大[編集]

セントサイモンの種牡馬成績は20歳に達した1901年頃を境に下降線を辿り始める、1902年には息子パーシモンがセプター等の活躍によりリーディングサイアーになるとセントサイモンは2位に落ち、二度とリーディングを取ることはなかった。しかしセントサイモンに代わって産駒が種牡馬として活躍する様になり、パーシモンの他にもセントフラスキン、デスモンド等数多の後継種牡馬が登場した。イギリスでは1888年 - 1913年の26年間にガロピン系だけで19回種牡馬リーディング1位を取っている。1901年にはガロピンとセントサイモンの直系子孫で4勝、1902年にも直孫で独占し、1912年の種牡馬リーディングでは首位パーシモンを筆頭としてデスモンド、セントフラスキン、チョーサーウィリアムザサードの5頭が7位までにひしめいた。この頃イギリス国内で行われる重賞勝ち馬の半分までをセントサイモン系が占めるまでになったという。「セントサイモン系でなければサラブレッドではない」という言葉も使われるようになった。

セントサイモンの悲劇[編集]

しかし、この繁栄は長くは続かず1910年代半ばには衰退を始めた。1908年から1914年にかけ有力な種牡馬が相次いで死亡、その上残った種牡馬も輸出されたり失敗したりで活躍馬を出せなくなり、牡馬のクラシックホースは1914年のエプソムダービー優勝馬ダーバー(Durbar、フランス産)を最後に、イギリスチャンピオンサイアーは1913年のデスモンドを最後に獲得することができなくなってしまった。やがてイギリス国内でセントサイモン系とそのあおりを受けた父ガロピンの父系自体が姿を消した。さらにはオーストラリア、南アメリカに広がっていたセントサイモン系も同様に滅亡した。隆盛を極めたセントサイモンの父系があまりに短期間のうちに消滅してしまったために「セントサイモンの悲劇」と呼ばれている[10]

この現象はサラブレッド血統史上しばしば見られることで、ハイフライヤー (Highflyer) やテディ (Teddy) などにおける父系発展の阻害も同様の現象とされる。正確な原理は議論があるが、ある種牡馬の血が交配可能な牝馬の大半に行き渡ると、その種牡馬の系統に属する種牡馬は近親交配を避けるために満足な交配機会を得られず、その結果急に勢力を減じるというのが一般的な説である[11][12]

その後のセントサイモン系[編集]

詳細はセントサイモン系及びリボー系を参照

セントサイモン系はイギリス内では完全に途絶えてしまったため、その後は輸出された馬の子孫によって主にフランス、イタリア、ロシアで展開した。これらの一部は後に勢力を増し、1938年にはついにボワルセル(Bois Roussel、フランス生まれ)がセントサイモン系として25年ぶりにエプソムダービーに優勝した。これ以降イタリアからリボー (Ribot) 、フランスからは他にマシーン (Massine) 、ワイルドリスク (Wild Risk) 、プリンスローズ(Prince Rose、ベルギー調教馬)等が出て1960,70年代には第二の隆盛期を迎えたが、2007年現在ノーザンダンサー系ミスタープロスペクター系の勢力拡大の影響もあり一時期程の勢いはなくなっている。

影響[編集]

英クラシック優勝馬におけるセントサイモン血量の推移(1890-1939年)
大種牡馬ノーザンダンサー
St. Simon血量を12.56%持つ
(6.7.6.7.6.7.7.8.8×8.8.9.9.10.9.9.10.8.8.9.8.8.9.10.10.10=12.56)

セントサイモンが後世のサラブレッドへ与えた影響は極めて大きい。現生するサラブレッドのほぼ全てはセントサイモンの血量を9-13%程度持つが、これは19世紀以降の種牡馬としては最大級であり、三大始祖にも匹敵する程である。サラブレッドの遺伝子プールの内10%程度はセントサイモン経由の遺伝子が占めているのではないかとも考えられている。これは20世紀初頭にセントサイモンの血が浸透した結果、セントサイモンをもつ馬同士の配合ばかりになったためである。なお、セントサイモンの血を一切持たない主要国のダービー馬は、1933年のフランスダービー馬トールが最後であった。

