セルギエフ・パサード至聖三者セルギー大修道院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

logo

セルギエフ・パサドの至聖三者セルギー・ラヴラの建造物群
ロシア

セルギエフ・パサドの至聖三者セルギー・ラヴラの建造物群
セルギエフ・パサドの至聖三者セルギー・ラヴラの建造物群
(英名) Architectural Ensemble of the Trinity Sergius Lavra in Sergiev Posad
(仏名) Ensemble architectural de la laure de la Trinité-Saint-Serge à Serguiev Posad
登録区分 文化遺産
登録基準 文化遺産(2),(4)
登録年 1993年
拡張年  
備考  
公式サイト ユネスコ本部(英語)
地図
[[画像:|275px|セルギエフ・パサード至聖三者セルギー大修道院の位置]]
世界遺産テンプレートを使用しています
  

セルギエフ・パサード至聖三者セルギー大修道院(せるぎえふ・ぱさーど しせいさんしゃせるぎーだいしゅうどういん、ロシア語 Тро́ице-Се́ргиева Ла́вра)はロシアにある正教会修道院モスクワから北方90キロメートルに位置するセルギエフ・パサード(セルギエフ・ポサード)の町にあるこの修道院は、ロシア正教会において最も重要な修道院のひとつであり、その精神的な支柱ともいうべき位置にある。トローイツェ・セルギエフ修道院とも呼ぶ。その建築もまた、ロシア教会建築の優品として知られる。なお、至聖三者Тро́ицеとは、正教会の用語で、キリスト教他教派でいう三位一体に当たる。また、大修道院と訳したラヴラ Ла́враLavraとは、ロシア正教会でも格の高い修道院をいう。世界遺産としての登録名は、セルギエフ・パサドの至聖三者セルギー・ラヴラの建築的遺産群(せるぎえふ・ぱさどのしせいさんしゃせるぎー・らう゛らのけんちくてきいさんぐん)。

至聖三者セルギイ大修道院の修道院長は、モスクワおよび全ロシアの総主教が務める。実務はセルギエフ・パサード駐在の院長代理が務める。

目次

[編集] 概要・歴史

[編集] 起源

至聖三者セルギー・ラヴラまたは、トローイツェ・セルギエフ修道院は、1345年ロストフ出身の聖職者であるセルギー・ラドネシスキーによって創設された。セルギー・ラドネシスキーがマコヴェッツ丘に三位一体を記念して建立した木造教会が起源とされる。修道院の初期の発展については、セルギーと彼の弟子達によって記録に残されている。

1355年セルギーは修道院の施設として食堂台所製パン所などを増築させた。修道院に施設の建築を義務づけた特許状は、以後、セルギーの多くの弟子たちの規範となり、これらの弟子たちはこの特許状に従ってソロヴェツキー修道院キリロ・ベロゼルスキー修道院 Kirilov-Belozersky Monastery、そしてシモノフ修道院を始めとする修道院を400以上建設した。

セルギー・ラドネシスキーは、中世ロシアにおいて宗教的権威の持ち主として多大な影響力を持ち、ロシア諸侯の紛争にあっては、仲介役として調停者の位置にあった。特にモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイに対しては支持を与え、1380年タタールのくびき」からロシアが解放される契機となるクリコヴォの戦いにおいて、戦いに赴くドミトリー・ドンスコイに対して祝福を与えている。また、セルギーの下で修道士であったペレスヴェートPeresvetオスリャービャOslyabyaの二人を闘いに送った。クリコヴォの戦いの戦端を切ったのは、ペレスヴェートとタタールの戦士チュルベイとの一騎打ちであったと伝えられる。ペレスヴェートはこの勝負で敗北し討ち取られた。1408年修道院はタタール人の急襲に遭い、火を掛けられた。

[編集] 聖セルギーの没後

1422年セルギー・ラドネシスキーは亡くなり、のち聖人に列せられた。同年、 最初の石造りの聖堂1389年コソボの戦いの後、この地を訪れていたセルビア人修道士たちの手によって建立された。この聖堂は聖セルギーの禁欲と神との一体感という理想が反映されている。そして、至聖三者三位一体)を記憶する至聖三者大聖堂(トロイツキー大聖堂)の名称が捧げられた。聖人の遺体はこの聖堂に安置され、不朽体に対する聖堂が行われた。

ルブリョフのイコン「至聖三者」。至聖三者聖堂にあった。

至聖三者大聖堂のイコノスタスは、中世ロシア最高のイコン画家である、アンドレイ・ルブリョフダニイル・チョールヌィイDaniil Chyorny, の手によるフレスコ画で装飾された。モスクワ大公国の諸侯らは、至聖三者大聖堂で洗礼を受けて、感謝の祈りをここで持つことが伝統となっていった。

