セカイ系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
セカイ系(セカイけい)とは、アニメ・漫画・ゲーム・ライトノベルなど、日本のサブカルチャー諸分野におけるストーリー類型の一つである。 セカイ系という言葉は明確に定義されないまま、主にインターネットを通じて広がったため、意味するところは諸説あるが社会学、現代文学論、サブカルチャー論などで様々に言及されている。
目次 |
[編集] 狭義のセカイ系
セカイ系は「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』(これらについては後述する)など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義される場合があり、代表作として新海誠のアニメ「ほしのこえ」、高橋しんのマンガ「最終兵器彼女」、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』の3作があげられる[1]。
「世界の危機」とは地球規模あるいは宇宙規模の最終戦争や、UFOによる地球侵略戦争などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す[2]。これは「社会領域の方法論的消去」とも呼ばれるセカイ系諸作品のひとつの特徴であり[3]、社会領域に目をつぶって経済や歴史の問題をいっさい描かないセカイ系の諸作品はしばしば批判を浴びている[4][5]。つまりセカイ系とは「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に『世界の果て』とつながってしまうような想像力」で成立している作品であるとされている[6]。
セカイ系において、世界の命運は主にヒロインの少女に担わされる。陰惨な戦闘を宿命化された少女(戦闘美少女)と、それを傍観する以外は何も出来ない無力な少年というキャラクター配置もセカイ系に共通する構図とされている[7]。この傷ついた戦闘美少女(=「きみ」)と無力な少年(=「ぼく」)との恋愛が、世界の危機と平行した学園ラブコメディとして描かれることも多く、このため「きみとぼく系」と呼ばれることもある。そのため、ごく乱暴に「セカイ系とは『学園ラブコメ』と『巨大ロボットSF』の安易(ゆえに強力)な合体であって、つまり『アニメ=ゲーム』の二大人気ジャンルを組み合わせて思い切り純度を上げたようなものである」とも説明されることもあるのだが[8]、こういった極小化された「きみとぼく」の純愛世界と、誇大妄想的な「世界の危機」がシンクロして物語が進行するのがセカイ系の特徴であるのは前述したとおりである。
多くの論者はこうしたセカイ系はアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下で現れたと見ており[2][3]、「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」と呼ばれることもあるが[9]、「きみとぼく世界」+「世界の破滅」という構造はギャルゲー/アダルトゲーム特有の方法として現れたとする見方もある[10]。
[編集] 広義のセカイ系
セカイ系という言葉の初出は2002年10月下旬のことであるとされているが[11]、定義がはっきりしないままに広がった結果、前述のような定義よりも広い使われ方をしている場合もある。
例えば、セカイ系とは「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」という二つの根幹概念をもつ作品群のことであり、代表するのが、それぞれ清涼院流水のJDCシリーズと上遠野浩平のブギーポップシリーズだとする見方がある[5]。清涼院『カーニバル・イヴ』(1997年)中の「社会派ではなく世界派として小説とは異なる大説を目指す」という言葉に注目したゲーム・ライター元長柾木は、これを「セカイ系宣言」とみなした[5]。そして同じ1997年に発表された上遠野『ブギーポップは笑わない』と合わせてセカイ系の出発点とみなし、二人の作家の影響下に高橋しん、新海誠、秋山瑞人、木城ゆきと、川上稔、西尾維新、うえお久光などのセカイ系作家が現れたとしている[5]。
元長によれば、それまでのジュブナイル(ジュニア小説)からライトノベルが枝分かれしたのは、清涼院や上遠野が示した「セカイ系的なもの」の有無である[5]。これに従えばライトノベルはすべてセカイ系である。この見解は必ずしも広く支持されているとは言えないが、セカイ系をめぐる言説の一面をうまく説明はしている。たとえば前述の狭義のセカイ系には当てはまらない西尾維新、上遠野浩平などの作品をセカイ系的とみなしている文献は散見される(たとえば東浩紀[6])。また東浩紀はセカイ系の先駆として、「世界をコントロール可能なものとして捉えるような」神林長平のSF作品や[12]村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』をあげている[10]。もっとも東自身が認めるように「自意識と世界の果て、というモチーフ自体は、ある意味で文学の基本テーマそのもの」であり、セカイ系に固有のものではない。それはたとえばヨハネ黙示録を考えれば明らかであろう。そのモチーフが学園ラブコメディーや「萌え」と結びついたところにセカイ系の特徴がある[6]。
[編集] 参考文献
- 『ブギーポップの彼方に視えたもの』上遠野浩平インタビュー前編・後編、「波状言論」09-a号、10-a号、2004年
- 『セカイから、もっと遠くへ』新海誠インタビュー前編・後編、「波状言論」15号、16号、2004年
- 『猶予のセカイを超えて』神林長平インタビュー前編・後編「波状言論」21号、22号、2005年
- (波状言論は東浩紀責任編集発行のメールマガジンであり、後に書籍化、CD化されている。)
- 『波状言論臨時増刊号 HAJOUHAKAGIX 美少女ゲームの臨界点』東浩紀、ササキバラ・ゴウ、更科修一郎、元長柾木、2004年、ISBN:4-9902177-0-5
- 『コンテンツの思想』東浩紀著 青土社 2007年
- 『リアルの変容と境界の空無化』笠井潔 『空の境界』(奈須きのこ)下巻解説として所収 2004年 講談社
- 『社会領域の消失と「セカイ」の構造』笠井潔 小説トリッパー 2005年春号
- 『総特集 西尾維新』 ユリイカ9月臨時増刊号 青土社 2004年
- 『パブリック・エナミー・ナンバーワン』元長柾木 講談社MOOK「ファウスト」第五号所収 講談社 2005年
- 『飛躍の論理』前田塁 「文學界」2005年3月号
[編集] 脚注
- ^ 東浩紀他『波状言論 美少女ゲームの臨界点』の編集部注
- ^ a b 浅羽通明『右翼と左翼』 幻冬舎 2006年、p.199. ISBN 978-4344980006.
- ^ a b 笠井潔『社会領域の消失と「セカイ」の構造』、「小説トリッパー」2005年春号
- ^ 前田塁『飛躍の論理』、「文學界」2005年3月号
- ^ a b c d e 元長柾木『パブリック・エナミー・ナンバーワン』、講談社MOOK「ファウスト」第五号所収、講談社、2005年、pp.222-223, p.243, p.228, p.223, p.229
- ^ a b c 東浩紀、『猶予のセカイを超えて』前編、「波状言論」21号、2005年
- ^ 笠井潔『リアルの変容と境界の空無化』(『空の境界』(奈須きのこ、講談社)下巻解説として所収、2004年)pp.461-462. ISBN 978-4061823624.
- ^ 佐々木敦『「きみ」と「ぼく」の壊れた「世界/セカイ」は「密室」でできている?』(『総特集 西尾維新』「ユリイカ」9月臨時増刊号、青土社、2004年所収)p.159
- ^ (2004) このライトノベルがすごい!2005. 宝島社, p.140. ISBN 4-7966-4388-5.
- ^ a b 東浩紀「波状言論」10-a号 上遠野浩平インタビュー「ブギーポップの彼方に視えたもの」後編、2004年
- ^ 多くのインターネット情報では、発言者は「ぷるにえブックマーク(現・はてなダイアリー「投げすてろ人生」)」のぷるにえ(現・とかたき)であるとしている
- ^ 東浩紀 (2004) 『セカイから、もっと遠くへ』(新海誠インタビュー前編・後編)「波状言論」15、16号

