セルビア蜂起
セルビア蜂起(セルビア語:Српска револуција セルビア革命)とはオスマン帝国支配下のセルビアで発生したセルビア人らによる独立運動のことである。この蜂起は第一次(1804年 - 1813年)、第二次(1815年 - 1817年)の2期に分けられ、第二次蜂起の結果、セルビアはセルビア公国として独立を果たす。
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背景 [編集]
オスマン帝国の襲来 [編集]
14世紀、ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの元で全盛期を迎えた中世セルビア王国もドゥシャン死後、後を継いだウロシュ5世 (en) は若年で軍事、政治の才能が乏しかったため分裂、テッサリアは叔父のシメオン・ウロシュ (en) が、ヴァルダル川左岸は甥のデヤノヴィチが、西マケドニアはプリレプのヴカシン公 (en) がそれぞれ公として独立を宣言する事態に至っていた[1]。
しかしこの分裂はビザンツ帝国の内紛に乗じてガリポリ半島に橋頭堡を築いていたオスマン帝国にチャンスを与えた。1360年、アドリアノープルを占領したオスマン帝国軍は徐々に勢力を拡大、1389年6月15日、コソヴォ・ポリェへ至ったオスマン帝国軍は中世セルビア公国を中心とした諸侯軍をコソボの戦いで撃破、ここにオスマン帝国のバルカン半島支配が成立した[1]。
しかし、セルビア公国はすぐさま滅んだわけではなかった。規模こそ縮小されたが、オスマン帝国がティムールの攻撃に悩まされている間、セルビアはその攻撃を受けることなく短期間ではあったが、息を継ぐことができた。1427年以降、セルビアはハンガリーの援助を受けながらオスマン帝国への抵抗を続けたが、1441年にはセルビアの大部分がオスマン帝国の手に落ち、1441年、最後の要塞スメデレヴォが陥落したことでセルビア公国は完全にその息の根を止められたが、ツルナゴーラのみその手から逃れることができた[2]。
オスマン帝国支配下のセルビア [編集]
「オスマン帝国支配下のセルビア」を参照
オスマン帝国の侵入開始以降、セルビア人らは大移動を開始した。ボスニア、ダルマチア、ツルナゴーラ、スラヴォニア、ヴォイヴォディナ、彼らは各地に散らばった。1389年のコソボの戦い以降はドナウ川を越えて北方へ脱出する人々も現れた。そしてハンガリーへ脱出した人々は後にハンガリー対オスマン帝国の戦いで大きな役割を演じることになる[3]。
しかし、オスマン帝国に留まったセルビア人らも大勢現れた。彼らの中にはイスラム教へ改宗したものも現れ一部にはデウシルメ制によって強制改宗させられたものも居たが、その大部分はセルビア正教会を中心にキリスト教を奉じ続けた。これはオスマン帝国が宗教に寛容であったことや、地方行政や教会の業務に独立性が認められたこと主因であり、オスマン帝国はセルビア人らに圧制的ではあったが、堪えられないところまで厳しいものではなかった[4]。
また、デウシルメ制で徴用された者の中には大宰相まで上り詰めた者もいた。ソコロヴィチは大宰相にまで昇進すると、オスマン帝国の統治システムミッレト制を活用、セルビア正教ミッレトとしてペーチ総主教座を中心にセルビア正教会を構築して1551年以降、宗教上の自治を与え、セルビア人らのアイデンティティを保持させた[5][6]。
しかし、当初こそ圧政が行われることはなかったが、中央権力が及ばなくなり、パシャ等が腐敗しはじめると徐々に状況が悪化していった。また、オスマン帝国の精鋭、イェニチェリへの徴兵が行われたことがセルビア人らにとって最も不満が募ることであった。徴兵自体は1676年で終了したが、18世紀に入るとイェニチェリが腐敗化、セルビアの地域で重税を課すようになり、圧政を始めたため、セルビア人らはこれに苦しんだ[7]。