その他馬術競技用の馬においてもセントサイモンの名は見つけられる。1990年代馬術競技でトップクラスの活躍をしたセルフランセ100頭の内、26頭の父系祖先はセントフラスキンの後裔オレンジピール(Orange Peel、1919年生、自身はサラブレッド)である。

ヨーロッパ
イギリスはセントサイモンの影響を直接受けたため最も早くにセントサイモンの血が広がった地域である。フランスは、ラブレー、サイモニアンがチャンピオンサイアーになった。ドイツではアードパトリック (Ard Patrick) 、ヌアージュ (Nuage) 、イタリアはアヴルザック (Havresac) 等がかなりの成功を見せている。父系子孫以外にもセントサイモンを母の父に持つロックサンド (Rock Sand) やジョンオゴーント (John o'Gaunt) 、シニョリネッタ (Signorinetta) 等が登場した。この結果1922年を最後にセントサイモンの血を持たないエプソムダービー馬は出現しなくなった。
その後も、チョーサーが母の父として極めて大きな役割を持ち、ハイペリオン(Hyperion、セントサイモン血量18.75%)、ネアルコ(Nearco、同19.53%)、イギリスにおいて最初にセントサイモン系勢力を回復させセントサイモン系中興の祖と言われたボワルセル(同21.09%)等、セントサイモンの強いインブリードを持つ大種牡馬が相次いで登場している。
南半球
当時イギリスの統治下にあった現オーストラリア、現南アフリカ共和国にもイギリスから直接セントサイモン産駒が持ち込まれている。アルゼンチンは馬産が盛んで、三冠馬ダイヤモンドジュビリー、ジョッキークラブステークス馬ピーターマリッツバーグ等の一流産駒が導入されている。これらは実際に現地でリーディングサイアー級の活躍を見せた。これらの中には南米で土着化したり、牝系の基礎となったものもある。
日本
日本には、1901年にサンダー(英名Sanderling)が、後にジプロマット、ラフェックが持ち込まれている。これらは在来馬の馬匹改良に使われあまりサラブレッド生産に影響することはなかった。本格的にセントサイモンの血が入りだしたのは1910年頃からで、共にセントサイモンの孫にあたる輸入種牡馬インタグリオー(チャイルドウィック産駒、1908年小岩井農場が輸入)、ダイヤモンドウェッディング(ダイヤモンドジュビリー産駒、1909年に奥羽種畜牧場が輸入)が種牡馬として成功し始めてからである。また、インタグリオーと同時に輸入された繁殖牝馬群小岩井農場の基礎輸入牝馬の内数頭もセントサイモンの血を色濃く受けており、これら初期の日本馬産に大きく貢献した種牡馬・繁殖牝馬群は、現在でも古くから続く在来牝系の奥深くで見かける事ができる。その後もヨーロッパから輸入された馬を通じ浸透していった。なお、東京優駿勝ち馬は第1回から現在に至るまで全てセントサイモンの血を受けている。
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国は当初他の地域と比べセントサイモンの血が浸透するのが遅かった。もっともマンノウォー (Man O' War) やゼヴ (Zev) 等の血統表中には存在しており、1924年を最後にセントサイモンの血を全く受けないケンタッキーダービー馬は出現しなくなったが、全体としては長らく低く抑えられていた。これは、20世紀初頭の禁酒法時代の影響でサラブレッドが大量に余っていたため、そもそも輸入された馬がサンドリンガム (Sandringham) 等少数に限られていたのが主な原因である。その後アメリカにはヨーロッパ血統が導入され、逆にヨーロッパにはアメリカ血統が導入され格差はかなり小さくなっている。2008年にサラブレッドタイムス主導で行われた研究では、1984-2007年の24年間にアメリカ合衆国の大レースを勝った競走馬318頭の血統表中で最も影響力を持つ種牡馬はセントサイモンであるという結果が出ている。

代表産駒[編集]

