セルジュ・チェリビダッケ
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| セルジュ・チェリビダッケ | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出生 | 1912年7月11日 |
| 出身地 | ルーマニア |
| 死没 | 1996年8月14日(満84歳没) |
| ジャンル | クラシック音楽 |
| 職業 | 指揮者 |
| 担当楽器 | 指揮 |
| 活動期間 | 1945 - 1996 |
| クラシック音楽 |
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| 作曲家 |
| ア-カ-サ-タ-ナ ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
| 音楽史 |
| 古代 - 中世 ルネサンス - バロック 古典派 - ロマン派 近代 - 現代 |
| 楽器 |
| 鍵盤楽器 - 弦楽器 木管楽器 - 金管楽器 打楽器 - 声楽 |
| 一覧 |
| 作曲家 - 曲名 交響曲 - ピアノ協奏曲 ピアノソナタ ヴァイオリン協奏曲 ヴァイオリンソナタ チェロ協奏曲 弦楽四重奏曲 - オペラ 指揮者 - 演奏家 オーケストラ - 室内楽団 |
| 音楽理論/用語 |
| 音楽理論 - 演奏記号 |
| 演奏形態 |
| 器楽 - 声楽 宗教音楽 |
| イベント |
| 音楽祭 |
| メタ |
| ポータル - プロジェクト カテゴリ |
セルジュ・チェリビダッケ (Sergiu Celibidache, 本名Chelibidachi/チェリビダッキ、1912年7月11日(当時ルーマニアで使用されていたユリウス暦では6月28日) ローマン - 1996年8月14日 パリ)はルーマニア生まれで、ドイツで活躍した指揮者・作曲家。
目次 |
[編集] 出生
ローマンに生まれ、第一次世界大戦中にヤシに転居、同地で21歳頃までを過ごす。6歳頃からピアノを学びはじめるが、これが直接音楽家を目指す契機にはならなかったようで、27歳になるまで天職を決めかねていたと告白している。父親は彼を政治家にしたがっていた、というのは本人の弁。ユダヤ文化の中心地であったヤシで育ちユダヤ人と深く交流したたため、イディッシュ語も堪能であった。
[編集] 指揮者として
チェリビダッケは初めパリに留学したが、1936年にドイツのベルリンに移り、ベルリン大学やベルリン芸術大学で哲学、数学、作曲、指揮などを専攻した。彼は戦時中もベルリンに留まり、同地で終戦を迎えた。
ベルリン滞在中にフルトヴェングラーの演奏会をチケットが手に入ろうが入るまいが聴き逃した覚えはない、と後年に回想している。戦後、ベルリン・フィルの常任指揮者だったフルトヴェングラーをはじめとする有名指揮者たちはナチスとの関係をとがめられて謹慎生活に入り、ロシア生まれの指揮者レオ・ボルヒャルトがベルリン・フィルを率いることになるが、わずか3ヶ月後の8月に米軍の誤射でボルヒャルトは帰らぬ人となった。このため、後継指揮者を探すコンクールが開かれた。受けるように勧めたのは師のハインツ・ティーセンだったという。この大事なチャンスに、チェリビダッケはあろうことか自転車のパンクか何かで遅刻したらしい。課題曲はブラームスの交響曲第4番第1楽章(一説によると交響曲第1番)。その結果は誰の目にも明らかだったらしく、審査員全員一致で優勝。ボルヒャルト死去のわずか6日後にベルリン・フィルの野外コンサートで指揮者デビューを飾る。曲はロッシーニのセビリアの理髪師序曲とウェーバーのバスーン協奏曲、そしてドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」だった。