17世紀以降、オスマン帝国は頂点を越え、衰退へと向かっていた。1664年、ザンクト・ゴットハルトの戦い (en) でオスマン帝国軍がオーストリア軍に撃破され1883年にはウィーンから撃退された。そのため、1687年にはハンガリーを、1688年にはベオグラードを失った。この事態に至り、セルビア人らは狂喜しながらオスマン帝国へ対抗しようとした。しかし、オーストリア軍はスコピエまで南下したものの、カトリック系であるイエズス会の牧師等を伴って正教徒であるセルビア人らの改宗を目論んでいた。このため、セルビア人らはオーストリア軍への協力をやめる人が続出し、結局、セルビア人らの協力を得ることのできなかったオーストリア軍はドナウ川以北へ戻らざるを得なくなった。1699年、カルロヴィッツ条約が結ばれたことでハンガリー、クロアチア、スラヴォニアはオーストリア支配下となったが、セルビアはオスマン帝国に残されることになった[8]。
その後もオスマン帝国とオーストリアの間では戦いが続いてたが、1718年に結ばれたパッサロヴィッツ条約でワラキアの一部とティミショアラのバナート、そしてセルビアの一部であるサヴァ=ドナウ間の南方一体が譲渡された。しかし、オーストリアはセルビア人らにカトリックを押し付けようとしたため、セルビア人らはこれを嫌いオスマン帝国領へ南下、1738年に再びオーストリアとオスマン帝国との間で再び戦いが始まったが、セルビア人らはこれに協力することはなかった[9]。
そのためセルビア総主教アルセニエ4世(Арсеније IV)がセルビア人らにオスマン帝国と戦うことを説いたが、結局、セルビア人らはこれに協力しなかったため、オスマン帝国は再び勢力を盛り返し、1739年、ベオグラード条約 (en) が締結されるとオーストリアは再びサヴァ=ドナウ間南方一体を失い、ベオグラード、モラヴァ川 (en) 沿岸をも失った[10]。
1739年以降、セルビアは平穏な時代を迎えた。しかし、オスマン帝国の中央集権体制が弱体化したため、地方官吏の力が増していった。そしてさらにオスマン帝国辺境地となったセルビアにイェニチェリが駐屯、イェニチェリらはキリスト教系農民に重税を課し、虐待を行なったため、セルビア人らの状況は悪化する一方であった。また、その一方でオスマン帝国で特殊な地位を築いていたギリシャ系キリスト教徒であるファナリオティスらがギリシャ正教会の勢力増大を狙ってセルビア正教会の廃止を目論んだ。1766年、ペーチ総主教座が、1767年にオフリド大主教座がそれぞれ廃止されたことでセルビア正教会は事実上、廃止された[11][12]。
18世紀に入るとオスマン帝国が弱体化したことでロシア、オーストリアの勢力が徐々にバルカン半島へ広まっていった。特にロシアはピョートル大帝以降の拡大政策の元、バルカン半島のキリスト教、特に正教徒らへの干渉を強めていった。そしてさらにオスマン帝国を押し戻すのに協力者を必要としていたオーストリアと同盟を結んだ。ただし、この同盟は両国共にバルカン半島を手中に収めようと考えていたため、時に競争となることもあったが、18世紀を通じてロシア、オーストリアは行動を共にするようになった[13]。
1782年、オーストリアのヨーゼフ2世とロシアのエカチェリーナ1世はバルカン半島を分割することで秘密協定を結び、オーストリアはセルビアの一部、ヘルツェゴヴィナ、ボスニア、ダルマチア、モンテネグロを、ロシアは残りの場所をそれぞれ分割することが決定された。1787年、露土戦争 (1787年) (en) が勃発、ロシア、オーストリアの軍隊はオスマン帝国領へなだれ込んだ。この戦争でヨーゼフ2世はセルビア人らにオーストリア軍へ参加することを求める檄を飛ばすと、セルビア北部、シュマディア (en) 北部でセルビア人らが蜂起、戦況が有利に進むと愛国的感情まで湧き出す結果に至った[14]。
しかし1791年8月にオーストリア・オスマン帝国間でシストヴァ条約 (en) が、1792年にロシア・オスマン帝国間でヤッシー条約 (en) がそれぞれイギリス、フランス両国の干渉で結ばれ、セルビア人らは大赦と極わずかの公民権が与えられただけに留まり、セルビア人らの期待は裏切られた[15]。