  • パーシモン - エドワード7世の持ち馬。英二冠、ジョッキークラブステークス、アスコットゴールドカップを制した。代表産駒に四冠馬セプター等。イギリスチャンピオンサイアーになったのは4度で種牡馬としても産駒中最も成功した。
  • ラフレッシュ - ヴィクトリア女王の生産馬。1892年の牝馬三冠、翌々年のアスコットゴールドカップ等大レースを多数制した歴史的名牝。
  • セントフラスキン - パーシモンのライバル。2000ギニー、エクリプスステークス等。種牡馬としても成功(イギリスチャンピオンサイアー2回)。
  • ダイヤモンドジュビリー - パーシモンの弟で同じくエドワード7世の持ち馬。1900年に三冠を制す。
  • チョーサー - 競走馬としてはそれほどでもなかったが、母の父としての成功は史上屈指。
  • ラブレー - 競走馬としてはそれほどでもなかったが、セントサイモン系を現在へと繋げた。
  • フロリゼル - ダイオメド (Diomed) の父とは同名異馬。
  • ウィリアムザサード - アスコットゴールドカップ、ドンカスターカップを制した。1922年イギリスチャンピオンブルードメアサイアー。
  • デスモンド
    • Desmond、1896年 - 1913年) - 母ラベスデジェアール (Labbesse De Jouarre) 。
    • 生涯成績11戦3勝。主な勝ち鞍:ジュライステークスコヴェントリーステークス
    • 母はオークス馬という良血であったが現役時代は3勝のみ。種牡馬入り後はアブユール(Aboyeur、エプソムダービー)、ザホワイトナイト(The White Night、アスコットゴールドカップ2回、コロネーションカップ)、クラガノール(Craganour、エプソムダービー1位入線失格、2000ギニー1位入線2着降着)等の産駒を送り出し1913年チャンピオンサイアーとなった。直系子孫はセントサイモンの悲劇に巻き込まれ現在残っていない。
  • メモワール
    • Memoir1887年 - 1908年) - 母クァイヴァー (Quiver) 。
    • 生涯成績21戦9勝。主な勝ち鞍:オークス、セントレジャーステークス
    • ラフレッシュの姉で同じくヴィクトリア女王の生産馬。オークス、セントレジャーステークスの二冠に加え、ニューマーケットオークス、ニューマーケットステークス、ナッソーステークスも制し、1000ギニー、プリンスオブウェールズステークス、チャンピオンステークスでも2着に入った。本馬はセントサイモンの初年度の産駒にあたり父の成功を決定づけた一頭ということになる。産駒はミスガニング (Miss Gunning) 等。没後はウェルベックスアベータッドに埋葬された。

産駒獲得賞金上位馬は以下のとおり。

  • 34,706£ - パーシモン
  • 34,703£ - ラフレッシュ
  • 32,960£ - セントフラスキン
  • 28,185£ - ダイヤモンドジュビリー

主要産駒一覧[編集]