連合軍がドイツ文化の非ナチ化を目指したことから抜擢されたチェリビダッケだったが、その2回目のコンサートにしてメンデルスゾーンの「イタリア」と、なんとナチスの旗印とも言えるワーグナーの「タンホイザー」序曲を組み合わせたプログラムでコンサートを開いている。当時としては最も早い時期でのワーグナー解禁だったが、純粋に音楽的な理由だとみなされたのか、連合軍のおとがめはなかったようである。
若い楽団員とファーストネームで呼び合い、わずかな食料を分かち合いながら戦後の混乱期を乗り切る(コントラバスのツェペリッツあたりがその最後の世代)。有名ソリストを海外から呼ぶこともできなかった時期に、フランス・ロシアものなどの新しいレパートリーを開拓することにも尽力した。活動初期は評論家の受けもよく、ベルリン・フィルを多く指揮し次期首席指揮者と謳われるが、フルトヴェングラーを深く尊敬していた彼は、フルトヴェングラーの非ナチ化裁判に協力するため奔走(この時期から早くもチェリビダッケのリハーサルに対してベルリン・フィルの楽団員の一部が不満を抱いていたのもフルトヴェングラーの復帰への要請が高まった理由といわれる)。2年後の1947年にフルトヴェングラーがベルリン・フィルに復帰した(とはいえ常任復帰は1952年に持ち越される。フルトヴェングラーは作曲活動に時間を割きたがっていた上に4ヶ国に分割占領されていたベルリンの行く末を疑問視していたようだ)。チェリビダッケは時にはフルトヴェングラーの「下振り」を嬉々として行いながら多くの事を吸収したが、早くフルトヴェングラーに常任に復帰して欲しいベルリン・フィルにとって、チェリビダッケの存在価値は次第に変質していった。原因の一つは、チェリビダッケの求める演奏技術レベルがフルトヴェングラーの要求よりも厳しく、自分の要求に答えられないベテランの団員を入れ換えたがっていたことである(事実彼は自分が「フルトヴェングラーより耳がよい」ことを自認していた上、晩年のフルトヴェングラーは薬の副作用による難聴に苦しんでいた)。その他には、彼の派手なアクションや指揮台上での足踏み、唸り声や渋面がスタンドプレーと受け取られ始め、ベルリンの演奏会批評でも叩かれたこともあった。
こうした雰囲気に嫌気がさしたチェリビダッケはベルリン・フィルの指揮回数を減らし、まずロンドンでの客演活動を始め、そしてヨーロッパ全域から中南米にいたるまで客演の範囲を拡大し、ベルリン・フィルと距離を置き始めた(とはいえこの時点でもベルリン・フィルの指揮回数はフルトヴェングラーよりチェリビダッケの方がはるかに多い状態であった)。1951年にはアメリカ人記者との会見の際にベルリン・フィルを批判、この件がフルトヴェングラーの耳に入り、部外者を相手に自分のオーケストラをけなしたとしてフルトヴェングラーの叱責を受けた。フルトヴェングラーがベルリン・フィル常任に復帰するのはこの翌年の事である。フルトヴェングラーは当初、なによりもカラヤンがベルリン・フィルを指揮することを阻止したかったので、そのためにも自分の思想的後継者であるチェリビダッケを後任に就けたいと考えていた節があった。だが、さまざまな事情から一度カラヤンがベルリン・フィルの指揮台に立つと、彼が非常に効率的なリハーサルをするスマートな指揮者であることがわかり、ときには暴言を発して厳しくオーケストラを締め上げるチェリビダッケに対する反発も強まっていった。そして、フルトヴェングラーが死の病に伏しているちょうどその時、チェリビダッケはベルリン・フィルとの「ドイツ・レクイエム」のリハーサルで最後の大衝突を起こして決別し、38年後の1992年3月31日に最初で最後の復帰を果たすまでベルリン・フィルを指揮する事はなかった。
フルトヴェングラー没後、ベルリン・フィルの首席の座はカラヤンが継ぎ、チェリビダッケはその後、イタリアの公共放送局RAI(Radiotelevisione Italiana)に所属する複数のオーケストラ(トリノ、ローマ、ミラノ他)や、スウェーデンやデンマークのオーケストラに転々と客演を重ねた。