また、その一方で1789年に発生したフランス革命やドイツ・ロマン主義の台頭はナショナリズムの思想をヨーロッパ西部に広げたが、バルカン半島諸民族の商人らがこれをバルカン半島へ持ち帰り、知識人らに影響を与えた[16]。
セルビア人らの状況 [編集]
オスマン帝国支配下のセルビアは15世紀にスメデレヴォ・サンジャク (en) として扱われ、18世紀にはパシャが管理するベオグラード・パシャルクと呼ばれていた。このベオグラード・パシャルクはシュマディヤ地方に限定され、その他、ヴィディン、ニシュ、レスコヴァツ (en) 、ノヴィ・パザルなど隣接したパシャリクにもセルビア人らは居住していた。ベオグラード・パシャルクはさらに12のナヒヤが設立されており、その他数個のナヒヤを統合してカーディも設立されていた[17]。
18世紀末まで、セルビア人らはナヒヤより下の行政単位で自治が与えられており、このナヒヤがオスマン帝国とセルビア人らの自治との接点であったが、このナヒヤの下にクネジーナが存在しており、ナヒヤの長であるクネズを集会(スクープシュティナ)で選出していた。また、このクネジーナの下には村長であるクメットが管理する村があり、この村の中でクネジーナの長であるクネズを選出、さらに租税分配等も行った[17]。
この村は約1,800存在したと言われており、さらに村の下には30から50のザドルガが所属していた。このザドルガは父系制大家族共同体であり、各単位で自給自足を行ない、また、セルビア蜂起の際には兵士の供給源となった。この時期、セルビア人らは主に農民として生活していたため、セルビアの言語学者ヴーク・カラジッチはこの状態を「セルビア人であるということは農民であるということ」と語っている[17]。
18世紀のベオグラード・パシャルクではヨーロッパ西部と比べると農業において未発達で牧畜に大きく依存していた。そのため、牧畜が発展したことで家畜を扱う商人が生まれ、彼らは農民から買った家畜をハプスブルク帝国などに販売して大きな利益を得ていたが、この家畜商人の中から後に第一次セルビア蜂起、第二次セルビア蜂起の指導者となるカラジョルジェ・ペトロヴィッチやミロシュ・オブレノヴィチが生まれる[17]。
そして、セルビアではセルビア正教会が自立できたこと、コソボの戦いを元とする英雄叙事詩が口述で伝承されたことなどのお陰でセルビア人としての民族的アイデンティティを確保することができた。そしてセルビアはオスマン帝国辺境地としてハプスブルク帝国と隣接したことで軍事的、経済的影響を受けていた[6]。
1787年に発生した露土戦争でオスマン帝国はロシア、オーストリアに敗北したが、これに伴いセルビア人らがオーストリアへ大移動を開始した。この動きの中でセルビア人らはオーストリアで義勇軍を結成して戦いに参加していた。この露土戦争終了後、オーストリアとオスマン帝国の間で結ばれたシストヴァ条約でセルビア人義勇兵の罪を問わないことやベオグラード・パシャルクでの内政自治が保障された[18]。
この内政自治を認めたオスマン帝国スルタンセリム3世はベオグラード・パシャルクで暴政を振るっていたイェニチェリの追放する布告を発布した。これはベオグラード・パシャルクがオスマン帝国辺境の重要拠点であったため、セルビア人らがオスマン帝国から離れていくことを防ぐための布告であった[19]。このイェニチェリの排除にオスマン帝国はキリスト教徒にまで援助を要請、これを鎮圧した[15]。
その一方で、ベオグラード・パシャルクのパシャ、ムスタファ・パシャは隣接するヴィディン・パシャルクのアーヤーン、パスヴァノールに対抗するためにセルビア人民兵を組織させた。しかし、パスヴァノールがオスマン帝国と和平を結んだことでセリム3世はこの民兵が脅威になると考えて1799年、イェニチェリのベオグラード・パシャルクへの帰還を許可した[19]。