1476年, イワン3世(大帝)は、聖神聖堂Храм Святого Духа を建設するためプスコフの建築職人を招聘した。この優雅な建築は、ロシア正教会の教会建築では頂上に鐘楼をいただく古い様式では最古のものの一つである。内陣はつや出しされたタイルが使用されている。16世紀初期、ヴァシーリー3世はニコン別館 Nikon annexとセラピオン・テント Serapion tentを建立し、セルギーの弟子の何人かは、そこで過ごした。

[編集] セルギエフ・パサードの発展

トロイツキー大聖堂(至聖三者大聖堂、1422年から1423年建設)

1559年イヴァン雷帝の命により、26年の歳月をかけて、六支柱式のウスペンスキー聖堂(生神女就寝聖堂)が建設された。ウスペンスキー聖堂は、モスクワクレムリンにある同名の聖堂を模して、同じ形、大きさで造られた。荘厳なイコノスタスは、16世紀から18世紀にかけて作られたもので、シモン・ウシャコフSimon Ushakovの最高傑作である、最後の晩餐のイコンがある。1684年内陣の壁面には、ヤロスラヴリの職人たちによって紫と青を基調としたフレスコ画が貼られた。地下納骨所には、ボリス・ゴドゥノフとその家族、20世紀の何人かのロシア正教総主教らが眠っている。

修道院は寄進によってロシアで最も裕福な地主の一つに成長していった。修道院の建物も増築され修道院を周囲から隔絶していた森も伐採されていった。修道院の周囲には門前町が形成され、現在のセルギエフ・パサードとなる。修道院自体は、ロシア史の記録とイコンの貴重な中心となっていった。1547年修道院の壁のちょうど反対側に聖パラスケワ教会が建設され、聖パラスケワ女子修道院が創設された。現在のヴヴェーデンスカヤ教会である。

[編集] 大修道院

1550年代になってモスクワ防衛のため同市の周囲には城塞都市が建設されたが、同様に修道院にも北東からの侵入に備え、周囲に12基の塔を備える1.5キロメートルの石壁が作られていった。1608年から1610年にかけてポーランド・リトアニア共和国によって行われた16ヶ月に及ぶトローイッツェ・セールギエフ大修道院の包囲戦 Siege of Troitse-Sergiyeva Lavraにも耐え抜いた。大聖堂門の漏斗孔は、1618年ヴワディスワフ4世による包囲戦を退けたことを記念して保存された。こうしてトローイッツェ・セルギエフ修道院は、ロシアにとって愛国心や不撓不屈の精神力の代名詞とも言うべき存在になっていった。歴代皇帝は、戦いの前後に修道院に赴き、聖セルギーのイコンを手に戦場へと馳せるようになった。

17世紀末まで、若きピョートル大帝が政敵から2度に渡り修道院に逃れるなどしたこともあり、皇帝や皇后、高位高官を迎えるための多数の施設が建設された。その中には皇帝のための迎賓館、御成御殿ともいうべきバロック様式皇帝宮殿がある。聖セルギーの食堂(トラーベズナヤ)は中央に柱などの支えが無い、ロシア最大規模510平方メートルを室内空間であった。5つのドームを擁する門上プレッテンチェースカヤ教会(バプテスマのヨハネ降誕教会)は、1693年から1699年にかけて、ストロガノフ家の寄付によって建設された。その他、17世紀の建築物としては、修道士の居室、ゾシマ・サヴァティー教会を頂く病院などがある。なお、教会建立の際、神聖と見なされる井戸が覆われてしまったが、後に1644年発見された。

1890年代に撮影された至聖三者セルギー・ラヴラ(トローイッツェ・セールギエフ大修道院)の光景

1744年女帝エリザヴェータ・ペトローヴナによってトローイッツェ・セルギエフ修道院は、ラヴラ(大修道院)の格を与えられた。以後、大修道院長は、モスクワ府主教も兼務するようになる。エリザヴェータ自身もしばしば修道院に行幸したが、こうした女帝の行幸には、女帝と秘密結婚をしたとの噂もあった寵臣アレクセイ・ラズモフスキー Alexey Razumovsky伯爵も同道した。ラズモフスキー伯は、スモレンスクにある聖マリア教会の管理も行っていたが、この教会は最後に大修道院の格を得た教会であり、エリザヴェータお気に入りのもう一つの教会であった。イワン・ミチューリンIvan Michurinドミトリー・ウフトムスキーDmitry Ukhtomsky. 設計による高さ88メートルの白と青のバロック式鐘楼は、当時としてはロシア一の高層建築であった。