1971年に、後のシュトゥットガルト放送交響楽団となる南ドイツ放送交響楽団の創立25周年コンサートを指揮し、そのブルックナーの交響曲第7番の演奏は評判を呼んだ。オーケストラもチェリビダッケの能力を高く評価し、以後およそ10年にわたり、チェリビダッケが望むだけのリハーサルを行い、そのかわり演奏を収録/放送することをチェリビダッケが「黙認」する形で両者の緊密な関係は続いた。南ドイツ放送局に残された映像素材からは、「シェヘラザード」などの放送用演奏は複数回行われたことが確認できる。そういう意味で、録音・録画を一切しない、という当時の触れ込みは必ずしも正確ではなかったといえる。
1979年からは、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め、シュトゥットガルト放送交響楽団とは放送用の録画が本人の意に染まない「編集」を行われた、という理由で1982年を最後に決別。また晩年にはミュンヘン市の芸術監督に就任した。
日本には1977年秋と1978年春に読売日本交響楽団に客演、1980年にはロンドン交響楽団と来日。手兵ミュンヘン・フィルとは1986年以降1990年、1992年、1993年と頻繁に訪れた。1986年の公演でのブルックナーの交響曲第5番以降、ブルックナーは来日公演の主要なレパートリーとなり、1990年10月にミュンヘン・フィルとともに来日した時は、ブルックナーの交響曲第4番、第7番、第8番を指揮して、7番、8番はハイビジョンによる録画も行われている。
相当な毒舌家で知られていて、ミュンヘン市当局は金で他の指揮者への批判を黙らせたとされる(クラウス・ウムバッハ)。また、カール・ベームが晩年にミュンヘン・フィルに客演しようとした際、チェリビダッケの毒舌(チェリビダッケはベームを「芋袋」「ドンゴロス野郎」と呼んでいた)を耳にし、それを演奏契約解除の通告と見做して出演を取りやめた、という逸話も残っている。反面、ベームが病気のため指揮できなくなったロンドン交響楽団の演奏会をわずか1日のリハーサルで引き受けるなど、普段からは想像できない人情家?ぶりを発揮することもあり、その本音はよく分からない。かつてチェリビダッケの毒舌(カラヤンを批判)が新聞の紙面を賑わせた際には、見かねたカルロス・クライバーがトスカニーニに成り済まして反論(天国でもカラヤンは人気者です)のテレックスを打った、ということもあった。この話には後日談があり、お忍びで来日していたクライバーがドイツに帰国する際、飛行機の中でミュンヘン・フィルとの来日公演を終えたチェリビダッケとなんと鉢合わせしてしまったのだ。どんな雷が落ちるかとびくびくしていたクライバーだが、なんとチェリビダッケのほうがつかつかと歩み寄ってクライバーの隣の席に座り、いろいろと音楽談義に花が咲いたのだという。もともとクライバーもチェリビダッケの海賊盤のコレクションを人に自慢するぐらいだから、テレックス自体も屈折した愛情から出たものだったかもしれない。
[編集] 厳しいリハーサル
彼のリハーサルは、全ての音が自分好みになるまで徹底的にリハーサルするというものであった。普通一週間かけるところを三週間のプローベを要求すると言われ、協奏曲以外は暗譜でスコア無しでセッションをする。フルニエをソリストに迎えてドヴォルザークのチェロ協奏曲を演奏したORTFとの演奏会(1975年ごろ)では紳士ながらもいつもの厳しさを発揮する彼の姿があるが、しかしソリストがバレンボイムだと妙に解釈がソリスト任せになり、スコアをめくり間違えるほど不勉強なコンサートもビデオに残されている。しかし例えばヴィオラ奏者が欲しいと思った、素晴らしいヴィオラを買う手助けをしたりするなどの優しい一面があったことがCDが発売されてから明らかになった。またオペラのような練習が限られるレパートリーは、この指揮者には経済的に全く不可能であった。オーケストラ・ピットとステージの上という、音響的にコントロールできない環境やソリストのわがままにも耐えられなかったのだろう。
[編集] 死後