ベオグラード・パシャルクへ帰還したイェニチェリらのダヒヤの称号を持つ4人の将軍らはパシャルクを掌握、自らの利益のためにセルビア人有力者やクネズ (en) 、聖職者ら72人を殺害した[19]。そのため、セルビア人らはイェニチェリによる大量虐殺を恐れなければならなかった[15]。
第一次セルビア蜂起 [編集]
詳細は「第一次セルビア蜂起」を参照
1760年に生まれたジョルジェ・ペトロヴィチ (en) はカラジョルジェという異名を持ち、1787年から1788年に発生したセルビアにおける蜂起にすでに参加していた豚商人であった。1804年、モラヴァ川とドリーナ川の間、シュマディア地方で村のクネズ、山賊であるハイドゥク、僧侶たちは農民らを率いてセルビアの地で圧政を行うイェニチェリ排除のために蜂起した。カラジョルジェもこれに参加、各地で発生した蜂起をまとめ上げ、指導者となった[20]。
カラジョルジェはセルビアに影響力のあるオーストリア、ロシアへ支持を要求、ロシアはこれに応じ経済的、外交的援助を与えた。1805年、カラジョルジェはスクープシュティナ(議会)招集、地方自治を与えるようオスマン帝国に要求したが、スルタンはこれを拒否した。そのため、これまでオスマン帝国支配下のセルビアで圧政を行っていたイェニチェリに対しての蜂起が様相を変化、この蜂起はセルビア人らの独立を目指す闘争となった[21]。
オスマン帝国はこの蜂起を鎮圧するために軍を送ったが、1805年の秋と1806年にセルビア人らはこれを撃破、ベオグラード、ポジャレヴァツ、スメデレヴォを占領、1807年にはセルビア北部におけるオスマン帝国最後の要塞、ウジツェも陥落した。この時、ロシア人らの義勇兵が到着、セルビア人らは気勢を上げたが、数に勝るオスマン帝国軍の攻勢は終ることがなかった[22]。
1808年から1811年にかけて、戦況は油断を許さない状況であったが、カラジョルジェの権威に対してセルビア人指導者層の間で諍いが発生、さらにフランス革命において登場したナポレオン・ボナパルトがヨーロッパで席巻するとロシアの政策も転向せざるを得ない状況に至っていた。1812年にロシア、オスマン帝国の間でブカレスト条約 (en) が結ばれ、セルビアの自治国化が約束されていたが曖昧であったため、セルビア人らはスルタンと交渉を行っていた。しかし、ロシアがナポレオンとの戦いに忙殺されていたため、1813年、オスマン帝国はこの間隙を利用してセルビア人らを圧倒的な軍勢で鎮圧、カラジョルジェらセルビア人指導者らはハンガリーへ脱出、第一次蜂起は終わりを告げた[22]。
募る不満 [編集]
再びセルビアはオスマン帝国支配下となった。しかし、セルビアへ戻ってきたイェニチェリやアルバニア人守備隊らは略奪や残虐行為を再び行なった。その頃、ウィーンではナポレオン失脚後のヨーロッパ秩序回復のためにウィーン会議が開かれていたが、これについてはほとんど顧みられず、ロシアが威嚇する程度しか行われなかった。セルビア人らはこの状況に至り、大虐殺が発生することを予想し始めていた[23]。
1814年末、第一次蜂起の指導者一人であったハジ・プロダン(sr)がチャチャク地方で蜂起した。これは特赦を行うことを引換えに収集をつけることが約束されたが、オスマン帝国のパシャは結局、この蜂起の指導者層らを虐殺した。これには第一次蜂起に参加していたが、さほど重要な行動をしておらず、また、セルビアに居残っていたミロシュ・オブレノヴィッチ (en) が収集のために行動をしていたが、この虐殺が行われたことで自らの身の危険を感じ[24]、蜂起の準備を行っていた[23]。
第二次セルビア蜂起 [編集]
詳細は「第二次セルビア蜂起」を参照
1815年4月、オブレノヴィッチは生まれ故郷、タコヴォ (en) で蜂起を開始した。政治に長けていたミロシュはオスマン帝国との折衝をうまく行ない、また、7月までにはルードニク (en) 、チャチャク、ポジャレヴァツ、クラリェヴォ (en) を占領、セルビア北部の解放に成功していた。また、ナポレオン戦争が終結していたことでロシアが影響力を行使、セルビア人とオスマン帝国の間で交渉が始められた[23]。
