セルゲイ・プロコフィエフ

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セルゲイ・プロコフィエフ
Сергей Сергеевич Прокофьев
1918年、ニューヨーク
1918年、ニューヨーク
基本情報
出生 1891年4月23日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国、ソンツォフカ
死没 1953年3月5日(満61歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
職業 作曲家、ピアニスト
15ロシア・ルーブル切手に描かれたプロコフィエフの肖像

セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフロシア語: Сергей Сергеевич Прокофьев シェルギェーイ・シェルギェーイェヴィチュ・プラコーフィイェフ;ラテン文字転写の例:Sergei Sergeevich Prokofiev1891年4月23日 - 1953年3月5日)は、ロシア作曲家ピアニスト指揮者

現在のウクライナドネツィク州(当時はロシア帝国領)ソンツォフカ(Сонцовка;ラテン文字転写の例:Sontsovka)生まれのロシア人

帝政期のロシアに生を受け、サンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ。革命後、シベリア日本を経由してアメリカへ5回渡り、さらにパリに居を移す。20年近い海外生活の後、1936年に社会主義のソヴィエトへ帰国。作風は、こうした外的な環境に応じて大きく3つの時期に区分できる。

ソヴィエト時代には、ショスタコーヴィチハチャトゥリアンカバレフスキーらと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家とみなされたが、ジダーノフ批判を受けるなど、必ずしも総て順風であった訳ではない。

交響曲管弦楽曲協奏曲室内楽曲ピアノ曲声楽曲オペラ映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されており、演奏頻度が高い傑作も多い。特に、自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品があり、ピアニストの重要なレパートリーの一つとなっている。

目次

作風 [編集]

初期には急進的な作風を取る。長期の海外生活中の作品は、次第に新古典主義的で晦渋なものとなったが、ソヴィエト連邦への帰国後は社会主義リアリズムの路線に沿った作風へ転換し、現代的感覚と豊かな叙情性を併せ持つ独自の境地へ到り、多くの傑作を生んだ。

快活なリズム感、斬新な管弦楽法は、ティシチェンコシチェドリンなど後代のロシアの作曲家に影響を与えた。

理論的に音楽を構築するタイプの作曲家ではなく、シェーンベルクストラヴィンスキーバルトークのように音楽語法の発展に寄与した面は少ない。

ピアニストとしての活動 [編集]

アメリカへ渡る途中、日本でも帝国劇場などで3回のコンサートを行っている。アメリカ時代はピアニストとしての活動が主であった。しかし、その多くは自作曲の演奏である。

小説家プロコフィエフ [編集]

プロコフィエフは海外にいた1918年ごろにいくつかの短編小説を書いている。2003年にロシアで刊行され彼の新たな才能が知られるようになった。作品の多くが当時のモダニズム文学の流れを汲むもので、「エッフェル塔が歩き出す」といった奇想天外な内容である。しかし彼の「作家活動」は3年程度で終わり音楽活動に専念することになる。日本語の翻訳は2010年に刊行された。

性格と政治的態度 [編集]

来日時山田耕筰のフォローにもかかわらず、わがままな言動で当時の記者たちを随分と混迷させたことが、記録からわかっている。そこには「尊敬するべき現代作曲家などおらん」、「クロード・ドビュッシーはかなりインチキ」、「リヒャルト・シュトラウスはまぁ可」などの言動、あわせてニコライ・メトネルの作品を練習したことなどが残っており、必ずしもアヴァンギャルドな作曲家を無条件称揚していたわけではない(すでに穏健化が始まっていた)ことが推察できる。特に注目されるのは、楽壇政治に耐えるために共産党員ミラ・メンデリソンに媚び、妻リナ・リュベラLina Llubera(本名カロリナ・コディナ)を「売った」点については、多くのプロコフィエフ伝記から抹消されていた(親ソ連であった日本では当然であった)。その事実がようやく開示されたのは、エル・バシャによるプロコフィエフ初期ピアノ作品集がリリースされ、その作品集に対する栄誉を、亡命を余儀なくされた未亡人の彼女がエル・バシャに与えた辺りからである。この直後に彼女は亡くなっている。