国名を明記していないレース、記録については全てイギリスでのもの

  • 1887年産
    • セントサーフ (St.Serf)
    • メモワール (Memoir) - オークス - セントレジャーステークス、ジュライカップ
    • セモリナ (Semolina) - 1000ギニー
    • シニョリーナ (Signorina) - ミドルパークステークス、オークス3着 - シニョリネッタ、シニョリーノの母
  • 1888年産
    • サイモニアン (Simonian) - 1910,12年フランスチャンピオンサイアー
  • 1889年産
    • ラフレッシュ (La Fleche) - 牝馬三冠、アスコットゴールドカップ、チャンピオンステークス、ケンブリッジシャーハンデキャップ、2着 - エプソムダービー
    • セントダミアン (St Damien) - ハードウィックステークス
  • 1890年産
    • ミセスバターウィック (Mrs Butterwick) - オークス - ファレーロンの母
    • スールト (Soult) - 1908-12年ニュージーランドチャンピオンサイアー
    • ビルオブポートランド (Bill of Portland) - オーストラリアの名種牡馬
    • チャイルドウィック (Childwick) - シザレウィッチ - フランスの名種牡馬でインタグリオーの父
    • レイバーン (Raeburn)
  • 1891年産
    • エイミアブル (Amiable) - 1000ギニー - オークス
    • サンダー (Sanderling) - 日本輸入
    • マッチボックス (Matchbox) - 2着 - エプソムダービー
    • セントフローリアン (St.Florian)
    • フロリゼル (Florizel) - グッドウッドカップ - アニリンの父系祖先 - パーシモンの全兄
  • 1893年産
  • 1895年産
    • カラー (Collar) - ハードウィックステークス
  • 1896年産
    • デスモンド (Desmond) - 1913年チャンピオンサイアー
    • ボニファス (Boniface) - ハードウィックステークス
    • マナー (Manners) - プリンスオブウェールズステークス
  • 1897年産
    • ダイヤモンドジュビリー (Diamond Jubilee) - クラシック三冠、エクリプスステークス - 1914-16,21年アルゼンチンチャンピオンサイアー
    • ラロッチェ (La Roche) - オークス - キャノビーの母
    • ウイニフレッダ (Winifreda) - 1000ギニー
    • サイモンデイル (Simon Dale) - プリンスオブウェールズステークス、2着 - エプソムダービー
  • 1898年産
    • ピーターマリッツバーグ (Pietermaritzburg) - ジョッキークラブステークス、1911年アルゼンチンチャンピオンサイアー
    • ウィリアムザサード (William the Third) - アスコットゴールドカップ、ドンカスターカップ、クイーンアレクサンドラプレート、2着 - エプソムダービー - 1911,14年サイアーランキング2位 - 1922年チャンピオンブルードメアサイアー
    • サンタブリジッダ (Santa Brigida) - ヨークシャーオークス - ブリッジオブキャニー、ブリッジオヴアーンの母
  • 1899年産
    • セントウィンデライン (St.Winderline) - 1000ギニーでセプターの2着 - ウールウィンダーの母
  • 1900年産
  • 1901年産
    • ダーレイデイル (Darley Dale) - エクリプスステークス
    • サンドニ (St. Denis) - プリンスオブウェールズステークス
  • 1902年産
    • プラムセンター (Plum Centre) - プリンスオブウェールズステークス
  • 1905年産
    • サイベリア (Siberia) - ジョッキークラブステークス
    • プライマー (Primer) - ハードウィックステークス、2着 - エプソムダービー
  • 1907年産
    • グレイシア (Glacier) - トボガン、シルリアン、ブルーアイスの母

牝駒の産駒[編集]

  • シニョリネッタ (Signorinetta) - ダービー、オークス
  • フェルス (Fels) - ドイチェスダービー
  • ロックサンド (Rock Sand) - イギリス三冠
  • ウールワインダー (Wool Winder) - セントレジャーステークス
  • チェリモヤ (Cherimoya) - オークス
  • スノーマーテン (Snow Marten) - オークス
  • トボガン (Toboggan) - オークス、ジョッキークラブステークス
  • ファレーロン (Phaleron) - ジョッキークラブステークス
  • ブリッジオブキャニー (Bridge of Canny) ジョッキークラブステークス
  • キャノビー (Cannobie) - ジョッキークラブステークス
  • プラッキーリージ (Plucky Liege)
  • ジョンオガウント(John O'Gaunt)
  • シニョリーノ (Signorino)

特徴[編集]

馬体[編集]

体高は16.1ハンド(約164 cm)、又は16ハンド(約163 cm)とされ、どちらにしても大型馬の部類に入るが、実際よりも小さく見えたとも言われている。凹型の背形を持ち、肩の高さよりも尻の高さの方が高く、また、体長が体高よりも7cm程短い胴が詰まった体格をしていた。これらの特徴は父ガロピンから受け継いだもので、後の子孫にも強く受け継がれた。

性格・気性[編集]