この交渉でセルビアはオスマン帝国下でオスマン帝国軍守備隊が駐屯はするが、ドナウ川以南に居住するセルビア人らに自治権が与えられ、武器の携帯、租税の徴収、ベオグラードで議会を開催することが許可された。しかし、その一方で、セルビア内ではミロシュによる非道行為が発生していたため、ミロシュらに対するセルビア人らによる蜂起が発生していた。そして、第一次蜂起の指導者カラジョルジェが1817年6月にセルビア入りしたが、この行動にはミロシュ、オスマン帝国双方が動揺を隠せず、カラジョルジェは暗殺された[25]。
1817年11月、スクープシュティナはミロシュを世襲制のセルビア公に選出、ミロシュはセルビア公となった。そして、セルビアはオスマン帝国支配下ではあるが、自治公国として自治権を獲得した[26]。
セルビア蜂起の意義 [編集]
この蜂起が成功した理由として柴は「セルビア教会が民衆の教会として存続したこと」、「セルビア民族の意識を高める民族叙事詩の存在」、「地方自治組織の存在」、「オスマン帝国辺境地というセルビアの地理的位置」を上げている[27]。
その後 [編集]
このセルビア蜂起を嚆矢とするバルカン半島における民族運動は後に続くギリシャ独立戦争にも影響を与え、さらに18世紀後半から19世紀当初に起こった民族自立運動へと繋がりその他のバルカン半島諸民族らにも影響を与えた。
セルビア [編集]
詳細は「セルビア公国 (近代)」を参照
1826年、ロシア、オスマン帝国間で結ばれたアッケルマン条約では1812年に結ばれたブカレスト条約で規定されたセルビアの自治が施行されることになっていた。しかし、セルビアは公国として自治権こそ獲得したが、オスマン帝国はミロシュを世襲公とすぐに認めようとしなかった。これは1815年以降、オスマン帝国が予備審議という形で交渉の引き延ばしを行い、これを認なくても済むようにしていたためであった。しかし、ロシアはこの遅延に対してオスマン帝国へ影響力を行使するために1828年、オスマン帝国を攻撃、この露土戦争 (1828年)ではロシアが勝利、1830年に結ばれたアドリアノープル条約でがミロシュは世襲公として承認され、セルビアの完全自治が認められた[28]。
しかし、国境については未解決であり、セルビア南部では6ヶ所のナヒヤがオスマン帝国領として残されていたが、ミロシュはオスマン帝国とエジプトの間で紛争が発生している隙にこの南部地域で動乱を発生させた上で秩序回復という名目でこれを占領、1833年5月25日、この地域もセルビア公国として認められた。そして1815年以降、予備審議として交渉を引き延ばしていたオスマン帝国の目論見もここに終わりを告げ[28]、セルビアはここに自治権を手に入れ、その後完全独立を果たした。
ブルガリアへの影響 [編集]
ブルガリアでは18世紀以降、パイシー・ヒランダルスキ (en) の登場以降、ユーリー・ヴェネリン (en) などの学者らがブルガリア人らの啓蒙に勤しんだ。そしてブルガリア人らが商業活動や他国で受けた教育、セルビア蜂起、ギリシャ独立戦争に参加したブルガリア人らの経験や伝聞を元にして民族的アイデンティティを成立させていった[29]。
1806年に発生した露土戦争でオスマン帝国は軍事組織の問題点を悪化させることになった。しかし、露土戦争終了後、オスマン帝国はこのセルビア蜂起に対処しなければならなかったため、オスマン帝国は中央権力の強化を大幅に行った[30]。
そしてオスマン帝国はヴィディンへ軍隊を送り、ヴィデンを拠点として権力を振るっていたオスマン・パズヴァノール・パシャの後継者を制圧してブルガリアで独立状態であったアーヤーンらを抑えつけることに成功した。1820年、バルカン半島におけるイスラム系軍事司令官は一部を除いてオスマン帝国支配下に収めることに成功した[31]。