生涯 [編集]

誕生と幼年期(1891年 - 1904年) [編集]

  • 1891年4月23日、農業技術者で貴族の農場の管理人をしていた父セルゲイ・アレクセエヴィチ・プロコフィエフ(1846年 - 1910年)と母マリヤ・グリゴリエヴナ・プロコフィエヴァ(旧姓ジトコヴァ、1855年 - 1924年)の息子として、ウクライナ地方南部のエカテリノスラフ県バフムート郡ソンツォフカ村に生まれた。プロコフィエフ家には、はじめ2人の娘が生まれたが、2人とも幼くして世を去ったので、3番目の子供セルゲイは特別注意を払って育てられた。
  • 1896年(5歳)最初の作曲。母親が譜面に起こしたヘ長調のピアノの小曲で「インドのギャロップ」と名づけられた。
  • 1898年(7歳)4手ピアノのためのハ長調の行進曲を作曲。
  • 1900年(9歳)両親に連れられ、モスクワでオペラ「ファウスト」、「イーゴリ公」、バレエ「眠りの森の美女」を見る。最初のオペラ「巨人」を作曲。
  • 1901年(10歳)第2のオペラ「無人島で」の作曲を始めるが、序曲と第1幕までしかできなかった。
  • 1902年(11歳)父の友人の甥ポメランツェフの尽力で、母と共にタネーエフを訪問。タネーエフの勧めでポメランツェフのレッスンを受けるが退屈きわまりないものであった。ソンツォフカに帰るとタネーエフの紹介でグリエールに師事。夏の終わる頃、ト長調の4楽章の交響曲を作曲。冬に2度目のタネーエフ訪問をし、グリエールと2人で交響曲を連弾するが、和声が単純すぎると評され、いっそう和声の勉強に集中するようになった。
  • 1903年(12歳)グリエールの指導のもとプーシキンによる本格的なオペラ「ペスト流行期の酒宴」を作曲。3度目のタネーエフ訪問。

音楽院時代(1904年 - 1914年) [編集]

  • 1904年(13歳)母に連れられペテルブルクのグラズノフを訪問。女流詩人マリーヤ・キルシュテットの勧めにより、フーケの詩によるオペラ「ウンディーネ(水の精)」の作曲を開始、第1幕を書く。サンクトペテルブルク音楽院(Санкт-Петербургская консерватория;ラテン文字転写の例:St. Petersburg Conservatory)に入学。リャードフ和声学クラスで学び、ボリス・アサフィエフと親交を結ぶ。
  • 1905年(14歳)音楽院当局への抗議文に署名。特別ピアノ・クラスに移りヴィンクレル(1865-1935)にピアノを学ぶ。オペラ「ウンディーネ」の第2幕を書く。
  • 1906年(15歳)リャードフの対位法クラスとリムスキー=コルサコフ管弦楽法クラスで学ぶ。ニコライ・ミャスコフスキーと親交。ミャスコフスキーとヴァイオリン・ソナタを共作し、プロコフィエフは第1楽章を書いた。
  • 1907年(16歳)オペラ「ウンディーネ」の第3幕と第4幕を書き、オペラを完成させる。
  • 1908年(17歳)チェルノフに連れられ、音楽サークル「現代音楽の夕べ」に参加する。ホ短調の3楽章の交響曲を作曲、グラズノフの斡旋でワルリヒ指揮の宮廷オーケストラの非公開リハーサルで演奏される。ヴィートル(1863年 - 1949年)に楽式を学ぶ。12月31日に「現代音楽の夕べ」で自作7曲(『伝説』『雪』『思い出』『躍動』『祈り』『絶望』『悪魔的暗示』)で初の公開演奏。
  • 1909年(18歳)音楽院の作曲科の課程を修了。ミャスコフスキーらに音楽院をやめずにピアノと指揮のクラスに入るように説得される。ニコライ・チェレプニンに指揮と作曲を学び、エシポワ夫人にピアノを学ぶ。ピアノ・ソナタ第1番Op.1を作曲。
  • 1910年(19歳)父が急死。
  • 1912年(21歳)「人民の家」ホールで作曲者のピアノ、サラジェフの指揮でピアノ協奏曲第1番が初演される。
  • 1913年(22歳)パーヴロフスクの夏の演奏会で作曲者のピアノ、アスラーノフの指揮でピアノ協奏曲第2番(初版)が初演される。曲はモダニズムに満ちており、賛否両論を巻き起こした。
  • 1914年(23歳)ピアノ科と指揮科を修了。音楽院卒業試験でバッハフーガと自作のピアノ協奏曲第1番を弾き、アントン・ルビンシテイン賞(ラテン文字転写の例:Anton Rubinstein prize)を得る。