1947年から1948年頃のフルトヴェングラーとともに行ったベルリン・フィルのイギリス演奏旅行と前後して、チェリビダッケは初めての公式のレコーディングを行っている。ベルリン・フィルを指揮してのメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、プロコフィエフの古典交響曲などがその最初期のもので、その直後にはロンドン・フィルを指揮してモーツァルトの交響曲第25番、チャイコフスキーの交響曲第5番と『くるみ割り人形』組曲などをイギリスでレコーディングしている。自らの録音のプレイバックを聞いて、「エンジニアがテンポをいじった!」と疑ったほど、その結果には満足がいかなかったらしい。ウォルター・レッグなどEMIのプロデューサーからかなりの悪条件でこき使われた、と感じたこともレコード業界不信を助長したらしいが、ホールのアコースティックに左右されるものをマイクの直接音収録で記録するのには限界がある、と悟ったチェリビダッケは以後、極端に録音媒体の発売を嫌い、ごく少数の例外を除いてはレコーディングは行わなかったが、別の意味でカラヤンとの録音が比較されるのも意識したと言われている。他の正規録音には、自ら作曲した『秘密の小箱』がある。(ドイツ・グラモフォン社録音)
なお、晩年になると、映像を伴う録画媒体の制作には積極的に(本人の言によればしぶしぶ)取り組み、演奏会のビデオソフトが発売された。
日本ではFMによる放送でファンを増やしていった。1977〜78年に単身で初来日を果たし読売日本交響楽団との共演。1980年にロンドン響を率いて一度、1986年以降はミュンヘン・フィルと数度に渡って来日しており、日本の聴衆も彼の生演奏に接する機会があった。
チェリビダッケの死後、遺族らが海賊盤が氾濫するのを恐れて(現に日本を中心に多くの海賊盤が出回っていた)と称して、未発表の演奏会の録音をドイツ・グラモフォン、EMIからCD化した。
[編集] 作品
作曲家としての作品は「秘密の小箱」以外に三曲の交響曲などがあり、音響を前面に押し出した近代・印象主義的作風と言われている。
[編集] 教育
シュトットガルト、ミュンヘン、マインツ、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン、東京、イタリアなどで多数の指揮者講習会やゼミナール・講義・コンクールを持った。また、ほとんどの演奏会の直前のリハーサルは市民や学生のために公開されていたが、ベルリン・フィルに復帰したときの演奏会はさすがにベルリン・フィル側が難色をしめしたのか、関係者以外立入禁止であっても、実際はシュトットガルト時代のようにベルリンの指揮科の学生が自由に出入りしてたと言われている。本人へのインタビューによると全世界で三千人の弟子を教えたと言われている。その教育法は実践部分はある意味齋藤秀雄のメソッドにも似ており、何もない所に「拍」を生み出すための筋肉の動きを重視したものだった。仏教徒である彼は音楽理論に関してはある意味禅問答のようであり、ああいえばこう言う、的な否定による消去法的な教育法であった。彼によるフッサールの現象学の講義は非常に難解である事で知られていた。また、サイババにも傾倒したと言われている。
[編集] 演奏解釈
「音楽は【無】であって言葉で語ることはできない。ただ【体験】のみだ。」というのがもっともシンプルにまとめられた彼の音楽論であろう。しばしば行われた「音楽現象学」の講義はさまざまな疑問を投げかけながら高慢な学生の鼻を折るどちらかというと意地悪なものであったようだが、その本質には「始まりの中に終わりがある」という思想が貫かれている。
実際の演奏に関しては、楽曲の徹底した構造分析と、モチーフによる構成の統一、時には極端なテンポ・音程の改変が採用されている。その意味では、彼と対照的にレコーディングのみの音楽活動を行うようになったグレン・グールドと奇妙な関連性が見られるが、音楽を最終的には聞き手の内面的な精神活動ととらえたチェリビダッケと、演奏者の中で純化されて結晶するものととらえたグールドとの間にはやはり根本的な違いがあると思われる。