[編集] ロシア正教会の中心的大修道院として

1764年女帝エカテリーナ2世により、ロシア国内の修道院が所有する領地と農奴は、国家の所有となった。この改革により、修道院が保持していた政治的、経済的権力基盤は堀崩され、国家による一元支配が貫徹されることとなった。もっとも、19世紀を通して、至聖三者セルギー・ラヴラ(トローイツェ・セールギエフ大修道院)は、ロシア正教の修道院中、最も豊かな地位を保った。エカテリーナ2世の聴悔司祭プラトンは、大修道院院長であったということで特別な配慮がなされたことも影響した。さらに大修道院は、ロシア正教会の一大宗教センターとして発展を遂げた。1742年に設立された神学校は、1814年に教会アカデミーecclesiastical academyに改組された。大修道院は写本と正教関係の書籍の一大コレクションを誇った。大修道院が所有する中世の聖具室sacristyは、たくさんの訪問客が訪れた。セルギエフ・ポサドの市内には、大修道院の他にも、いくつか小さな修道院が建立され、その中には哲学者のコンスタンチン・レオンチェフKonstantin Leontievヴァシリー・ロザノフVasily Rozanovなどが埋葬されている。

[編集] ロシア革命後

パノラマ

1917年ロシア革命後、ソビエト政権によって1920年に大修道院は閉鎖された。ソ連政府により、大修道院の建築物や装飾品、イコンなどは国有化された。1920年ソ連政府は、修道院群を野外文化財博物館に転用する決定をした。しかし、その後も文化財破壊は続き、1930年大修道院にあった鐘は全て鋳つぶされた。その中には、皇帝の鐘と呼ばれた65トンの重さを誇った鐘もあった。神学者のパーヴェル・フロレンスキー Pavel Florenskyと彼の部下は、ソビエト当局による大修道院の聖櫃物売却を防ごうとしたが果たせず、こうして多くの貴重な文化遺産が喪われ、他のコレクションへの混入や、ロシア国外に流出する事態を生んだ。

第二次世界大戦、さらに独ソ戦が勃発すると対独戦争完遂のため、スターリンは、従来、ソ連共産党が採っていた方針を転換し、国民のロシア・ナショナリズム愛国心の鼓吹のため帝政時代の英雄や宗教的権威を認めた。その一環として1945年大修道院跡はロシア正教会に返還された。1946年4月16日ウスペンスキー聖堂において、聖堂を再び礼拝のために用いるべく、成聖のための奉神礼が行われた。

大修道院には1983年までモスクワ主教座Moscow Patriarchyが置かれたが、ダニーロフ総主教 Danilov Monasteryによって主教座のモスクワへの遷座が決定された。以後、大修道院は、ロシア正教会における宗教教育の主要なセンターとして位置づけられた。また1960年代から1970年代にかけて、主要な文化遺産の復元修理が行われた。1993年至聖三者セルギー・ラヴラ(トローイッツェ・セールギエフ大修道院)は、ユネスコによって世界文化遺産に登録された。

かつて、天井の高いウスペンスキー(生神女就寝)聖堂は冬の奉神礼に適さなかったため、夏の間だけ用いられた。このため「夏の聖堂」、至聖三者聖堂を「冬の聖堂」と呼んだ。世界遺産登録後は、ウスペンスキー聖堂に床暖房が入り、季節を問わず奉神礼が行われるようになった。

現在、至聖三者セルギー・ラヴラ(トローイツェ・セールギエフ大修道院)では、いくつかの聖堂を用いて、朝5時から計4つの聖体礼儀が行われている。奉神礼には一般の信者も参加することが出来る。朝5時の奉神礼は、至聖三者大聖堂で行われ、普段はガラスで覆われている聖セルギーの不朽体に直接接吻をする機会が与えられる。このため早朝にもかかわらず多くの信者が参祷する。また修道院の一角にはホテルが設置され、多くの巡礼者がロシアを中心に集っている。

[編集] 世界遺産登録経緯

上述の通り、1920年ソ連政府によって、野外文化財博物館となり、その後、ロシア正教会によって文化財の復元修理が行われていった。1993年ユネスコによって修道院全体が世界文化遺産に登録された。

[編集] 登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
至聖三者セルギー・ラヴラ(トローイツェ・セールギエフ大修道院)のパノラマ

[編集] 外部リンク