セルゲイ・ビリュゾフ

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セルゲイ・ビリュゾフ

セルゲイ・セミョーノヴィチ・ビリュゾフСергей Семёнович Бирюзов, 1904年8月8日 - 1964年10月19日)は、ソ連の軍人。ソ連邦元帥ソ連邦英雄

来歴[編集]

リャザン州スコピン市出身。1922年から赤軍。全ロシア中央執行委員会軍事学校(1926年)、M.V.フルンゼ軍事アカデミー(1937年)を卒業。1926年から小隊長、中隊長、大隊長を歴任。1937年、アカデミー卒業後、狙撃師団参謀長、その後ハリコフ軍管区参謀部作戦課長。1939年から狙撃師団長。

独ソ戦時、ビリュゾフの師団は、南西及びブリャンスク戦線で戦闘行動を行った。1942年5月からブリャンスク戦線第48軍参謀長、同年12月、スタフカ予備として編成された第2親衛軍の参謀長に任命され、冬の嵐作戦を発動したドイツ軍の撃破計画を立案。

1943年4月から南部戦線(10月20日から第4ウクライナ戦線)参謀長となり、ドンバス、北タヴリア、クリミアの解放作戦を組織。その後、ミウスク、メリトポリ作戦(1943年)、ニコポリ・クリヴォロシュク作戦(1944年)の組織に参加。

1944年5月から第3ウクライナ戦線参謀長となり、ヤッシー・キシニョフ攻勢作戦の計画立案に参加、第2ウクライナ戦線、海軍と協力してルーマニアブルガリア攻撃の際の統制を保障した。同年10月から第37軍司令官、ブルガリア軍附属主任軍事顧問第二次世界大戦時の功績に対して、ソ連邦英雄称号が授与された。

戦後、南方軍集団総司令官、駐ブルガリア連合国監督委員会副議長(1946年~1947年)、沿海軍管区司令官(1947年~1953年)、中央軍集団総司令官(1953年~1954年)、祖国防空軍第一副総司令官(1954年~1955年)、祖国防空軍総司令官/国防次官(1955年~1962年)、戦略ロケット軍総司令官/国防次官(1962年~1963年)、ソ連軍参謀総長/国防第一次官(1963年~1964年)を歴任。第2期、第4期~第6期ソ連最高会議代議員。

1964年10月、ベオグラード近郊の航空機事故で死亡。モスクワに埋葬。

ソ連邦英雄。レーニン勲章5個、赤旗勲章3個、一等スヴォーロフ勲章、一等ボグダン・フメリニツキー勲章、二等スヴォーロフ勲章を受章。


先代:
キリル・モスカレンコ
戦略ロケット軍総司令官
1962年 - 1963年
次代:
ニコライ・クルイロフ
先代:
マトヴェイ・ザハロフ
ソ連軍参謀総長
1963年 - 1964年
次代:
マトヴェイ・ザハロフ