革命前後(1914年 - 1917年) [編集]

  • 1914年(23歳)ヌヴェルと共にロンドン旅行に行き、ヌヴェルが催した招待会でロシア第一の興行家セルゲイ・ディアギレフ(セルゲイ・ヂャギレフ)と会う。ディアギレフにピアノ協奏曲第2番を弾いて聞かせ、その才能に驚嘆したディアギレフから一緒に仕事をしようと提案される。プロコフィエフはドストエフスキーの「賭博者」のオペラ化を申し出るが、オペラは流行遅れだと反対される。話し合った結果、ロシアの昔話をテーマにしたバレエを作ることになり、前衛的詩人ゴロデツキーと協力してスキタイ人の物語を題材にしたバレエ「アラとロリー」の台本を作り上げ、作曲に着手する。その合間に「アラとロリー」とは全く対照的な叙情性あふれる歌曲「みにくいあひるの子」を作曲。
  • 1915年(24歳)イタリアでディアギレフと再会する。ディアギレフに「アラとロリー」のスケッチを聞かせるが「筋は作為が多く、音楽はチェレプニン風で面白くない、もう1つ新しいバレエを書くべきだ」と上演を拒まれる。ディアギレフの家でストラヴィンスキーと会い、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を連弾する。ディアギレフが「アラとロリー」に代わる新しい題材をアファナシエフの「ロシア民話集」の中から選び、プロコフィエフに新しいバレエの作曲を注文する。帰国後、早速作曲に着手してバレエ「道化師」を完成させる。「アラとロリー」を改作して「スキタイ組曲」を完成させる。9月、ペトログラード音楽院に再入学してオルガン科に籍をおく。アルバート・コーツドストエフスキーの小説「賭博者」に取材して、オペラ「賭博者」を書くようにすすめられ、作曲に着手する。
  • 1916年(25歳)
  • 1917年(26歳)ロシアが革命の嵐に包まれる中、祖国を離れることを考え始める。

亡命と日本滞在(1918年) [編集]

  • 1918年(27歳)「古典交響曲」の初演を果たした直後、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意した。教育人民委員アナトリー・ルナチャルスキー(1875-1933)は、「君は音楽の革命家だ。我々は生活の革命家なのだ。手を取り合うのは当然ではないか。それでも行くというのならば邪魔はしないが...」と説得に努めたが、彼の亡命の意志は固かった。5月7日シベリア鉄道にてモスクワを発つ。31日、敦賀港に上陸し、6月1日、東京に到着。冬シーズン中の南米行きの船便を探すが出航した直後で、次便ではシーズン終了後になることから、8月になるまで日本に滞在してから北米へ向かうことにする。11日までは東京、横浜周辺に滞在。12〜18日、京都に滞在し、琵琶湖疏水祇園などを散策。13日には大阪を訪れている。19〜28日、奈良に滞在し、奈良ホテルに宿泊。奈良公園周辺を散策している。この奈良滞在中に、ピアノ協奏曲第3番等の原型となった白鍵四重奏曲の構想を練っている。29日に東京に戻り、以後離日まで東京、横浜周辺に滞在するが、7月19〜21日には軽井沢を、28日には箱根を訪れている。更に7月6日、7日には東京で9日には横浜で自作を含むピアノ・リサイタルを開催した。8月2日、離日。このプロコフィエフの日本滞在は、ヨーロッパの大作曲家の最初の日本訪問と言うことができ、評論家大田黒元雄徳川頼貞などとの交流により、日本の音楽界に少なからず影響を与えたといわれる。プロコフィエフはサンフランシスコに上陸し、9月にはニューヨークへ到着した。