セントサイモンは極めて気性が悪く扱いづらい馬であった。特に何かを強制させようとするとそれが顕著に現れ極めて攻撃的になった[13]。アスコットゴールドカップでの暴走もこれが原因とされている。厩務員であったチャールズ・フォーダムは常に攻撃され続け命の危険を感じたため、ゴドルフィンアラビアン (Godolphin Arabian) やキンチェム (Kincsem) 、曾祖父のヴォルティジュール (Voltigeur) が等と仲良くなることで気性が落ち着いたという話を聞きつけるや気性の改善を図る為に猫を馬房に放してみた。しかし、即座に猫は口にくわえられ叩き殺されてしまった。短気からか常に発汗していた事も知られている。他にも夏に引退し次の繁殖シーズンまで1年近くあったにもかかわらず、気性を落ち着けるためにさらに1年間種牡馬入りを遅らせる等数々の努力が試みられたが、この気性の悪さは生涯直らなかった。なぜか蝙蝠傘だけは恐がり、そのため暴れて対処しようがなくなった時は、杖に帽子を被せて蝙蝠傘に模しセントサイモンを大人しくさせた[14]

その他のエピソード[編集]

騎手を乗せたセントサイモン

一度も全力でレースをした事が無いとされるセントサイモンだが、アーチャーによれば調教で一度だけ全力疾走をしたことがあるという。3歳時の調教の際、アーチャーが調子が悪いと感じ拍車をかけると、突然暴走を始めた。ポートランド公の手記には以下のように書かれている。「我々は見た、セントサイモンが厩舎の馬の前を全力で駆けていくのを、そして別の調教師の馬の前を、まるで狐の前の鳩のように視界から消えていった。」[15]

その後町はずれまで走ったところで、ようやくアーチャーはセントサイモンを止めることができた。その際「私は生きている限り2度と拍車は使わない。これはではなく煮えたぎる蒸気機関車のようだ」と語った[16]

セントサイモンの疾走はドッグレースに使われるグレイハウンド」の走り方にそっくりだったという話も残っている。また、ドーソン調教師はセントサイモンに常に電気的なものを感じていたという[17]。なお、この馬に因んだ蒸気機関車がある(LNER Class A1/A3の1両)。

評価[編集]

  • 関係者からの評価は軒並み高い。ドーソンは「私は生涯、真に偉大な馬といえるものをたった1頭だけ調教できた、それがセントサイモンだ」「もっと強調すべき点は、わずか1ハロンの距離でも、セントサイモンは3マイル(24ハロン)を走る時と全く同じ調子で疾走した。この馬には距離の長短はいささかの問題にもならなかった……」(『世界の名馬』(原田俊治著)より引用)と後に語っている。主戦騎手アーチャーは、後に騎乗したオーモンド(16戦不敗、三冠馬)と比較し、「間違いなくセントサイモンが上だ」[18]と答えている。
  • 1887年に行われた競馬関係者100人のアンケート(複数投票)による「19世紀の名馬 TOP10」 (Sporting Times) ではクラシックへの出走がなかったにもかかわらず53票を獲得し、グラディアトゥール (Gladiateur) 、ウェストオーストラリアン (West Australian) 、アイソノミー (Isonomy) に次ぐ第4位にランクされた。一方で、無敗の成績を残したもののクラシックへの参加がなかったため評価できるのは数戦に過ぎないとの意見もある。これらはいずれも産駒がデビューする前、競走馬としての評価である。
  • 種牡馬としての功績を含めた評価は更に高い。デニス・クレイグはその著書『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』の中で、「おそらく史上最も偉大なサラブレッドであろう」[19]と述べている。『イギリス平地競馬事典』も同様の内容でセントサイモンを紹介している。

主な対戦馬、及び関連性の高い馬[編集]

