セシリー・ネヴィル

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セシリー・ネヴィル

セシリー・ネヴィルCecily Neville, 1415年5月3日 - 1495年5月31日) は中世イングランドの貴婦人。ヨーク公リチャードの妻であり、2人のイングランド王 (エドワード4世リチャード3世) の母でもある。

セシリー・ネヴィルはウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィルジョウン・ボーフォートの娘であった。彼女の母方の祖父母はランカスター公ジョン・オブ・ゴーントキャサリン・スウィンフォードであった。ジョン・オブ・ゴーントはイングランド国王エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーの3番目の息子であった。

セシリーにはいくつかの呼び名があった。

  • 「レヴィの薔薇」(彼女がダラムのレヴィ城で生まれたことに由来)
  • 「誇り高きシス」(彼女の誇り高い気質に由来)

また、歴史的には彼女は信心深い人として知られている。

彼女は自分では「Cecily」ではなく「Cecylle」と署名していた。

ヨーク公妃[編集]

彼女が10歳の時(1425年)、セシリーの父は彼女をヨーク公リチャード(後の薔薇戦争ではヨーク派の指導者となる。当時14歳)と婚約させた。そのすぐ後にネヴィル伯爵は戦死したが、婚約は解消する事無く1437年に2人は正式に結婚。彼らの娘のアンはノーサンプトンシャー1439年8月に生まれた。

リチャードが1441年にフランス総督になってルーアンに赴任した時、セシリーは彼について行った。2月に息子ヘンリーが生まれたが、すぐ後に死んだ。

未来の国王であるエドワードは、ルーアンで1442年4月28日に生まれ、すぐに洗礼を施された。エドワードの誕生日については、ヨーク公不在の時期にあたるため、後にエドワードがヨーク公の実子ではないという議論がなされることになる。実際の所どうなのかは不明だが、事実としてエドワードは早産であり、早逝の恐れがあったので急いで洗礼を施された。

1454年頃、リチャードがサマセット公エドムンド・ボーフォートの権勢に憤慨し始めた頃に、セシリーはヨーク公の代理として王妃マーガレット・オブ・アンジューと話をした。ヘンリー6世がその年遅くに神経衰弱をこうむった時、リチャードは彼自身を摂政として認めさせた。

薔薇戦争勃発後、リチャードがアイルランドやヨーロッパ大陸に逃亡した時でも、彼女はラドローに残った。おそらくセシリーの姉のアン・ネヴィル (バッキンガム公ハンフリー・スタフォードの妻)に保護されていたのだろう。同時に彼女は、内密にヨーク派のためにも活動を行っていた。

ラドフォード橋の戦いにおける大敗でヨーク派が瓦解して、ヨーク公自身もアイルランドに逃亡していた1459年11月、ヨーク派の処遇を検討する議会が開かれた。セシリーは夫の嘆願のためにロンドンに出向いた。当時の記録によると、もしもヨーク公が8日以内に議会に出頭すれば恩赦にするよう、国王を説得していたと言われる。だがこれは失敗し、ヨーク公の所領は没収された。だが彼女は、彼女と子供達のために年間600ポンドの年金を受け取る事に成功した。1460年1月彼女はケントを訪問し、ケント派の代表者と来るべき同盟について会談した。

ノーサンプトンの戦いでのヨーク派の大勝を受けて、1460年7月にセシリーはロンドンに引っ越して、子供達とジョン・パストンと一緒に住んだ。10月にリチャードが公式に「ヘンリー6世の王位継承者」になると、セシリーも「次期王妃」になり、史官ジョン・ハーディングからイングランド編年史のコピーを受け取りさえした。

だが、1460年12月30日のウェイクフィールドの戦いで、ヨーク派は惨敗する。ヨーク公のほか、次男のラットランド伯エドムンド、彼女の兄ソールズベリー伯リチャード・ネヴィルも戦死する。セシリーは幼い息子たちをブルゴーニュ公フィリップ3世の宮廷に預ける。これによってブルゴーニュ公はヨーク派と同盟を結ぶ事になる。

2人の王の母[編集]

セシリーがロンドンのベイナード城に移ると、そこがヨーク派の作戦本部になった。彼女の長男エドワードはうまくランカスター派に対する戦いを続け、ランカスター派を打ち破って即位した(エドワード4世)。セシリーは皇太后になった。

エドワードの統治の初期には、セシリーは彼の横にあって影響力を行使していた。1461年、彼女は紋章を修正した。これは彼女の夫が正当な国王であった事をほのめかすために、イングランドの王室の紋章を取り入れたものである。エドワードがエリザベス・ウッドヴィルと結婚したとき、彼は母親が住み慣れた場所に住み続けられるように、王妃のために新しい住む所を建てた。

1469年、彼女の甥(兄の子)であり、彼女の子クラレンス公ジョージの義父でもあるウォリック伯リチャード・ネヴィルが国王に反旗を翻した。ウォリック伯は「エドワード4世は私生児であり、彼の本当の父親はルーアンのベンバーンという名前の弓の射手であった」という噂を広め始めた。彼の狙いとしては、正当な王位継承者が自分の義理の息子であるクラレンス公のものであるとしたかったのだ(もっともウォリック伯は以前にマーガレット・オブ・アンジューに対して似たような非難をしており、後にウィリアム・シェイクスピアは『リチャード三世』の劇中でこのクレームを使っている)。セシリー・ネヴィルがこの問題についてほとんど人前で語らなかったために真偽が定かでなかったにもかかわらず、彼女は姦通の罪で告発された。

ウォリック伯の反乱に対してセシリーは、多分関係者を和解させようとして、サンドウィッチを訪問した。また、反乱が最初に失敗した時、彼女は彼らを和解させるために国王エドワードとクラレンス公ジョージをロンドンに招待した。だが、平和は長くは続かなかった。だが次の戦争の時にも、彼女は自分の息子達を和解させようとしている。

1485年、セシリーは一人ぼっちになる。彼女の夫も、3人の息子も既に薔薇戦争で亡くなっていた。彼女は宗教活動に献身し、この時の活動から「信心深い」というイメージが定着する事になる。

セシリー・ネヴィルは1495年に亡くなった。彼女はローマ教皇による免罪と共に埋葬された。

子供達[編集]

セシリーとヨーク公リチャードの子供達は以下のとおり。

  1. ジョウン・オブ・ヨーク (1438年 - ?)
  2. アン・オブ・ヨーク (1439年8月10日 - 1476年1月14日) エクセター公ヘンリー・ホランドに嫁ぐ。
  3. ヘンリー・オブ・ヨーク (1441年2月10日 - ?(早逝))
  4. エドワード4世1442年4月28日 - 1483年4月9日)
  5. ラットランド伯エドムンド1443年5月17日 - 1460年12月31日)
  6. エリザベス・オブ・ヨーク (1444年4月22日 - 1503年1月以降) サフォーク公ジョン・ドゥ・ラ・ポールに嫁ぐ。
  7. マーガレット・オブ・ヨーク1446年5月3日 - 1503年11月23日) ブルゴーニュ公夫人になる
  8. ウィリアム・オブ・ヨーク (1447年7月7日 - ?)
  9. ジョン・オブ・ヨーク (1448年11月7日 - ?)
  10. クラレンス公ジョージ1449年10月21日 - 1478年2月18日)
  11. トーマス・オブ・ヨーク (1451年 - ?)
  12. リチャード3世1452年10月2日 - 1485年8月22日)
  13. ウルスラ・オブ・ヨーク (1454年 - ?)