遍歴:アメリカとパリ(1918年 - 1932年) [編集]

  • 1918年(27歳)-1922年(31歳)主にアメリカを拠点として、作曲家、ピアニストとして活躍する。そして1922年にはバイエルンの小村(エタル)に居を構える(The Classic Collection 第105号より)
  • 1923年(32歳)フランスを拠点として活躍を始める。アメリカで知り合ったカロリナ・コディナ(リナ)と結婚。翌年には子供も生まれる。

1920年代後半になると、しだいに祖国復帰を考えるようになる。

  • 1927年 短期間だけ祖国への回帰を果たす。この2年後の1929年のモスクワに於ける演奏会シリーズに着手する寸前に交通事故に遭い手を損傷したが故に公演を中止せざるを得なくなるが、これによって新しいソビエト音楽を数多く聴き、何年かぶりにロシアの音楽家たちとの交流をするきっかけとなって母国への帰郷に導く役割を果たしたという。(The Classic Collection 第105号)
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帰国(1933年 - 1941年) [編集]

第二次世界大戦(1941年 - 1945年) [編集]

戦争終了後の3年間(1945年 - 1947年) [編集]

晩年(1948年 - 1953年) [編集]

  • 1948年(57歳)ジダーノフ批判の対象となる。2月17日、プロコフィエフの作品を批判対象とする作曲家集会が開かれ、作品数曲が演奏され、その席上で芸術委員会議長と作曲家同盟書記長にあてたプロコフィエフの手紙が発表される。
  • 1949年(58歳)病状が悪化、医師から1日1時間しか作曲を許されなくなる。夏には部分的な言語障害まで起こし、作曲の時間は1日30分にまで減らされた。そんな厳しい状態の中、驚異的な速さでバレエ「石の花」を完成させる。直後、親友アサフィエフが1月に死亡していたことを知りショックをうける。
  • 1950年(59歳)組曲「冬のかがり火」を完成させるが、病状を悪化させ再入院、モスクワ郊外のバルビハ療養所に入る。8月に親友ミャスコフスキーが死亡。親友2人のあいつぐ死はプロコフィエフをひどく落胆させた。それでも仕事を続け、歌劇「戦争と平和」を一夜で上演可能な形に大改訂し、オラトリオ「平和の守り」を完成させる。
  • 1951年(60歳)組曲「冬のかがり火」とオラトリオ「平和の守り」が、1950年度スターリン賞第2席を得る。作曲家同盟主催によるプロコフィエフ60歳誕生日祝賀会がモスクワ作曲家会館で開かれ、同会場でピアノ・ソナタ第9番がリヒテルによって初演される。バレエ「石の花」から3つの組曲(「結婚組曲」、「ジプシー幻想曲」、「ウラル狂詩曲」)を編曲。13年前に作曲したチェロ協奏曲第1番の主題を使用してチェロ協奏曲第2番を作曲。
  • 1952年(61歳)チェロ協奏曲第2番がロストロポーヴィチの独奏とリヒテルの指揮によってモスクワで初演される(初演後さらに改訂を加え、『チェロと管弦楽のための交響的協奏曲』に題名を変更した)。最後の交響曲である交響曲第7番を完成、10月11日の初演に出席(これが最後の演奏会出席となった)。チェロのためのコンチェルティーノ(小協奏曲)の作曲に着手。
  • 1953年(62歳)「ソヴィエト音楽」誌 第1号に最後の文章となる「創作プラン」を発表。2月、作曲家同盟第6回総会で、交響曲第7番がソヴィエト交響曲の新しい達成だと認められる。3月5日午後6時、突然脳出血による呼吸困難に陥り死去。3月7日、カバレフスキーを委員長としてモスクワ作曲家中央会館にて葬儀。ノヴォ・デーヴィチー寺院のアサフィエフとミャスコフスキーの墓のそばに葬られた。偶然の一致だが、プロコフィエフの死はスターリンの死と同年同月同日で、その3時間前であった[1]