  • フルメン(Fulmen) - ポートランド公がセントサイモンを購入するきっかけを作った馬。セントサイモンと同じガロピン産駒で、バッチャーニ公死亡の際には同じセリに出され5000ギニーという極めて高い値段が付いた。競走馬としては期待に応えられなかったが後ドイツで種牡馬として成功する。ドイツチャンピオンサイアー3回。
  • ハーヴェスター - セントサイモンと同期のエプソムダービー勝ち馬。ダービーはサンガシアン (St. Gatien) と史上唯一の同着。一時マシュー・ドーソンの元で調教を受けていた。2歳時のトライアルレースではセントサイモン相手に大敗。のちハンガリーで種牡馬となる。
  • ビジボディ - セントサイモンと同期の二冠牝馬(1000ギニー、オークス)。ミドルパークステークスにも勝ち2歳チャンピオンにもなっている。一時マシュー・ドーソンの元で調教を受けていた。2歳時のトライアルレースではセントサイモン相手に大敗。
  • デュークオブリッチモンド - セントサイモンと同期。リッチモンドステークス等。ウェストミンスター公の持ち馬で2歳時にセントサイモンとマッチレースを行う。結果屈辱的な敗戦にウエストミンスター公は失望し、去勢されてしまった。
  • トリスタン - 3世代上の一流馬。1883年のアスコットゴールドカップ、ドーヴィル大賞典3連覇等29勝。セントサイモン相手に2度大敗するも同年のチャンピオンステークスとハードウィックスステークスは3連覇を果たしている。産駒にチョーサーの母カンタベリーピルグリム等。後フランス、ハンガリーで種牡馬となる。
  • オシアン - 1883年のセントレジャーステークス、サセックスステークス、グレートヨークシャーステークス等。グッドウッドカップでセントサイモンに大敗。
  • アンジェリカ - セントサイモンの姉で兄弟唯一の著名馬。競走馬としては未出走だったがオーモンドとの間に残したオーム (Orme) が種牡馬として成功し、グランデールとの間に残したディングルは牝系を伸ばした。スターロツチ一族の母系祖先に当る。

脚注[編集]

  1. ^ 『伝説の名馬(Part2)』
  2. ^ Thoroughbred Heritage - Galopin
  3. ^ 『世界の名馬』p.18
  4. ^ 『伝説の名馬(Part2)』p.101
  5. ^ Thoroughbred Heritage - St. Simon
  6. ^ ハーミット (Hermit) の馬主。当時高齢のハーミットに代わる種牡馬を探していた
  7. ^ 『伝説の名馬(Part2)』p.102-103
  8. ^ 当時最高の種牡馬とされていたハーミットが350ギニー
  9. ^ これ以上の記録としては、ストックウェルによる1866年の61,340ポンドという記録があるが、物価ベースではセントサイモンの方が上回る(この間賞金水準が15%程度低下している)。また、セントサイモンは27勝での記録であるが、ストックウェルは132もの勝ち数を重ねた上での記録である(セントサイモン産駒は数が少なかった上、勝ち上がり率がそれほど良くなかったため)。
  10. ^ ただし、衰退するのは父系だけで、父系・母系全体を通しての実質的な影響自体はそれほど減らない
  11. ^ 吉沢譲治『競馬の血統学』p.24-26
  12. ^ その他の理由として、近親交配の弊害、他父系に優秀な繁殖牝馬が流れる事で遺伝的アドバンテージ無くなる等がある
  13. ^ 『伝説の名馬(Part2)』p.104-106
  14. ^ 『世界の名馬』p.21
  15. ^ Thoroughbred Heritage - St. Simon、『世界名馬ファイル』p.27-28
  16. ^ Thoroughbred Heritage - St. Simon
  17. ^ 『世界名馬ファイル』p.27、『伝説の名馬(Part2)』p.106
  18. ^ 『世界の名馬』p.21
  19. ^ デニス・クレイグ著、佐藤正人訳『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』p.158

参考文献[編集]

  1. 山野浩一『伝説の名馬(Part2)』中央競馬ピーアール・センター、1994年、ISBN 4924426415
  2. 原田俊治『世界の名馬 セントサイモンからケルソまで』 サラブレッド血統センター、1970年、ISBN 4879000310
  3. St. SimonThoroughbred Heritage
  4. 同Thoroughbred Heritage - Galopin, St.Frusquin, Florizel II, William the Third
  5. 石川ワタル『世界名馬ファイル』KOEI、1997年、ISBN 487719293X
  6. St. SimonThoroughbred Bloodlines
  7. 日本中央競馬会編『サラブレッド世界百名馬』中央競馬ピーアール・センター、1978年

外部リンク[編集]