後年チェリビダッケはフルトヴェングラーから音楽の深遠な洞察のすべてを学んだと語っている。あるとき指揮者がフルトヴェングラーにある曲のテンポ設定について質問したところ、フルトヴェングラーは「それは音がどう響くかによる」と答え、ホールなどのアコースティックを無視してメトロノームの数字だけを元に決められたようなテンポ設定は無意味だという事を悟ったという。
またハーモニーの純度・楽器間のバランスも徹底的に追求され、彼のトレーニングしたオーケストラは徹底的に室内楽的な「聞き合い」を要求されることになる。また弦楽器の肥大した現代オーケストラにおいては、木管楽器の増強がしばしば見られるが、そのことにより全奏時においても木管楽器の存在感は際立っている。しかしそれと相対するように、シュトゥットガルト時代には木管楽器にあまりに小さな音を要求したために奏者が楽器に詰め物をしなければならなかったという逸話も残っている。それはホールが響きやすかったためであり、そのためにピアノ(弱奏)を基調とした音楽作りが必要であると考えていたともいわれる。弱奏からの極めて広いレンジでの「チェリビダッケのクレッシェンド」は伝説的である。
演奏に関しては総じて晩年のテンポが非常に遅い事で知られている。最晩年のポルトガル・リスボンで演奏されたブルックナーの交響曲第8番は105分かかっている(普通は約80分)。その思想的根拠はどこにあったかと考えてみると、音楽を構成する諸要素が自律的な法則に従いながら生成・発展する、という原理原則を徹底しようとしたことによるのではないかという説がある。演奏者の勝手な解釈や気まぐれといった不純な要素をできる限り排除し、楽器同士のモチーフを正確に受け渡し、どんなに編成が大きくなってもハーモニーの透明度を維持しようとしたということである。そのためか、オーケストラ全体が一つの生き物として歩みながら表現を深化させていくような印象も得られる。また発言の中では、音楽的に重要な箇所にはそれなりの時間が費やされなければならないとも言っている。ミュンヘン時代に立って指揮ができなくなった時期と、チェリビダッケがテンポへのこだわりを見せ始めた時期の関連性を説く意見もある。その他、体力がなくなり速く振ることができなくなったという説などもあるが、それらのどれも正誤は定かではない。
他にもたとえば、ベートーヴェンの交響曲第8番やブルックナーの交響曲第3番での、テンポが速いために演奏不可能な部分を遅いテンポによって可能にしようとしたという説があるが、実際にそのインタビュー風景がドイツのラジオなどで頻繁に放送されている。そのため全体のテンポのバランスがいびつになったというのである。またチューニングにとても厳格で、30分以上かけたという事でも知られていた。ティンパニについてはリズム楽器としての機能と同時に低音楽器との音響的な調和を最優先し、単独の強打はまれであった。本人の「ドイツ的」演奏や晩年におけるブルックナーへのこだわりから、もっとも得意としたのはドイツ音楽であるように思われがちだが、ルーマニア出身とも関連付けられるリズム感や色彩感覚の豊かさからむしろフランス音楽の方がより合っていたと言う説もある。
現代音楽についてはバーンスタインのブーレーズのピアノ・ソナタ評のように真の理解者ではなかった。イタリアのシルヴァーノ・ブッソッティが自分のスコアを見せて音楽のカオスだと説明した際、そんな子供じみた考えの音楽は振りたくないと拒否した経緯がある。従って新ウィーン楽派以降の無調作品は彼のレパートリーになることは死ぬまでなかった。
彼は禅宗の仏教徒としても有名で、当然その演奏解釈にもその思想がジョン・ケージの作品と同じように反映されていると言われる。
「無」から生まれて「無」に帰るように、音の響き終わりを軽くディミヌエンドさせる演奏法は、主にシュトゥットガルト放送交響楽団時代に確立され彫琢されたといわれるが、ミュンヘン・フィルとの晩年においては細部のコントロールへのこだわりを捨て、ゆっくりとしたテンポと楽団員の自発性にゆだねた部分も多く見られるという。時にアンサンブル上の破綻も見られ、突出した金管やティンパニを含め、好みの分かれる部分である。
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