代表作 [編集]

交響曲 [編集]

劇場音楽 [編集]

歌劇 [編集]

バレエ音楽 [編集]

劇付随音楽 [編集]

  • 「エジプトの夜」(1933年
  • 「ボリス・ゴドゥノフ」op.70bis(1936年
  • 「エフゲニー・オネーギン」op.71(1936年
  • 「ハムレット」op.77(1938年

映画音楽 [編集]

管弦楽曲 [編集]

劇場音楽からの組曲 [編集]

その他の管弦楽曲 [編集]

協奏曲 [編集]

ピアノ協奏曲 [編集]

ヴァイオリン協奏曲 [編集]

チェロ協奏曲 [編集]

室内楽曲 [編集]

弦楽四重奏曲 [編集]

ヴァイオリンソナタ [編集]

その他の室内楽曲 [編集]

ピアノ曲 [編集]

ピアノ・ソナタ [編集]

第6番~第8番の3曲はいずれも第二次世界大戦中に完成されたため、「戦争ソナタ」の通称で呼ばれることがある。

その他のピアノ曲 [編集]

  • 4つの練習曲 op.2(1909年
    1. ニ短調 / op.2-1
    2. ホ短調 / op.2-2
    3. ハ短調 / op.2-3
    4. ハ短調 / op.2-4
  • 4つの小品 op.4(全4曲)(1908年
    1. 思い出
    2. 躍動
    3. 失望
    4. 悪魔的暗示
  • トッカータ op.111912年
  • サルカズム(風刺) op.17(全5曲)(1914年
  • 束の間の幻影 op.22(全20曲)(1917年
  • 年とった祖母の物語 op.31(全4曲)(1918年
  • 4つの小品 op.32(1918年
    1. 舞曲
    2. メヌエット
    3. ガヴォット
    4. ワルツ
  • 物自体 op.45(全2曲)(1928年
  • 2つのソナチネ op.54(1931年-1932年
    1. 第1番 ホ短調
    2. 第2番 ト長調
  • 3つの小品 op.59(1933年-1934年
    1. 散歩
    2. 風景
    3. 田園風ソナチネ
  • 思考 op.62(1933年-1934年
    1. アダージョ・ペンシエローソとモデラート
    2. レント
    3. アンダンテ
  • 子供の音楽 op.65(全12曲)(1935年
  • バレエ「ロメオとジュリエット」からの10の小品 op.75(1937年

合唱曲 [編集]

歌曲 [編集]

  • みにくいあひるの子」 op.18(1914年
  • 5つの詩 op.23(1915年
    1. 屋根の下で
    2. 灰色の服
    3. 信じて
    4. 私の庭で
    5. 魔法使い
  • 5つの詩 op.27(1916年
    1. 太陽は私の部屋にいっぱい
    2. 真の愛情
    3. 太陽の思い出に
    4. おはよう
    5. 灰色の目の王様
  • 5つの歌詞のない歌 op.35(1920年
    後にヴァイオリンとピアノのための5つのメロディー op.35bisに編曲、珍しくペンタトニックがそのままでる。
  • 5つの詩 op.36(1921年
    1. 火と水の呪い
    2. 鳥の声
    3. 蝶々
    4. 私をおもえ
    5. 御影石

著書 [編集]

  • 『プロコフィエフ自伝・評論』(園部四郎、西牟田久雄共訳/音楽之友社/1964)
  • 『プロコフィエフ短編集』(サブリナ・エレオノーラ、豊田菜穂子訳/群像社ライブラリー/2010)

脚注 [編集]

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  1. ^ The Classic Collection 第105号

外部リンク [編集]