さらに1821年に発生したワラキア蜂起とギリシャ独立戦争はオスマン帝国がブルガリアの支配強化を進めることになり、さらにブルガリアで暴政を振るっていたイェニチェリらは小アジアへ追放され、ブルガリアは再びオスマン帝国の強力な支配の元に収められた[31]。
しかし、1820年、ヴラツァの住民が主教の腐敗行為に対してオスマン帝国の特権階級でギリシャ人であるファナリオティスらが総括する正教会への貢納を拒否、さらに1825年にはスコピエで同様の運動が発生したが、どちらも失敗に終わった[32]。
1830年以降、ブルガリア人司祭の数が増え、1835年には失敗に終わったがタルノヴォの主教座にブルガリア人主教を着けようとする運動も発生した。1839年、オスマン帝国はムスリムとキリスト教徒の宗教的平等を宣言するとブルガリア人らはギリシャ人とも平等であると解釈、1840年代のブルガリア人らの民族意識に基づいた抗議運動が開始される[33]。
そしてさまざまな抗議運動の結果、1849年、オスマン帝国はブルガリア人コミュニティに独自教会を持つことを承認、さらに1850年には聖ステファン教会が完成[34]、この流れがやがてブルガリア独立への道筋となる。
脚注 [編集]
注釈 [編集]
参照 [編集]
- ^ a b 柴(1998)、p.98
- ^ クリソルド(1993)、p.112
- ^ クリソルド(1993)、p.114
- ^ クリソルド(1993)、p.115
- ^ 柴(1996)、pp.31-33
- ^ a b 柴(2001)、p.61
- ^ クリソルド(1993)、pp.115-117
- ^ クリソルド(1993)、p.118
- ^ クリソルド(1993)、p.119
- ^ クリソルド(1993)、p.120
- ^ クリソルド(1993)、pp.120-121
- ^ 柴(1998)、p.133
- ^ クリソルド(1993)、p.122
- ^ クリソルド(1993)、pp.122-123
- ^ a b c クリソルド(1993)、p.123
- ^ 柴(2001)、pp.60-61
- ^ a b c d 柴(2001)、p.62
- ^ 柴(2001)、pp.62-63
- ^ a b c 柴(2001)、p.63
- ^ クリソルド(1993)、p.124
- ^ クリソルド(1993)、pp.124-125
- ^ a b クリソルド(1993)、p.125
- ^ a b c クリソルド(1993)、p.127
- ^ カステラン (1994)、p.51
- ^ クリソルド(1993)、pp.127-128
- ^ クリソルド(1993)、p.128
- ^ 東欧を知る事典(1993)、p.246
- ^ a b クリソルド(1993)、p.130
- ^ クランプトン(2004)、p.71
- ^ クランプトン(2004)、pp.78-79
- ^ a b クランプトン(2004)、p.79
- ^ クランプトン(2004)、p.92
- ^ クランプトン(2004)、pp.92-93
- ^ クランプトン(2004)、p.94
参考文献 [編集]
- ジョルジュ・カステラン著 山口俊章訳 『バルカン歴史と現在』 サイマル出版会、1994年。ISBN 4-377-11015-2。
- 木戸蓊著 『世界現代史24バルカン現代史』 山川出版社、1977年。ISBN 9784634422407。
- 矢田俊隆編 『世界各国史13東欧史』 山川出版社、1977年。ISBN 4-634-41130-X。
- 柴宜弘著 『世界史リブレット45バルカンの民族主義』 山川出版社、1996年。ISBN 978-4-645-34450-1。
- スティーヴン・クリソルド著 田中一生・柴宜弘・高田敏明共訳 『増補版ユーゴスラヴィア史ケンブリッジ版』 恒文社、1993年。ISBN 4-7704-0371-2。
